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发表于 2007-3-16 08:41
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邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态) W6 l# s4 f) E* [% _; E5 \
4 A8 \( `! T/ K, y- Q(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。
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* D/ {. v& A3 ~' u1 ~" h/ @9 M“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。
: }( f4 }7 b1 {& q+ S但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。* `# P0 s M$ \* Z
; ]$ R" d2 h# s人在德国 社区这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。7 l2 Q' o+ Z8 L$ C _# \
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三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。" O- M4 k* V6 t& z/ p0 b
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张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。
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“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。; V8 I, `/ o& m: A7 Z0 C5 z3 n5 n
' c& i) J3 e1 ]' Y( c3 K1 F三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。 C9 @$ p# m; r* d
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就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。) C. Z) m* A: w! x, k) L
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【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲2 Z7 J7 v" ~/ d4 r6 {
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1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。. Y7 o" @6 I3 m8 A& N( J$ d; I; c/ O
' d5 N' ?- D( e/ k. A人在德国 社区これは本物の戦争だ5.35.249.641 n$ D% }) B: V E1 _2 {
( J \: _& `/ m3 D3 V( s* ^2 c. I そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。) O7 F+ h$ ]6 V% v
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それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。5.35.249.642 B# z! w! L1 V5 h$ a5 W2 @
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3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。( o1 D/ j- Q8 Y. T' I7 Z
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「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」
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情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。人在德国 社区% G$ B$ i% V9 G8 ^5 r
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3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。
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. X9 P* v- Z1 X人在德国 社区 新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。
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0 B1 L+ O! `6 W8 j1 m人在德国 社区 3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。
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: Z2 f8 `2 k5 \1 A; u 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。4 z- H: t- _7 k, m) h" `* h- y
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李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。0 b) P4 E, ?# M1 W7 \) ]
/ o2 Y3 g' X$ q0 K/ x2 y; K 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」) k7 y1 R1 X' V8 \ q- p
9 {3 P* b8 @# _; t8 B 楊氏は最後にこう念を押した。; P3 P! d9 n) X8 M6 @
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「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」+ o2 m9 |$ h" k0 V; M5 m9 N
; Q# E7 q' k B# ~" c: z4 r人在德国 社区 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。. c) d' v3 w' d" W9 R! k
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3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。: H6 t c/ F# ~$ S/ a1 j
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当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。; P1 D5 {( A: [
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そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。7 A0 h, N& t: X9 @8 @
, Q3 E- ~! k$ f8 w+ Z p: \人在德国 社区 午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。; I9 Y% _- C4 O4 j1 i/ i8 v
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支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。, S' j* a( H6 d4 |. n! t
9 O3 O* r% f1 o0 m9 w; O3 }人在德国 社区 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」
, Q; v7 [ P M) d5.35.249.64人在德国 社区0 F8 b: k* @1 I% T3 _5 k; H
記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。
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「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」5 I: ~. z6 i. O9 x
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その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。$ I I9 X) l2 G- r: V9 o
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「これは本物の戦争だ」(伊藤正)$ N1 W3 c& n2 K
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■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。
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(2007/03/16 )
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天安門広場に向かう、人民解放軍の戦車の前に立ちふさがった市民(1989年6月)
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天安門事件 軍の発砲
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