[国际新闻] 日本产经新闻连载《邓小平秘录》

6.4事件披露:产经新闻将连载《邓小平秘录》
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! u* Y4 C. U- b' Y7 G; f2007年1月27日7 ]4 B) D8 q; w3 ~" S% B+ t. X9 l
人在德国 社区5 l0 j( s, G, d. n: v
自由亚洲电台特约记者南洲发自日本东京的报导/在中国总理温家宝将于4月访日之前,日本产经新闻将开始连载《邓小平秘录》中的第一部,6.4天安门事件时邓小平为什么对民众进行镇压的背景。5 V6 s/ `$ l* f" L
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1月26日日本产经新闻发表<社告>,在2月14日开始在产经新闻上连载《邓小平秘录》。此书由产经新闻社中国总局长伊藤正为首由多名记者编辑参与写作的。书中的第一部是写在6.4天安门事件时邓小平为什么会对民众进行镇压。就当时的背景分6个部份进行了编写。6 N- w0 F' J* g3 L5 d

% Q& e' J: W# ]3 S* d6 Z为什么在此时产经新闻要连载《邓小平秘录》。
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日本亚细亚大学法学部教师达希东日布向本台表示:′发表正好是在温家宝要访日之前,因为当时温家宝跟赵紫阳一同去天安门看望过当时的学生,很多报导认为温家宝是温和派,是反对镇的。产经新闻是要给温家宝压力呢?还是想让中国给六四平反?'1 \% `$ a! z/ O0 E
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旅日作家、在产经新闻上发表过多篇文章的石平向本介绍说:′多年前产经就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。'人在德国 社区0 h2 d9 R" Y: T+ i4 b) B
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与产经新闻有合作关系的日中通讯社社长原博文向本台表示:′《邓小平秘录》这本书是以6.4天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始,是独裁的政治家。现在连载主要是与温家宝要来日本访问有关系。在对历史问题的认识上中国人与日本人是有很大不同的。'人在德国 社区) T3 b, Z4 [4 b! Z0 t- Y: a7 |- c
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- W2 c- L6 A+ S5.35.249.64产经新闻将连载《邓小平秘录》
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7 G& Q( g1 E* I人在德国 社区(2007-01-29) 5.35.249.64) w1 p7 _- k9 L1 o* Q* P0 a

* r/ `& f% q% V9 P: l(新加坡联合早报)曾于一九七四年连载《蒋介石秘录》的日本《产经新闻》,今年二月十四日起将开始连载《邓小平秘录》,并将在第一部中即探讨邓小平一九八九年「六四」决策的背景。由于中国国务院总理温家宝即将在四月间访日,《产经新闻》此举因此引起议论。
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  据《自由亚洲电台》网页报导,日本《产经新闻》是在本月廿六日发表〈社告〉,称将在二月十四日开始连载《邓小平秘录》。不同于过去《蒋介石秘录》使用国民党大溪档案,此书的编写以产经新闻社中国总局长伊藤正为首,多名记者编辑参与写作。 1 Z/ w. Y8 ?2 g# N9 {$ @
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  对于《产经新闻》选择在此时发表《邓小平秘录》,旅日作家石平向本则表示:「多年前《产经》就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎,这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。」
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  与《产经新闻》有合作关系的《日中通讯社》社长原博文表示:「《邓小平秘录》这本书是以六四天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始。现在连载主要是与温家宝要来日本有关系。在对历史的认识上,中国人与日本人是有很大不同的。」

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日本产经新闻
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' ]) D- _5 C$ M+ B" X4 N5.35.249.64【社告】「トウ小平秘録」 改革開放の実相 2月14日連載スタート
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産経新聞の新たな長期連載「トウ小平秘録」が2月14日付からスタートします。
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 1兆663億ドル(昨年12月末現在)という世界一の外貨準備高を記録した中国。この経済発展の突破口を開いたのが、トウ小平氏(1904~97年)でした。今年は没後10年にあたります。5.35.249.64! Z9 x$ a3 O" K

* D. _- e) x& P& s, H* F 毛沢東以来の中国共産党内における激しい権力抗争を生き抜き、事実上の最高指導者にのぼりつめたトウ氏の波瀾(はらん)万丈の生涯は、中国現代史そのものです。
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: @3 K, `7 f2 z' r7 u4 g- \- ` トウ氏は政治面で社会主義と中国共産党の指導性を強調する一方で、経済面では生産力増大を第一とする独特の理論を唱えました。文化大革命時代の失脚を経て権力を握り、改革・開放路線へと大きくかじを切った決断が中国の驚異的な成長をもたらしました。
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- _& X- S) N! L4 v& S; V人在德国 社区 半面、膨張経済は都市(富裕層)と地方農村(貧困層)の格差拡大や環境汚染、さらには官僚の腐敗という矛盾の拡大を招いています。世界規模のエネルギー獲得戦略や急速な軍備拡張路線も気がかりです。こうした現代中国の実相を理解するには、トウ氏の足跡をたどる必要があります。
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 連載は伊藤正・中国総局長を中心に複数のスタッフが取材、執筆にあたります。第1部の「天安門事件」で、トウ氏がなぜ大衆を弾圧したのか、背景を掘り下げるのを皮切りに6部構成になる予定。ご期待ください。
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+ s) R3 \% S" o! `& w# _" M( x人在德国 社区(2007/01/26 07:27)

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1 n" q8 U# t! |人在德国 社区[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-15 11:39 编辑 ]

【トウ小平秘録】(37)第2部「南巡講話」 米中秘密外交
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; p$ t& S0 W% J* b( Z# e■へたな妥協はできない0 Y8 @; o7 x8 H' Z! }0 C3 K. P9 C
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 米国の対中政策は、ダブルスタンダード(二重基準)とよくいわれる。1989年6月4日の天安門事件後、ブッシュ米大統領(現大統領の父親=肩書は当時、以下同)による対中秘密外交も例外ではなかった。共産党政権による最悪の人権蹂躙(じゅうりん)を声高に非難しながら、その政権と陰で手を結ぼうとしたのだから。
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 当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。7 V/ {7 A$ `. ?' u

! P8 z- D) L; @% W% s! C+ Q& Q1 r" X5.35.249.64 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。/ k* m; V! ^; t' z+ f: p, f- O3 }

