トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報
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1 O5 K: p2 }$ |% m4 V1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。% y$ J6 ~: n: b- K8 g

5 O. G. B* ?+ {) U5 t% p, h, ? 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。
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 本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。: z; W) I! N( L* Z& o
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 しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。
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 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。人在德国 社区& c- I2 H, T9 Z& s4 S5 U/ C% i

* Z& c$ @. |. W( [% f: V% t+ X5.35.249.64 私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。
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 その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。
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+ d; d0 r& J0 i5.35.249.64 そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。
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7 M/ X9 z8 y6 E- ] 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。5.35.249.64# t  i4 i( k/ n- R" A1 I3 U6 {

# P: J) b( R7 ~9 q. `2 a# S0 C べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。5.35.249.64- f% S! p2 k* P8 g

% u6 R0 Q. P2 R3 B- T トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。
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米特使が秘密訪中した2 p; P* M8 ?! e! f- J: B' q

) }) A5 T) C7 q0 F/ [& n 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。
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 しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。6 u  G8 H( L- A4 J) A. M1 N- `0 D

5 R( ^6 Z6 I2 v, a* D8 F ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。$ x' @0 m4 p1 g2 B& O3 G; {9 b  C
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 ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。
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3 y& C, x6 R- D5.35.249.64 「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」人在德国 社区6 z4 L( y$ J1 h/ {0 }  p: _' ^

* Y2 a0 i0 p" L# ^人在德国 社区 中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。
6 n+ a3 W3 I* @* c3 O* h0 r5.35.249.649 Y6 N% i5 E4 y5 L( y; q8 F* N" L
 トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。
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 「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」$ V0 ?: d4 E5 p8 ~0 J* K

: _; z0 K! E+ g* b% p& V" D& R 米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。
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 北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正)
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5 P2 p5 ~2 [$ U; }5.35.249.64【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。5.35.249.644 y( A8 [, h+ L# C
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 ●=深のさんずいを王に

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天安門事件の直後、「トウ小平氏毒殺」「軍はすでに内戦状態」といったデマを報じた1989年6月7日付の香港各紙/ _0 a* J, l% Q+ t; D/ ^
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1989年12月、北京の人民大会堂でスコウクロフト米大統領特使(右端)と会談するトウ小平氏(左端)。当時「天安門事件後初の米特使訪中」と報じられたが、実際には同年7月、すでに会談していた
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【トウ小平秘録】(36)第2部「南巡講話」 瀬戸際の改革 5.35.249.646 v7 `  f& f  P6 H9 p3 U# |
人在德国 社区; T' B/ S. ]. N# o. @3 U2 A
1989年7月1日、米大統領特使スコウクロフト補佐官(肩書は当時、以下同)とイーグルバーガー国務次官は、極秘裏に北京入りし、翌2日、トウ小平(しょうへい)氏と会談、李鵬(りほう)首相らとも会った後、同日夕には帰途に就いた。
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 軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。
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% I- k$ `# W" D2 O7 q1 G, q米中関係の危機だった
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3 s: m! }6 @. \1 m 前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。* Y& L( B# {7 ^8 w" b; U3 n+ H3 p

1 c* W- D% G1 C( j人在德国 社区 「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」
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" z! ^& y/ l( a6 T5 z7 a+ A5.35.249.64 「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載)
5 J$ f) [/ s6 f, t5 w, W& H2 _; _/ C5 @
( q% g* |* W+ r% b& g6 ~5 E5.35.249.64 天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。
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$ ?2 f5 N7 w) _, O0 i- z5.35.249.64 雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。
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 しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。
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 その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。
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 米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。
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 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。
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- @/ ^! \5 v# [: c9 Q5.35.249.64 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。3 T' d, @6 u( I) M7 Q

' i( |' i/ V2 @ 79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。( d9 ?9 I. L" ?* z) n8 z
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弾圧も正当化される. n4 e! ^0 q3 G- L
0 X. s! ~- W; m' ^; D: J) z
 外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。
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 後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。
  m) ~' }0 ^6 Z1 y5.35.249.641 y7 S6 c; v: H3 ]$ y& M8 ]7 Y
 理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。
- B$ Q* D9 y+ s人在德国 社区5.35.249.64& z; Z# M- W- g" z6 c5 }0 i
 「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。
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8 I# B% \2 ?3 o/ i. I. ~4 r& Z そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。5.35.249.64, A. W* Z4 S8 h5 I; r/ [9 @9 Y

/ m* C2 v, e: K8 F; } (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。1 ]' |7 E0 F: p! m5 ]- C& k$ M# n

