邓小平秘录:邓图以社论阻止学运是误算
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) _6 f6 `; L- B" g(中央社记张芳明东京三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平在一九八九年四月二十六日以人民日报刊登指控学生运动社论和解除上海周刊“世界经济导报”总编辑职务的方式企图阻止学生的民主运动是项大误算,反而使得学生和知识份子联手,使事态更趋严重。
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6 g- }+ p! {* y/ z% ]) Z( w“秘录”今天报导,四月二十六日人民日报刊登社论,把学生运动定位为“动乱”,引起学生的反弹,次日出现数万人的示威游行。当时学生高举的口号是“拥护共产党”和“维护社会主义”,令采访的中国记者感到困惑。
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其实这是学生方面针对人民日报社论的指控采取的高级战术,表明并非反体制运动,而是要求消灭腐败和确立民主政治和法制,这项口号获得不关心政治的学生和一般市民的共鸣。
5 k% c  {  Z* g' v" `5.35.249.64
. d: M) b8 P3 {/ ~3 O天安门事件后被以“反革命阴谋的黑手手下”罪名判刑十三年的“北京社会经济科学研究所”主要成员王军涛在二零零四年刊登的专文指出,他虽避开直接参与追悼胡耀邦的示威,但应北大学运领袖要求提出建言,忠告示威运动保持行进的秩序以避免镇压。; Y9 S0 ~/ V' z  s: ?- `( M1 @

* W* j- {5 ^  G王氏所属研究所的成员也在当时由“观察”学运转为“支援”学运,背景原因是被视为当时最进步新闻的上海的周刊“世界经济导报”遭到镇压。由已故的当时总编辑兼社长钦本立负责的这份周刊于四月十九日和月刊“新观察”共同主办追悼胡氏的座谈会,有二十多位著名知识份子出席,并计划于四月二十四日在追悼胡耀邦特集刊出会议内容。
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造成问题的是“中国社会科学院”前政治研究所所长严家其和“光明日报”记者戴晴等发言批评党在一九八七年一月解除胡耀邦的职务,要求恢复胡氏的名誉。上海市党宣传部在特刊发行前一天下午获知内容,当时的市党书记江泽民指示将问题部份删除,但钦本立拒绝,上海市决定禁止这份周刊发行,但已印好的一部份则已对外发送,江泽民于人民日报问题社论同一天的二十六日将钦本立解职。: j+ i2 ]) m8 e  R7 Z, W9 `

% q0 o' G* Y+ C- z人在德国 社区江泽民由于这项表现赢得邓小平等元老的信赖,是使得他在天安门事件后被提拔为党总书记的重要理由,但是,这项事件也引起知识份子和媒体界人士的强烈反弹。严家其等三十三名知识份子和北京的媒体界人士数百人连署对上海市党委的抗议文于二十八日发表,知识份子的危机感和学生要求报导自由结合在一起。+ U+ r. ?* ^" V! w
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中共党中央意图以人民日报的社论和世界经济导报事件来收拾学运,未料反而造成事态的扩大,对邓小平来说是一大误算。赵紫阳在二零零零年接受新华社记者访问时指出,在一九八九年五月十七日决定发布戒严令和他本人事实上下台的政治局常委会会议上,邓小平向李鹏表示,不要再度出现造成他发动戒严令的事态。" K. d# r/ b# G: B5 P) A, X
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人民日报刊出问题社论后的情势令元老们感到不安,前全人代常务委员长彭真电话指示党中央办公室(当时的主任是温家宝),要求党中央自制,不要扩大矛盾。中共当局于二十八日改变态度,同意和学生对话,但是,二十九日,国务院发言人袁木的作法对学生造成刺激,因为获准参加对话的四十五名学生之中,有四十三名是与政府息息相通的官派学生会的成员。
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正当李鹏等保守派被迫处于守势之际,赵紫阳结束了访问北韩之行于四月三十日返回北京,揭开了保守派和改革派激烈斗争的序幕。
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【トウ小平秘録】(18)第1部 天安門事件 発行禁止
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故胡耀邦氏に対する学生の追悼活動を「動乱」と決めつけた人民日報社説(1989年4月26日)は、学生側の反発を招き、27日の数万人の大デモになった。デモを取材した記者たちは学生たちの掲げたスローガンに戸惑う。「共産党を擁護せよ」「社会主義を守ろう」が前面に出ていたからだ。
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 これは、自分たちの活動は腐敗や不正をただし、民主的政治と法制の確立を求めているのであって、反体制運動ではないと訴え、「反党・反社会主義の陰謀」とした社説の逆手を取る高等戦術だった。そのスローガンは、ノンポリ学生の動員と一般市民の共鳴を得るのである。人在德国 社区2 Z5 F" W4 y; k1 G