0 ?- R1 {0 I+ _7 p% I6 e, O5.35.249.64 スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。
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 銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。
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6 n/ `9 q) d% Z5 C 「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」2 t) G9 _0 @0 K) A. J

2 J' V8 T7 S' z; A5.35.249.64 トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。
7 R+ b0 Y7 J- c! ^5.35.249.64) \6 C! t3 l. J' G; _0 _
 トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。
! R! D! _' [* z- K5.35.249.64
! E$ \! z) `: l: h+ _8 ^ トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。
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 「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」4 N/ B5 L' t! u

" H% M4 `4 Y. z2 Q 「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。
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 中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。
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 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」
1 ^6 D! D; a  C人在德国 社区
/ ^. ~+ `  P+ l人在德国 社区 トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。# [! R. |$ v0 n" P7 H/ g# L

+ l' h# n+ ~7 l. s3 _) d% O2 T/ f ≪3度密書を送った≫
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2 {# c- n3 C; A; h 1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。! J  m0 ^- S  Z. Y. I4 H

* y1 T1 S' k- e' y7 X 「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」
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 関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。5.35.249.64* R2 e- `& l+ ]
人在德国 社区9 H; E" {, k' ]% I* K/ a2 o  X
 「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」
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; ]# r* e# q$ L$ A' a8 J人在德国 社区 大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。
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 それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。9 t/ f; n) j, p& k9 ?' P
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 この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。
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 その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。
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  ^$ H8 A" O2 ]2 e2 y% O6 P4 C1 E& z人在德国 社区 「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」
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2 [" u5 X! l, Z しかし、トウ氏にすれば新たな「鈴」が付けられたにすぎなかった。ソ連・東欧の変化が顕著になる中で、中国国内では強硬派が発言力を増す一方、米国も「ゴルバチョフのソ連」へ接近、米中関係の危機は続いた。(中国総局長 伊藤正)
7 @( L  C7 W8 p5 p: l人在德国 社区人在德国 社区/ y8 S/ S: ]8 C0 F+ b  v4 j) @
 ●=深のさんずいを王へんに) M1 x. t& S  P) F- y" k

6 ]1 L4 C. c7 K3 m5 t6 U& z" ]8 w: ]. R0 y5 F
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【用語解説】アルシュ・サミット
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 89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。
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天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月5.35.249.64  ]( X. q2 j/ G4 f6 m
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" o! e2 W1 |0 D8 z7 P: b9 i+ J  P5.35.249.641989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相人在德国 社区; o; k  a' p  _( i4 w

7 q% n2 a, E6 A; _[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-21 11:00 编辑 ]

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【トウ小平秘録】(36)第2部「南巡講話」 瀬戸際の改革
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1989年7月1日、米大統領特使スコウクロフト補佐官(肩書は当時、以下同)とイーグルバーガー国務次官は、極秘裏に北京入りし、翌2日、トウ小平(しょうへい)氏と会談、李鵬(りほう)首相らとも会った後、同日夕には帰途に就いた。
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 軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。/ _$ a# d. s  Z  k6 I4 z5 T8 w6 D% N

4 S, f7 _& T$ M人在德国 社区
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  r0 l" y( z% I6 E4 s0 I 前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。: y) V1 r  o8 Y1 k) e3 A2 d
. d: d& ]7 c6 l1 y" @2 \
 「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」
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 「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載)
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 天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。0 E/ |  B8 i/ J; M. L
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 雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。
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 しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。% G. P2 P+ O, g  q
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 その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。4 Z# |8 C, I& }& b4 ^: A/ n( c
. L4 x1 ]1 @2 D4 N/ B4 T
 米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。
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 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。
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. _* O, {0 d) U8 X/ K 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。人在德国 社区# C- h- l/ ]: `( B% O5 Q6 V

" i" B" E4 k  d8 I" {! [人在德国 社区 79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。
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弾圧も正当化される
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 外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。
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 後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。
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$ o% g! ^% [* U. v8 V( q3 V 理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。) J! @* F( B0 f$ ?5 n

$ m. G; [. V# {; F) x6 I 「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。' Y, z1 m! v) C! W# f5 e7 h

4 ^8 _) ~0 C+ F9 i* w人在德国 社区 そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。
% w5 o/ j' Y8 u/ F4 V! R5.35.249.64. Y) f% v% K- I* z& W0 n1 P
 (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。
' J3 C1 y4 c6 i$ i% @. P7 Q2 u5.35.249.64
' q1 r  O' n" t* n1 z これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。5.35.249.641 O: g2 C9 s$ K! d5 g1 S' R

  U# J; V2 o0 k) z- n* Y+ `$ w 理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。5.35.249.648 y# ~/ J; }: r, V, s3 X9 S; H' L
& a0 D6 M6 `7 E: N9 y3 o$ b% U: m
 天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正)
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" y# n0 n/ b. O■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。
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3 G% H# E& f+ {9 K% S( W8 g( }
& H' M! J0 K/ M9 s/ R2 h●=深のさんずいを王へんに
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( [! G# o8 O* S' V7 t5 j4 C: m3 l+ P
天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時)人在德国 社区2 n9 i& m! Y, f1 S6 O
, F( F6 |! x1 ^+ K* s( f
9 U. Y5 c8 B2 n; j
1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した

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トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 1 r9 G  l9 X+ m$ }9 z& q

$ K/ d! f' P$ m; s1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。
. U/ i2 {4 v$ {+ G% _5 \- b: w4 Y' \
 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。- R0 u7 L$ q5 O

& d& v# z4 r8 |3 P) A- ~  ]* q8 x人在德国 社区 本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。人在德国 社区* O0 ?( |+ [: _* s: O+ {1 O. E/ b
5.35.249.643 Y- s5 P( o- m  e
 しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。' b" L8 i6 C/ ]( j5 I

( O" u( [( j* t3 P, B6 T6 \5.35.249.64 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。
6 ~7 {' @# D# U+ T9 T3 q
# [( k$ A: P) t 私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。
8 l2 b/ ~. h1 Q9 C) u' x* Z人在德国 社区
9 s1 j# _  @. m5 R: m& d: B その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。$ Q4 \0 l  R' R7 Q4 a4 |  p/ r* s# \
, w! o, L& g1 O: o! H8 Z
 そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。
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 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。
" R1 H: Z4 }  k: L5.35.249.64& j2 T7 \% z' g# \1 T
 べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。
( z- B+ l# i3 m4 j. {# x! K
$ ?/ j5 ]( Y$ J トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。
7 K6 p2 n  f5 t9 o- O& {& p8 D! S2 J5 H: h# H7 w( P- J# D6 {
人在德国 社区' X$ s) X3 ^& ~* d1 c3 ?

