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トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 7 A% X% \% t1 @1 R: h k
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1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。% \2 R2 o* @3 V2 `
r" Y! ]2 S- m- A! N% W9 N5.35.249.64 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。人在德国 社区4 m9 I% |5 D- s# l7 E! H
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本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。6 B& W Q, E8 C" r; a# `+ X
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しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。2 {1 c% s% n0 [+ `6 ^
3 @; U7 B8 x; \4 Y6 J 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。
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7 l" e# r. D! z' Q- P8 Z `2 o 私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。0 N& }; ]+ I3 s+ m0 o* v! S
n4 Y( z6 U* m" j/ {( h" x" i; G その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。, q6 M3 F5 R9 {4 Z& [0 A7 D5 v
* ]$ n( q# u; {5 w3 S2 O% [. Z そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。
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+ i; G4 i& \0 j( G人在德国 社区 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。2 g9 z/ r5 X9 X
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べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。5.35.249.648 h, w" c6 {' S1 n
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トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。
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% L; G2 D! u# \( {9 X! b8 d8 c 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。. J0 X) f/ f! `
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しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。
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ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。人在德国 社区" w! h9 E1 {' K" H$ J5 ?: @! d! H
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ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。
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「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」人在德国 社区8 \, m5 `6 H3 ]* O D* c) c4 [
' L$ Q: }2 w- j4 O( t7 E& N 中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。2 g! O+ L! h3 v; L0 J% v" Y
7 k1 m2 o; }, F6 ?' z2 j P トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。
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9 Y ^7 ^: i$ D) q- K z 「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」% @) K3 {, \ m* n! A
' D% V9 t* t1 M: ?6 d 米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。
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0 N, c7 H% m5 N# A0 F t人在德国 社区 北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正)
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9 B- z v( F! p4 t( U) f2 }【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。/ D8 b2 r1 E3 g# d1 k# d. }( L
* @' a+ T. k; k" c ●=深のさんずいを王に
% B# F6 Z( \1 s# f( s# }人在德国 社区, p. ]$ }5 |( X
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天安門事件の直後、「トウ小平氏毒殺」「軍はすでに内戦状態」といったデマを報じた1989年6月7日付の香港各紙
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1989年12月、北京の人民大会堂でスコウクロフト米大統領特使(右端)と会談するトウ小平氏(左端)。当時「天安門事件後初の米特使訪中」と報じられたが、実際には同年7月、すでに会談していた人在德国 社区2 ` E, W) S" ^
) v. c2 y- N* g, x# Z; X[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-21 10:55 编辑 ] |
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