2 D; Z; x  j& e7 L$ N人在德国 社区 後に「反革命陰謀の黒い手先」とされた独立系改革派シンクタンク「北京社会経済科学研究所」の中心メンバーだった王軍濤(おうぐんとう)氏(天安門事件後、懲役13年)は2004年に刊行された「浴火重生」(明鏡出版社)への寄稿文で、こう回想している。
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1 n' i2 w/ I6 i9 R3 `0 S5.35.249.64 「当局側が強硬措置に出、政治的粛清になった86年のデモのときと同じ事態は防止しなければならないと思っていた。胡氏追悼デモには、直接関与を避けていたが、27日のデモの前、北京大の学生リーダーから求められ、アドバイスした」( q1 Z6 _  W& S3 t  x3 T
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 王氏は「運動の秩序を保持して鎮圧を避ける」必要を指摘、「スローガンに注意し、ピケ隊を設けデモ行進の秩序を守るよう」忠告したという。それを機に王氏ら研究所のメンバーは学生運動に対し、「観察」から「支援」へと転じていく。
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* F, g0 D9 o; d! M" H( W1 m人在德国 社区 その背景には、上海の週刊紙「世界経済導報」弾圧事件があった。1 w0 }9 W$ e* l$ `; p6 d
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 老ジャーナリスト、欽本立(きんほんりつ)氏(故人)が総編集長(社長)を務めていた同紙は、当時最も進歩的な新聞として知られ、北京の中心部にあった支局には、改革派知識人や外国人記者が自由に出入りしていた。北京社会経済科学研究所との交流も深かった。
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+ A% a9 K+ J6 s9 b5 I9 w) f 同紙は、4月24日付紙面で胡耀邦氏追悼の特集を企画、その柱として19日に月刊誌「新観察」と共催で、胡耀邦氏追悼の座談会を開いた。著名な知識人20人以上のほか、胡氏の長男、胡徳平(ことくへい)氏(現党中央統一戦線工作部副部長)も参加して故人をしのんだ。
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 問題になったのは、中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏や「光明日報」紙の戴晴(たいせい)記者らが、87年1月の胡氏解任決定を批判、名誉回復を要求する発言をしたことだった。人在德国 社区6 ^7 m8 R4 w% e- l3 j

1 H  u- w( K) h7 j' n7 A それを上海市党宣伝部は23日午後、校正刷りで知る。陳至立(ちんしりつ)宣伝部長(現国務委員)から報告を受けた江沢民(こうたくみん)同市党書記(前国家主席)は、宣伝担当の曾慶紅(そうけいこう)副書記(現政治局常務委員)に、問題部分を削除させるよう指示する。人在德国 社区: M& g* `+ F8 Y7 C; H, u5 [) t2 C

/ k( d1 `1 |5 y0 @, f: M; I しかし、欽本立氏は拒否する。輪転機が回る中で、やりとりが続いた末、市側は24日付同紙の発行禁止を決定したが、既に一部は発送済みだった。江沢民書記が欽総編集長を解任したのは、人民日報の強硬社説と同じ4月26日だった。1 p; ]8 T5 B# M, ]

; o- s2 u* b, D4 d" I8 W0 E; x8 j% }% |+ @ この事件は、江沢民氏が天安門事件後に総書記に抜擢(ばってき)される重要な理由になる。トウ小平氏ら長老が解任した胡耀邦氏の名誉回復を決然と拒否する措置を取ったとして信頼を得るのである。
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5 l) O* v. {8 t6 u1 A. y9 K5.35.249.64 しかし欽氏解任当時はそうではなかった。知識人とジャーナリストの強い反発を招いたのだ。厳家其氏ら知識人33人、北京のジャーナリスト数百人がそれぞれ署名した上海市党委あての抗議文が28日に発表される。
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 そうした知識人層の危機感は、追悼デモ報道に不満だった学生たちの「報道の自由」要求と結びついていく。人民日報社説も世界経済導報事件も、事態を収拾する意図に反し拡大させてしまったのだった。# z/ s% ?7 W" `2 ?! A0 l
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 それはトウ小平氏にとって大きな誤算だったに違いない。
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  A  z6 o9 f) G/ m 趙紫陽氏が2000年5月に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者に語ったところによると、戒厳令発令と趙氏の事実上の失脚が決まった89年5月17日の政治局常務委員会で、トウ氏は李鵬首相にこう話したという(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。, Q  ^$ g& V( H8 |1 B