* O+ l: Z. P1 z4 w5 p+ @
) r+ s& Q; T0 p2 Z1 M' A  p
" N! b" f5 {( V+ e+ t5.35.249.64
/ L) l3 h$ |7 W5 J  s4 o人在德国 社区3 Q& u: M) S" ]' E5 D! g4 L9 O6 s
米特使が秘密訪中した人在德国 社区! T: [$ g  s+ r( B: _, v# `) q: U

; K, m, g  M4 O- b 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。
3 e7 ^) j4 S  l9 y5.35.249.64
2 x9 T1 x) R4 ? しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。5.35.249.64. ]( y9 h" y: W

3 l8 }$ V0 c. _! N: s ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。8 q( V1 F! f8 Y  L/ \3 y5 c

+ z/ o* D+ s( o  b人在德国 社区 ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。
; s0 G0 x/ A* E$ b4 }: Q- D1 X
! k6 S0 N  z- }  y4 C3 W  E* Y; s 「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」
' j& _: |: I8 `# U4 }8 r8 G
) Y7 G: i2 y4 F4 }) J 中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。5.35.249.646 \. L2 p& Q  |1 E+ K/ z5 m3 K

  Y8 \. l: {& m, j; y( w& \ トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。6 h4 j; z) X$ _0 M
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 「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」
/ J! I9 B, l1 k1 ?" Q+ U' a0 o. u( R/ ?% h0 w
 米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。. W3 p' K& [9 T9 L3 c
+ v  u( f3 r1 P2 z: `1 ]- ?
 北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正)
% b3 o0 ^# t4 B7 J人在德国 社区6 I& g: ^" Q0 I& K  `

  M) e# V9 v, R; X9 q8 D9 y
* Y$ ]2 }9 N, F3 |# r5.35.249.644 W7 H- q3 W2 l" ]3 p% ?7 @4 [6 c

2 M' R' j/ f9 o2 I: N0 {7 C" o/ y【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。5.35.249.64& ~7 J4 n8 a  H! Z5 d

# K  L$ |/ k( i1 Q! p: j1 p; X ●=深のさんずいを王に

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天安門事件の直後、「トウ小平氏毒殺」「軍はすでに内戦状態」といったデマを報じた1989年6月7日付の香港各紙
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0 W, j6 c0 `0 S+ A9 V/ `3 r. Z/ B7 _+ Y' v
1989年12月、北京の人民大会堂でスコウクロフト米大統領特使(右端)と会談するトウ小平氏(左端)。当時「天安門事件後初の米特使訪中」と報じられたが、実際には同年7月、すでに会談していた人在德国 社区" f8 I" @- {3 Z. g* q2 A

( x) O6 y# k; u% {[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-21 10:55 编辑 ]

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邓小平秘录:邓南巡讲话 警告保守派
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( L: R1 t. g& R& w1 Y7 ~, f' |& }日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,已故中共领导人邓小平于一九九二年初的南方视察,名义上虽是休息,实则是经过深思熟虑的一项行动,而南巡讲话的主要目的是对抗拒改革的保守派提出警告。- l5 x! y, v& I+ _7 [7 ^
( t4 G- }1 w; k+ |" p: z7 k$ I9 x" G" E
报导指出,邓小平于一九九二年一月九日进入深圳,采访此行的中国媒体指出,由邓小平的谈话可看出他的广东之行是有备而来,是对北京、中国全境乃至全世界的发话。3 U0 |% Z* k4 B& y! c& V! n3 A

) P' U4 h; K1 s; r4 J邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。5.35.249.64( A6 v) `' ?; Q1 V8 y' p  c. h
1 N! y* N# J' w8 w& ?. ]# f- \
报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 6 r5 L& ~( x8 T; {
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【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告; U+ s9 s% c% @  V& E
; P0 C' d) O& K  t+ L, [; h3 s
1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。( q2 T. k3 c# N6 f% j- P7 \; M
人在德国 社区& L  ]; ?3 ~& l* P1 _. v
手法は毛沢東に似る
4 z, ?+ P+ |- {& j/ p9 k. {2 u/ ]5.35.249.64" D* N# [2 }1 {1 @0 a8 p
 しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。
$ y4 M* B  x) x* U人在德国 社区
% K9 ?* n/ W0 `: T" i# r% O 「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」人在德国 社区* Y; H5 J' c! K; h* h
6 a% b( V, J) w$ o% {
 牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。4 j. f. X" }+ N% F0 Z  k* Q

- j; Q9 [+ r; V5 k5 `# t( K人在德国 社区 陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。
( |, [  b9 M" K% ], o1 n人在德国 社区8 u+ _, W4 x, ~2 P% O3 O
 講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。9 I' y( o; w* L* t& G

( I9 w; b, H5 i6 ]4 i/ P トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。
9 C6 Y$ _- ^4 y3 d* Q  O5.35.249.64
( `$ V8 [4 G: `7 Y) {% @ このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。# [3 [3 K" e0 x; u9 v5 h
0 {4 @$ j0 r+ Y" ~: n0 O1 L8 W2 }
 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。) A7 h6 C$ \- h: h4 @

6 z* t' D! K$ d9 H人在德国 社区 毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。
( G0 [1 b  w1 j% G$ T* |' v
4 `: ~2 V% A& J8 T 林彪事件である。
* `6 a& b! [9 `7 G# O8 z
" ]  S# v$ Q' u
0 B4 ~2 [) Q' B" d7 [冒険せず何もできぬ
# z# W4 \$ P6 w' k4 m; O. ]: H7 c0 }+ G  L' X; U9 b
 トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。' x2 p! K1 v  s, _' |
' d4 N/ X. u7 _7 M
 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。, t3 ~. Y$ x5 k4 C% r

4 j. ^2 @& G/ T0 g( A トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。
  w: t6 p2 t  S4 I4 z, u, ^( |$ y- B6 E* X5 U; S# y2 ?. L, ]$ b
 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」5.35.249.648 Q5 w- `: q2 I9 P" J5 g8 _0 O/ O3 W