( K; S' T  m* ]& [; `6 d. L, C( { これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。+ o4 I) O4 T# y

4 P- ^! V% N3 D 理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。: h7 ]# y5 y1 ~, r

3 {) w8 k0 X% g/ F人在德国 社区 天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正)人在德国 社区% m! Y7 x8 a( H9 Y0 a
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■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。
1 U& E" p* K) ?# x/ r6 p, n人在德国 社区
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人在德国 社区6 \( ~7 [8 f+ b6 l) S3 V
天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時)人在德国 社区7 D( }3 x4 I) p: {5 W, B1 I# X; |7 U

8 i2 {4 t8 E) E3 j* G; }
, g; {! ^" Q9 m, [& e3 {, k  I. v1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した

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【トウ小平秘録】(37)第2部「南巡講話」 米中秘密外交
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! M1 G- w. a% |& u, j; d■へたな妥協はできない人在德国 社区9 A% k3 u" J* E) z
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 米国の対中政策は、ダブルスタンダード(二重基準)とよくいわれる。1989年6月4日の天安門事件後、ブッシュ米大統領(現大統領の父親=肩書は当時、以下同)による対中秘密外交も例外ではなかった。共産党政権による最悪の人権蹂躙(じゅうりん)を声高に非難しながら、その政権と陰で手を結ぼうとしたのだから。
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 当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。
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 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。人在德国 社区4 ?! k( c7 Y) {( ]* J

$ h# e+ k9 Z5 q  G% ] スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。5.35.249.64& O! W2 w5 z* Y4 H* |4 b/ l

# T: O' |. X( D 銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。人在德国 社区: ~, j0 f8 O4 S0 w; S$ f: u
5.35.249.64) y; T. S/ p  j: K8 U% u9 @; g
 「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」0 N2 C$ ^2 C! R2 a& w

" M: w6 R3 p$ i: w: ^ トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。
) p: g' m- h4 x7 L4 x# [: j# T- s" d* a. o: N' Z- z' n, o/ f
 トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。
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9 f! a8 O9 X3 z1 y8 k* i/ B% C5 Z トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。
& n9 E  [( S% v6 V! A/ N人在德国 社区人在德国 社区! O! G4 I" |7 n7 c& R8 [6 y8 |
 「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」
! ^, G* [+ \: Z5 M" w1 f5.35.249.64; D  s3 t- s* P  Q
 「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。
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 中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。
. @. r) n2 x. D! y人在德国 社区% i" L$ d+ y) Y0 I- [
 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」
: F; k" V) O; {. t  H7 |- u5 A5.35.249.64人在德国 社区. S9 [" [& a! ^/ D7 u
 トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。& W( @: a2 G+ C# Z/ R7 N

# u- j; `9 j0 t- b5.35.249.64 ≪3度密書を送った≫5 Q/ x. x( }, K7 B

6 {) n# }' T% ?7 R- I2 c 1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。! i* ?/ q; \' o2 J' L; }' Q9 {

" Z. X6 h! |2 H  a7 v5.35.249.64 「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」
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 関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。  j$ U8 b1 l# t6 B* j: O/ q* V2 y

* W+ b0 O  f* v1 l 「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」( b+ c" m1 l7 ~$ N# B, A' i# c

. n0 F% |5 B. |! e9 { 大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。
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8 g# I7 h! r; A4 ~4 R, Y0 M5.35.249.64 それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。5.35.249.648 k: j( V3 Y5 P* h6 Q
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 この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。, o3 S! p! I& X

' ?; s9 g% t7 W" h9 O5.35.249.64 その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。4 R9 [( u  m& c: {+ |
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 「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」5.35.249.64+ \9 D' p1 h, ]' n5 t5 O7 _
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 しかし、トウ氏にすれば新たな「鈴」が付けられたにすぎなかった。ソ連・東欧の変化が顕著になる中で、中国国内では強硬派が発言力を増す一方、米国も「ゴルバチョフのソ連」へ接近、米中関係の危機は続いた。(中国総局長 伊藤正)  e& R$ H" ?  T3 M

& T' G2 K) V$ v8 b ●=深のさんずいを王へんに
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【用語解説】アルシュ・サミット人在德国 社区) X9 ^8 z$ H/ n8 @1 u, ]0 W

' O9 Q% [0 ~' }0 s: S: T7 b5.35.249.64 89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。

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1 G( v& X% i/ z# g+ y& C人在德国 社区天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月
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1 Q; A, n1 D* Y& g0 Q" n5 T5.35.249.641989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相
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4 C: J/ d/ d: w1 u2 K[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-21 11:00 编辑 ]

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