/ }. m- E& J" G; k$ [ 「わしに戒厳令を発動させるようなことは、二度とするなよ」人在德国 社区; `5 \& A& e' U- t( k5 m

/ w/ u, J1 u0 I' z$ F 人民日報社説後の情勢は、長老たちをも動揺させた。趙氏によると、彭真(ほうしん)・前全国人民代表大会常務委員長は党中央弁公庁(主任は温家宝現首相)に、「党中央は自制し、矛盾を拡大することはするな」と電話したという。
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 当局側は28日、学生との対話に応じる姿勢に転じる。しかし29日に袁木(えんぼく)国務院スポークスマンが行った対話は、デモの主体となった学生側を刺激しただけだった。参加した45人の学生中、43人は政府の息がかかった官製学生会のメンバーだったからだ(陸超祺(りくちょうき))著「六四内部日記」)
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+ Y; {3 Y5 s, Q 李鵬首相ら保守派が守勢に追い込まれる中で、趙紫陽氏が北朝鮮訪問を終え、4月30日、北京に帰着する。そこから激闘のドラマが始まる。(伊藤正), Z5 U% n1 h7 h& [+ i" H

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【用語解説】世界経済導報5.35.249.64$ i  I1 G9 M. z7 e, `9 D% Y& C

7 c& n7 q  M( s* Y8 v6 i2 u 上海社会科学院世界経済研究所が中心になり1980年に創刊したタブロイド判の週刊紙。当初は経済専門紙だったが、欽本立氏が総編集長になった85年ごろから、政治改革主張を強め、中国の知識人層や海外メディアが最も重視する新聞になった。88年の平均発行部数は18万部。天安門事件後、「上海における動乱の拠点」と非難され廃刊。
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江沢民前国家主席

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邓秘录:人民日报社论反使学运全面化人在德国 社区1 ]- |7 V9 ?5 a  B# T- Z; Q; G& z" r

2 J9 H( J: g3 |0 R8 K$ K5 t. _  Z5 `# [: O(中央社记者张芳明东京二日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,人民日报于一九八九年四月二十六日发表谴责中国大陆学生示威运动的社论不仅未达到威吓目的,反而促使一度呈现分裂情况的各大学学运迈向全面化,加上,上海“世界经济导报”受到中共当局镇压,知识份子也展开行动。0 z1 R) }2 F/ l: Z
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“秘录”指出,四月二十六日,人民日报刊登标题“反对旗帜鲜明的动乱”的社论,断定学运是有计划的阴谋动乱,是少数别有居心者利用学生反对党的指导和社会主义制度,表示坚决反对。这篇社论完全是邓小平二十五日谈话的内容,未反映三天前赵紫阳的“三项意见”。赵紫阳后来接受新华社记者访问时指责李鹏歪曲事实欺骗邓小平,诱使后者发表镇压学运发言。) Y. E/ ?9 ~; u9 l8 o' E
邓小平曾于一九八六年十二月的学生运动对胡耀邦等发表内容主调相同的发言,次年一月六日,人民日报发表“反对旗帜鲜明的无产阶级自由化”后,学生示威运动趋于平静。但是,一九八九年的学运情势相反,社论一出来,反而重新点燃由于内部意见对立而一度失去目标的学运,并得到社会的广泛支持。
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% r  m1 Q* s  z2 ?人民日报刊登问题社论前夕的二十五日晚上,中国中央电视台先行播放内容后,王丹在北京大学召开“民主沙龙”讨论对策,各大学的学运迈向全面化是在社论发表当天的二十六日,学运人士呼吁二十七日一起前往天安门进行示威,北京市内有数万人在市内示威游行至傍晚,市民沿道欢呼,送给学生饮料乃至于捐出现金。5.35.249.64: n' b' x; U. {# j: }0 r
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就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。
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【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説5 j: l1 ]5 T( {" W$ r
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■反応は86年の逆だった人在德国 社区& q/ F: v3 X' s' x, i. ^$ F, H5 H
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 「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」  G# [/ r, |% X! A