+ X2 n8 A. a7 O& B% c- p 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。
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9 Y) n! i3 o# O( M トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。2 R+ C& q3 @# ?4 A/ J3 f* [/ [
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 トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。
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: D+ o) d) A2 ]2 ?人在德国 社区 劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。/ M0 A- d$ F& @' L) }* D: m- Q9 _- `
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 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。
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 しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。
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 トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。
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 それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正)
7 |8 B4 [% W# ~; u人在德国 社区
' s7 ?- y1 ~8 E) L% s9 v■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。

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【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 # a6 S' g# I/ ]/ O

' E# j( Z7 _4 {' H7 n5.35.249.64春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。
+ u) x: f7 t' W; ^  J0 C人在德国 社区; y. B. u! h+ a# F

8 [& x6 |7 }; u期するものがあった人在德国 社区0 l$ @- X: c4 O1 _9 G/ U
人在德国 社区+ X, N) }2 }" e- B8 A- a- C
 普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。
* R5 r3 [2 b% p1 N2 x人在德国 社区
$ E# r, K0 F; E! B8 }. J9 @! { 午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。1 t0 _* X, C& k) m' n% z

5 Q- X( z, \$ K$ G; a 緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。0 J2 B* B9 q; Y9 p+ \7 M
5.35.249.64" [" y- y  u5 f  a2 o% [  X7 p0 ]
 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。
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 「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」
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% S9 h8 p  I* G5.35.249.64 トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。
3 D/ t' L1 y: W0 ^
% |+ N5 }" B( t5 q% ?人在德国 社区 引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。
% ~' w4 |3 X; M1 ?* h3 c- o* A2 x5 _, Q5 z2 s% ]
 トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。
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5 `' S% n/ E# v) z6 _" M, _人在德国 社区 ≪天安門のツケがきた≫
8 O4 T" q, g" H, u3 p  b* c
$ M0 ?: O' D7 G7 t4 I 元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。' s( i2 |5 _8 m6 K% K

' p: o1 l$ [4 ~; \5.35.249.64 「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」! l: _/ i/ E' ?
人在德国 社区! r# Q( w9 c7 J
 広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。
0 s* n3 |9 z% M3 B# g5.35.249.64
, D4 a  g0 N5 v9 @- b5.35.249.64 「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」+ ]8 b7 G  \9 X

1 V* z8 U. K7 O. h5 s$ W5.35.249.64 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。9 [+ U* |8 h! \

  j" z9 P2 a% R9 {8 [: W* h人在德国 社区 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。6 s/ a& _5 `$ C7 ~8 ~

0 l; J- u: ]$ |1 Q' _# i しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。
/ J: ]. f7 A. j; e2 a+ Z5 }人在德国 社区
5 ?5 f. L4 B# g8 r& L. T$ ` トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。
% r- M9 B4 R2 L人在德国 社区* |2 y* o) X& G7 q' h
 天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。
" O& V1 @* q8 E- y4 x  ~% i8 P% k9 z
 計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。
8 q& c$ m% p/ t3 o) d" a: R人在德国 社区$ c* i1 X8 G7 T) @: ~2 o6 e4 t1 c$ V& P
 その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。. }- g0 A# u4 Z* T7 @& G9 r# D

2 v+ x7 J1 S) P/ |# v0 }) f- Z( c. [ トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正)人在德国 社区  Z  r' @; ?; z. `8 |

; m7 N8 u0 v$ a5.35.249.64■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。
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( \+ `/ F/ U- H0 h+ L第1部あらすじ
9 T  N8 ^+ B* {) |( L人在德国 社区
3 X8 ?0 P! O( A% O. K% d 死者が少なくとも数百人にのぼったといわれる天安門事件(1989年6月4日)は中国現代史の大きな分岐点として後世に伝えられよう。
0 g/ M1 L2 Z5 A! t; b( N9 g1 O1 s3 `
 「トウ小平秘録・第1部天安門事件」では、トウ小平氏が、なぜ人民解放軍を出動させ、デモを続ける学生や労働者らを武力で鎮圧する事態に至ったのか、背景を掘り下げた。
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 89年4月、急死した中国共産党の改革派指導者・胡耀邦前総書記(肩書は当時、以下同)の追悼集会を契機に、北京の大学生らは天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。党指導部内では強い姿勢で臨むべきだとする李鵬首相・長老ら保守グループと、対話による解決を主張する趙紫陽総書記ら改革派が対立し、深刻な権力闘争に発展した。5.35.249.64+ T; _4 r( D- v/ d! v; X4 s9 R# ^# T

$ ?! V, t7 O* c1 v- c: q' r 改革・開放を推進し、国民に豊かさと自由をもたらそうとの思いを抱くトウ小平氏だが、天安門事件で自らの路線の執行者である趙総書記を切り捨てる決断を強いられた。改革・開放のためには国の安定、つまり一党独裁の社会主義体制堅持が不可欠と考えたからだ。# `/ o6 \; L3 t! ~- J

3 ?& W9 \( w9 Z4 | 第1部は最終回(32)で「天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力抗争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない」とも指摘している。
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1992年1月、南方視察で広東省深セン市の民族文化村を訪れたトウ小平氏

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1992年11月、「改革・開放の継続」の大号令をかけた南巡講話を記念して作製されたトウ小平 ...

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[size=3]【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行

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邓小平秘录:六四悲剧是学运卷入权力斗争
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(中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。
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「秘录」指出,一九八九年六月的天安门事件今年将届满十八年,中国不知道「六四事件」的世代增加,北京市民也将当时的体验关闭在记忆的抽屉里,中国媒体在上个月刊登邓小平去世十周年的特别报导都未提「六四」,有关人士指出这是中国报导管制的结果。
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邓小平在天安门事件后的一九八九年六月九日接见戒严部队干部致词时指出,这次的风波迟早要来,那是由国际的大气候和中国本身的小气候来决定,不是人的意思可以改变。- i1 x* b6 p/ W1 \2 S, o2 h( ]; m* x
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邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。  Q) R; n# V" |
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一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。" d+ w* l6 v* f$ x  L& ~4 B
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邓小平推动的改革开放政策是以市场经济化和国际化为基本的经济建设,与毛泽东路线是不相容,但是,他坚持的四原则就是毛路线,特别是核心的「共产党领导」的一党独裁是毛遗训,成为保守和改革斗争的种子。
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一九八零年代,中国的经济和社会出现激烈的变化,人民意识思想倾向欧美,但是一旦发展成为对党的批评,邓小平和保守派联手以四原则为盾牌展开镇压,为的是坚持政治权力和生活特权的金字塔型党统治制度。5.35.249.64; i' i+ r+ C; s2 S% V" k9 ^
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在一党独裁的制度下,一九八零年代官僚腐败大增,一九八九年四月胡耀邦去世后引发的学生运动除要求民主化,也反对腐败,邓小平等元老和李鹏的保守派将之视为企图颠覆党领导体制的挑战。人在德国 社区. b2 h2 x) X; Y3 i% L7 j4 K

% _, D) e0 f) ~7 W3 J7 S天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败的运动被卷入保守派和改革派之间的权力斗争,不少人认为邓小平是被保守派的谋略所利用。邓小平为何对民运决定使用武力?尚有值得检验查证之处。
! k% {4 a# e, G人在德国 社区
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【トウ小平秘録】(32)第1部 天安門事件 独裁堅持
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8 u6 G& }6 z% t! {7 G& d 1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。& z0 Y1 p! g8 C- U: c
* t5 B0 I4 C( ]7 _" ]/ F: |
 胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。人在德国 社区- [& ~+ Q; n' i9 u5 A& m1 q

* |# i9 w% T8 i. e: L2 p. r# t トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。
( U' Y8 g5 l, Y4 d/ y% W& C人在德国 社区
6 I- b( t( o. P/ h 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻)
3 ^  T* L; C- C4 z人在德国 社区4 N: X& F* q, p4 ]" [& ?" |2 [
 その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。
+ R; d5 x# |- t
2 ]1 R. Z& {9 |5 l トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。5.35.249.64$ A! s+ o& a- o$ w

% K+ j- ]; @7 P! @% g. r5.35.249.64 「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」
2 E7 |& y; W# Z/ O4 `4 b; h! e) R! R人在德国 社区' K# `" Y) G8 R, K3 x6 k. K; C2 z
 「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。5.35.249.64& y& T- O) t: h8 W, w5 [, S- k

) L$ G/ ^0 n0 N5 U4 r+ x3 w. z* A 89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。) O9 K# F  a4 r" z2 l: B

, M; W. I9 u9 \  n, N6 p# L$ V トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。& @6 [/ g3 {1 ?
5.35.249.64! d0 ^0 b4 K! q0 X/ }4 J
 「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」! t1 N4 |" @* Q. z1 K
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毛沢東遺制は守った6 y( B' v8 c( e7 c5 [5 t1 E7 S8 [+ ]

% P( M7 F, Z$ d. K7 ~" { トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。
5 }7 |! q1 m( z  g" b1 z. I: ]5 K$ W人在德国 社区5.35.249.64! B" d+ w8 b1 x1 z/ t
 改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。
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 張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。
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 「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」人在德国 社区- z9 d! |7 p( C& b3 A  V* \& d

, n. j) d5 ~- E! W' Q 今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。
2 s. Z6 E2 j3 _, `5 ~" n人在德国 社区人在德国 社区( W2 O" r. k' m: Y
 しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。
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7 H$ d( I+ l! B/ @* W0 ^9 H; p その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。9 Y9 S! N- d$ l3 T. Y: f# y
5.35.249.64- B! f# e5 B7 X9 _, i
 89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。7 R/ c. V2 u; Z
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 天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。
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 トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。
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 (伊藤正)9 }3 _6 ~! [$ W5 Y
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 =第1部おわり6 S( \% N$ P, |- l1 p, b4 U
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■伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。
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(2007/03/18)

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邓小平秘录:共军血腥镇压手无寸铁市民
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. Z  E& |4 @" ?( Z7 W(中央社记者张芳明东京十七日专电)日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,中共北京军区主力部队于一九八九年六月三日晚向天安门广场前进,沿途对强烈抵抗的市民开枪。一名新华社现场采访记者曾在日记写道,那是场「真正的战争」,问题是那是场正规军与没有武器的市民之间的战斗。
$ D) W% _: Z* {$ }6 z* {8 k5.35.249.64人在德国 社区6 ?8 Z, Q5 j: s6 h2 q% W* T
「秘录」报导,以河北省保定第三十八军为主的北京军区主力部队在装甲车前导下于四日凌晨一时稍后进入天安门前,部队是于三日晚上九时稍后由西长安街西端公主坟出发,由于遭遇市民的强烈抵抗,前进至天安门总共约八公里的距离,花了四个小时。
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部队和市民最初的「冲突」发生于公主坟东方两公里处,市民以并列巴士和车辆放火等方式抵抗。部队在晚上十时二十分左右开始开枪,天安门前也是如此。另一方面,同样遭受强烈抵抗的济南军区第五十四军几乎只对空开枪,北京军区第二十四军和渖阳军区第三十九军等也未开枪,放弃进城计画。9 T4 w4 G6 u2 H$ O
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第三十八军等部队获得开枪许可的经过迄今不明,由邓小平事前指示「不得已的情况下可使用一切的手段」来看,可视为现地指挥队的判断造成各部队对市民的抵抗采取不同的因应措施。  ]" Q, o8 P- u7 R6 _  i; k

( P  E" o% T, X. v5.35.249.64戒严部队四日凌晨三时前几乎全面控制天安门广场和四周,四时开始进行最后通告,将实施「清场」。但学生总指挥部所在地的人民英雄纪念碑和周围,仍有以地方学生为主的三千多人在强烈抵抗。8 W- r. U- e6 _6 `& ~, B  N

* E3 S6 {' y) o+ s1 q0 m4 V在此之前,二日晚在广场开始绝食的台湾歌手侯德健和北京师范大学讲师刘晓波等四人呼吁学生撤走,但遭到奚落。四人在商议下,侯德健两人已私下和戒严部队指挥官交涉,取得不抵抗下撤退的安全保证。
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9 a0 p8 g! p& n) [+ G凌晨四时半左右,持枪的数千名士兵包围纪念碑,侯德健向学生演说,公开和军方交涉的结果,呼吁不要再有更多的流血。但是,学生们的回应是一起怒吼,刘晓波等的演说也是没有效果。
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不久,出现数辆的装甲车,由扩大器警告学生退出广场,预告将使用武力。侯德健等提议由发出声音来进行投票,因赞成占多数而决定撤出时已是四日清晨近五时。所有学生完全撤退是在清晨五时半。
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天安门事件的牺牲者人数有各种说法,总理李鹏在一九八九年九月对访中的已故自民党干部伊东正义指出死亡者三百十九名,包括十数名士兵。其中,学生有三十六名,大半是市民和劳工。, ^: u2 _- V+ |& j2 t( j9 W
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「天安门广场连一人都不准杀」的邓小平和杨尚昆的指示被遵守。中共当局重覆否认天安门广场的「屠杀」,当时在现场的记者也未目击牺牲者,但是,广场的周围有许多的伤亡者。
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天安门广场随后由数十辆战车占据,六四以后,北京市民也继续抵抗,不时传出枪声,各地出现抗议示威,外国政府也相继发表谴责声明。
0 D  P5 m# G" X& O* q8 F- p, k: m7 Z7 K+ j
邓小平于六月九日接见戒严部队干部,脸上浮现笑容,显出心情愉快。天安门事件后,邓小平在家里闷闷不语,开始重抽数年前戒掉的香烟。当时,他已八十四岁,决定由政治全面引退。他对自己说,武力镇压之外没有其他选择之道。
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- @" ^9 ~3 V! J0 [3 t【トウ小平秘録】(31)第1部 天安門事件 6・4未明
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1989年6月3日夜から4日朝までに北京で何が起こったのか。膨大な資料、報道、証言があり、映像がとらえただけでも、近代史上まれにみる大規模な武力鎮圧事件だったことが世界中に知れわたった。! o6 o' A+ D, S; z( M' M: P, V7 G

0 M% t1 |4 O  D" d  p8 a+ o, h 前回書いたように、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は6月4日の日記に「本物の戦争だ」と記した。爆竹さながらの激しい銃撃音を耳にした人なら、同じ思いをしたはずだ。ただしこの「戦争」は、正規軍と武器を持たない市民との闘いだった。
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 張良編著「中国『六四』真相」によれば、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)は「武器の使用を極力避けよ」と指示していた。それがなぜ発砲する事態になったのか(以下は各種資料、証言による)。人在德国 社区0 n2 z9 {! N" |; L% O

; h+ s$ P9 k& }6 Q) p 第38軍(河北省保定)を中心にした北京軍区主力が、装甲車を先頭に天安門前に1番乗りしたのは4日午前1時すぎだった。3日夜9時すぎ、西長安街西端の公主墳付近を出発、天安門までの約8キロを進むのに4時間を要した。激しい市民の抵抗を受けたためだ。6 [' E- a& {5 Y1 ]( ]9 d+ T9 J

4 ?! _" L: T( d* P+ c7 L+ ~3 E人在德国 社区 最初の「衝突」は公主墳の東2キロ余の木●(もくせい)地で、市民側はバス、車両を並べてバリケードにして放火、火炎瓶やレンガ片などを投げて抵抗した。5.35.249.64* i: E0 |: ~0 g8 w
人在德国 社区- N0 d" j3 G$ A$ j. M1 U
 部隊側は、午後10時20分ごろから発砲を始めた。以後、復興門、西単、六部口で市民側の抵抗を受ける度、発砲を繰り返し、天安門前でも同様だった。3 g, k9 N6 p; I  u4 ?* H8 W1 }) u
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 一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。
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 第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。' `  f: h, `/ b7 a

- s6 Q- n2 M9 z/ y: Y, ~: t5.35.249.64 天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。  R$ A7 R$ p7 M4 _4 e- G! \( W4 M

3 w' w3 v# _# M人在德国 社区 それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。人在德国 社区( f8 _0 ?5 @/ j& w. B) C

% k9 l" ?1 d% R7 H. b 午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。- b" u6 t* }, N4 k
  @& {: e! E9 v
 学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。
0 a) g% e/ X% d8 b- ?3 ]人在德国 社区5.35.249.643 {) X  [, n+ g" a
 「裏切り者!」
; t1 X0 E0 s6 ]6 ~& n/ R6 v" S5.35.249.64
+ ]. F8 _2 _, I; A) Y/ E' F 「さっさと消えろ!」
: l7 d& t% O6 _* u人在德国 社区8 g* f& E9 c0 d  F3 \
 劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。% X* w# L$ R' a

3 R2 T/ o+ M& q: X& C. z すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。0 x* T( Q% \6 P% I+ Y- b
% S$ E) u0 t6 g# [; c" T
 天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。  C- v) p2 N2 O2 F

8 n( U3 R" L  O( S 「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。
# \8 S8 s9 [9 W* h* Y5.35.249.64, E7 W$ d) w3 Q, _$ r3 w
 天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。
, A2 h- g- J7 o+ k
1 F6 D% a/ ]; \( W' m; R2 s トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。人在德国 社区. e1 X( o% m& {+ F3 o  j* @
% L0 F+ d* q' x1 ~
 しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。
" F+ o9 u) J6 U9 K# @$ v( n1 {5.35.249.646 V3 \& t# g+ p- P/ K* r( n
 「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した」
+ y% L7 }# f+ q' A  f人在德国 社区
+ w9 y6 v: L. m' ^' k1 x7 {5.35.249.64 その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。
5 B" h6 u+ H# B! d1 Y3 o9 ^2 ?6 W$ v' ?2 u/ C
 (伊藤正)% H5 E4 D1 @: r3 z# L( i

: c0 x* g$ W) N( S3 u( d2 F4 j●=木へんに犀人在德国 社区: w( _  K" d8 k: U. S) C

. |2 Q$ I2 G1 r( D0 q, V8 F% K$ e) y1 h
! o* y" K$ \$ [* z" I
【用語解説】人民英雄記念碑
4 y# }2 F6 K3 z. f' j7 {
4 D- Q- y) s" l7 T 天安門広場の中央部に位置。19世紀のアヘン戦争以来の革命闘争で犠牲になった英雄をまつるため1958年に建てられた石碑。高さ約38メートル、基壇は南北61.5メートル、東西50.4メートル。碑の正面には毛沢東が書いた「人民英雄永垂不朽」の文字と、背面には周恩来の書いた碑の説明がそれぞれ刻まれている。訪中した外国の元首らが献花することも多い。9 G! C* ]8 u' [5 _: t) m
人在德国 社区: c" k, \! p8 o7 Q+ k1 j
(2007/03/17)

, S" p, X7 q( ?2 Z; g/ y, H人在德国 社区
$ L: Y: C7 @( w$ V& |$ |( M( ]
0 W7 v  A! P6 X- q/ P' A* f# I; s
1989年6月3日から4日未明にかけ、公主墳から天安門方面に向かった戒厳部隊は、市民、学生らの激しい抵抗にあった。木●(もくせい)地近くで集中的な発砲があり、死傷者の多くは復興医院に運ばれた(●=木へんに犀)

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天安門事件

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邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态
( ]2 l7 K3 y; B
; N1 S, Y: V( {9 u(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。
8 j& M9 I! z" e7 l9 z& b" u
8 g5 o( w8 }% p) e3 ]/ c“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。
" n8 e  o+ H5 V' O! Q0 R+ N& E人在德国 社区但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。
6 G& x: `4 A# [+ T4 ]" o' V$ F人在德国 社区
( g$ w) ^. |2 F5 I' [' n人在德国 社区这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。, U% P2 _# |3 B1 L" }' B' y
3 Z& d  U3 d: M: b( i
三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。5.35.249.649 F( M1 r- K9 V  W

4 z6 b( _7 F, O( q: ?张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。' E: X$ c9 D% I2 w' n0 p
5.35.249.64+ y$ N8 k$ q  ^9 h# @
“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。
3 r$ d0 y7 z! b1 _5.35.249.644 T$ A5 O( n8 ?- I
三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。
- Z6 A/ Y, ~3 s3 u3 m. Q# W% [
8 W& T+ a& g, V, ?就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。
4 a" r; S) e  B- e7 k' G人在德国 社区
6 W# Z4 j' o+ o' K6 m0 S5 A9 m【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲
; D+ e! r6 `9 H. v/ B
8 s, ^3 X) U- k' f' K+ C& T# V1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。人在德国 社区$ N, {2 Y9 {5 q( N5 A
人在德国 社区: O5 Q$ f" B- t
これは本物の戦争だ! }+ G5 \: s6 I; @

1 ?! O& e- B' x/ q# y そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。/ D) o$ O7 v; B

# {- P- f/ H! o! z5.35.249.64 それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。
1 B  D3 x/ g/ O4 s' R$ S5.35.249.64
2 A' I8 ~( B" ~( h7 D" B 3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。
4 h$ ?3 R- j2 X. j2 D( [- K" k' V7 {+ b: s4 {* ~# l0 Y* f
 「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」5.35.249.64% g3 \7 s, p/ V. P3 ?; ], i, C9 F

! T+ b/ W* S7 z 情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。
( c/ B$ ~1 Z8 z; R! ?( A8 U5.35.249.64' o  \% w1 R* z) x) x
 3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。
: d9 a) f. l( c( ]8 {0 M, C+ [& q5 ]人在德国 社区5.35.249.644 ~  B4 e+ X5 t/ u+ |4 x
 新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。, ?3 G. r% y/ U- R

1 D; |7 j# ^+ B0 G) I# f 3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。
6 @7 g4 A3 j2 L+ J' a! h" [
) q/ T1 Z& ]' l6 ?人在德国 社区 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。人在德国 社区& V2 }5 I% A9 B* y0 r2 i

1 N9 z7 C; C) w 李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。
3 @/ b+ L1 i" `, j# {7 k6 {
- _2 ]7 _4 }4 O! ~9 R; q7 j 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」人在德国 社区% @) ~/ t( R/ \( s
人在德国 社区- ~) R  w$ C/ T* W8 J' `
 楊氏は最後にこう念を押した。5.35.249.640 m9 q2 d. S! F0 U4 y% i* R

  D) M$ Z6 Y! v7 g3 S' r' ~ 「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」人在德国 社区  I' D3 t+ \% i, B* U: m" Q) l+ @
% L  Z, S/ ~- \4 l5 B' m
 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。
9 c, z3 j5 N6 U3 J
' J! i& Y4 @4 I% _# Z 3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。
0 q  `8 _) p# h1 h
" }3 S/ ^4 N) e9 m! w$ b: [ 当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。
: d% S5 I4 j1 Z+ T% ^' k8 ^5.35.249.64; ^0 w( t+ ~' R: P$ x+ ~$ x
 そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。5 i. i6 `  V: ]# H
$ K- y) k7 Y  Q% I( Y5 `5 c
 午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。
- L. L9 v  L9 ]. g2 B. @! P* W5.35.249.64, z" l" g7 N- ^& |  g4 @
 支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。人在德国 社区% e5 j& w( ~1 I6 d0 w" @
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 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」
1 U; R: P1 J2 b% W1 x6 ?5.35.249.64: C7 W! O8 J) K
 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。8 @1 Y+ C) h4 A! T

' y& I6 |7 n% a7 _ 「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」
, c3 r# L/ b: K9 A, f/ l4 Q% Y' Z5.35.249.645.35.249.648 A' N0 V+ P1 y+ @, r/ x+ n
 その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。
# E- W/ }3 H- v" |, ^& J
$ R6 s, o! v1 `- h; \# o 「これは本物の戦争だ」(伊藤正)
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  A; }- S% r, Y) g/ J; W  e ■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。
6 P, V8 y1 j9 n" t) k' j8 }4 p0 s0 u# R, u5.35.249.64$ V* ~+ I8 R7 T4 l6 d6 o, R. [4 A
(2007/03/16 )

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; E+ L9 {# L' W( }& n/ d8 V1 h5.35.249.64[ 本帖最后由 日月光 于 2007-3-16 08:43 编辑 ]

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天安門広場に向かう、人民解放軍の戦車の前に立ちふさがった市民(1989年6月)

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天安門事件 軍の発砲

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邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场
/ _7 B9 k0 a" q4 a8 y! }' ~(中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。% T2 f3 o( k; V

' \. g9 s( a/ l9 U- y秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。
: F% j. m+ h5 |元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。; [! r* G& L! d, H1 Y

* ^2 K. I- Y3 B1 ]6 S+ X“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。& y" s2 @) ~# y) c: c( g
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五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战,
! O, ^/ x6 {: R& W2 ~. B; e人在德国 社区
% v3 `/ M. u) z! v( F包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。* o" Z0 \  k3 {1 r# O2 Z
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“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。”* c/ w: s' C  O  R' a7 }

% l% \& S2 B2 `  A4 q【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦
/ v* L2 G) n# n( @■既に退路はない + ]+ R" [2 m+ Z6 k$ _2 E
4 @4 }2 k& o! N
 トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。5.35.249.64; y0 B0 e% m; [, t* f  n& x

  k" [$ y+ ]) b& X: R3 P 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。
+ O7 a, n% q7 n/ x6 R0 N& u$ b! L1 q  y; S8 `
 そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。) m4 M6 v! W% [

( s2 _8 q& w+ F' L  A! g) W# \ 政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。
* R2 m  Z. J, L" B, `) H, V) A3 z; i% x$ P0 q0 G- `$ [3 s
 この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。
& l7 A# Y2 U) Y1 ?2 d5 t
) D) y( c4 B+ o& k0 W6 H$ W 「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」  o5 I9 |+ r' E* q, i
5 e' L  a0 s8 N1 g5 n
 トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。4 j% a' h% T$ B( ~& w/ C6 T
  [' Q7 ~. j- f* b! I
 江沢民氏は5月30日に北京に呼ばれ、31日、トウ小平氏から次期総書記を命じられる。トウ氏は続いて、李鵬、姚依林両氏と会い、改革・開放を徹底、腐敗を撲滅し人民の信頼を得るよう話した後、次期総書記に江氏を決めたと告げ、一致協力するよう指示した。: y$ r$ V! S- [( \( v

, z7 C# t3 e1 X" l 《「トウ小平年譜」は、李、姚両氏への講話を掲載しているが、江沢民氏との面談の記述はない》1 g8 L) y3 [- c7 I6 `' r# n
" {4 k0 ^: L6 r  [5 b: ?
 長老会議2日前の25日、新華社香港支社長の許家屯(きょかとん)氏は中南海で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と会う(「許家屯回憶録」)。
; }+ F5 v' S7 Q; n8 T7 S0 A# j5.35.249.64$ X+ u  r  o- ~' o
 楊氏は趙紫陽氏の停職を告げ、後継者は未定だが、「李鵬はありえない」と断言した後、言う。' }* U) r' u( x2 B, k! o" x

; f% O! q+ c& ^* Q: m. Z5 b# k5.35.249.64 「トウ小平同志は、既に退路はないと話し、戒厳令を選択、軍を動員して動乱を平定することになった。党中央の決定を支持してほしい」2 P6 ~$ S+ l9 o. h/ j

  t, ~, Z: _4 V0 Q. a( R8 n+ p 許氏はしばらく言葉を失った後、言う。人在德国 社区* z3 D6 Q0 x' j% I& p1 J
/ ~! k$ {2 n* D% d( H, a
 「軍を動員しても、万が一にも流血はだめですよ!」" x  f, Y2 _5 X
人在德国 社区& G3 G8 i7 g& ^+ T+ |$ ^; ?
 楊氏は即座に「それはない、それはないよ」と言い、こう続けた。; A* Q' w- b. v

6 G: X" K6 E7 o5 w2 ^# E 「徐向前(じょこうぜん)、聶栄臻(じょうえいしん)両元帥も同じ意見だ。彼らは既に中央に(流血回避の)意見を出している」
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 《55年制定の軍階級制で最高位の元帥に選ばれた10人中、徐、聶両氏のみ健在だった。両氏は武力行使に反対と伝えられたが、当局はデマと否定していた》5.35.249.64" L" R' n! W! h! m

$ [2 B* P7 `- y0 q0 L2 ? 「真相」によると、5月27日の長老会議で、「動乱」の平定作戦の実施時期が話し合われた際も、楊尚昆氏は「いつまでも引き延ばせないが、流血は絶対に避けるべきだ」と主張した。
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 陳雲氏は「流血は極力回避すべきだが、5月末には解決するよう」主張、トウ小平氏も「これ以上引き延ばせない」と述べ、政治局常務委員会に迅速な秩序回復を要求した。
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 天安門広場では5月30日、中央美術学院の学生が作った「民主の女神」像が立てられ、市民の目を奪った。しかし座り込み学生は5000人に減り、大学が授業を再開する中で、学生運動は内部分裂し、消えかかっていた。% m9 \8 s  B: X

9 }) {9 c8 _& S/ o; @ それを立て直し持久戦をやろうと考えた知識人がいた。北京師範大講師の劉暁波(りゅうぎょうは)氏らだ。劉氏は社会科学院副研究員の包遵信(ほうじゅんしん)氏や北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)氏らに、リレー式で絶食をやる計画を持ちかける。
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5 m; X3 E7 ]( s" V8 r: u" k人在德国 社区 包氏の著書「六四的内情」によると、包氏自身は、この計画に反対だったが、王軍濤氏は賛成した。そして6月2日夕、劉暁波氏、台湾の歌手、侯徳健(こうとくけん)氏ら4人が絶食に入り、広場は久しぶりに熱気に包まれた。人在德国 社区* |& D* P& C5 T/ C4 n& S4 `0 S+ f/ p( G
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 その日の午前、トウ小平氏ら長老6人と李鵬氏ら3人の政治局常務委員が会議を開く。李氏の状況説明に長老らは激怒する。第一声を放ったのは王震氏だった(「真相」)。
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 「くそ餓鬼どもめ。神聖な天安門広場をなんだと思ってるんだ。解放軍は何をしてる。反革命どもをとっ捕まえろ」
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 李先念氏が一刻も猶予ならないと強調、「今晩から『清場(チンチャン)』(天安門広場からの学生一掃)を開始しよう」と提案。最後にトウ小平氏が言った。
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6 t- u; f, v9 ?' r; j 「みんなの意見に賛成だ。戒厳部隊指揮部は今晩、清場実施計画を開始、2日間で完了するよう提案する」(伊藤正)
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【用語解説】軍階級制
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 1955年に導入されたソ連式の階級制度。革命の功労度により、元帥、大将各10人、上将57人、中将177人、少将1360人以下、全軍人が階級付けされた。66年に廃止されたが、88年に復活。新制度では元帥、大将はなくなり、上将が最高位に。徐、聶氏以外の元帥は、朱徳、彭徳懐、林彪、劉伯承、賀竜、陳毅、羅栄桓、葉剣英の8人。
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1 F2 z) N) T/ j. v0 Y, H0 r1 s  z人在德国 社区(2007/03/15 )
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1989年5月30日、天安門広場に学生たちが作り上げた「民主の女神」像。米国の自由の女神像をモデルにしたという

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