  J: J# E. f% x8 N; D9 q 1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。
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; q. d5 F) R$ M1 Y1 s& q  `1 P* c5.35.249.64 社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。
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2 a. A+ p# {3 x/ o9 P1 O 人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。
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 「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」6 V. k4 Y$ O) i& z0 C

- Y) W  h" Z, ?1 C7 \$ q) n3 ` その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。0 h" R+ f3 b& v: \0 E
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 陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。人在德国 社区+ [% D; L& T% o, z% n  f0 x5 D

  \! v  u7 F. o3 r2 o: c 社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。人在德国 社区$ u! E* z) ~* u& `( W# w# A/ @6 n
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 93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。& y0 x8 X2 ?+ M' A) }

8 X0 [. u7 {5 L: G  c  T6 s' W トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。. s, M/ a- f. W+ K$ a* |5 W
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 しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。
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& V; Q6 s5 H  Z! d! w 北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。
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8 c1 E! |- M1 v人在德国 社区 当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。
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 この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。8 w: F) f0 J4 c  }( Q! N; D6 K; x

8 J9 ]) C) J3 U) g 新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。
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5 P; I) [, L" W5 B' p それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。
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) ^" e6 Z' j' e, |: A0 T/ Y# }4 ^ 《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》
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 各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。人在德国 社区3 n  h' M) M5 G- d! q% u
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 これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正)
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【用語解説】トウ小平文選" d( H- V6 V3 v# L5 ^# }: a

3 d, I; ?: c5 A8 {# S トウ小平氏の発言や報告をまとめた公式文献集。1983年出版の第1巻は75年から82年9月まで、89年出版の第2巻は38年から65年までの言行を収録している。93年刊行の第3巻は82年9月から92年2月までの主要な言行を収録。第3巻に未収録の89年4月25日の講話は2004年刊行のトウ小平年譜で初めて一部が公表された。
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1989年5月4日、北京大学で学生たちにデモへの参加を呼びかける当時のリーダー、王丹氏(中央)

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邓小平秘录:保守派决定制压学运
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3 U* }4 m9 u6 J+ V7 P5 a8 ]人在德国 社区(中央社记者张芳明东京一日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,中共党总书记赵紫阳对学生运动向党提出较具弹性的对策后,于一九八九年四月二十三日启程访问北韩,随后,学运的情况出现变化,留守的李鹏总理等保守派掌握主导权,在获得邓小平的同意下,决定对学运采取坚决制压的手段。0 m; h3 ?' k% N3 K5 S

8 K) j; r: z6 {+ o“秘录”指出,党总书记赵紫阳于一九八九年四月二十三日搭乘专用列车由北京启程前往北韩访问后,留守的李鹏总理等保守强硬派就掌握了主导权。赵氏出发的次日,学生民运的状况一变,北京二十一所大学的四十多名学生在“圆明园”会合,决定成立“北京市学生临时准备委员会”,商议罢课和派遣组织干部前往地方的事宜。
# s$ n1 X8 Y5 V/ ^人在德国 社区
9 d' K. c* }" X& Y北京市书记李锡铭和陈希同市长获知此一情报向中南海报告有必要尽早采取对策。张良编著的“中国六四真相”指出,李锡铭报告,学生运动越来越严重,已有三十九所学校的五万名学生参加,最凶暴的是北大的一部份,由方励之的太太李淑娴下指示,方励之则扮演学生与外国媒体之间的中间人角色。
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“真相”指出,万里接到此一报告非常吃惊,前往和李鹏见面,李鹏当晚召开政治局常委非正式会议,听取北京市党委和国家教育委员会的报告,由于会上是清一色的强硬派言论,改革派的万里和田纪云只有默不作声。8 u2 K- s# |" f6 T
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天安门事件后的六月三十日,陈希同在全人代报告时指出,四月二十四日的政治局常委会上与会者一致认为学运是由少数人操纵与策划,党面对有计划有组织的反党反社会主义政治斗争,因此决定由党中央成立“制止动乱小组”。
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# G6 _2 x5 y4 g$ U% ~* |“邓小平年谱”记载,四月二十五日上午,杨尚昆和李鹏拜访邓小平,报告前一天常委会议内容。邓氏表明完全支持常委会的决定,并发表讲话指出,此非通常的学生运动而是动乱,需以强烈手段加以制止,不要担心国际的反应,中国发展实现四个现代化才可获得真正的名誉。
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邓氏接着指出,有必要坚持四个基本原则,使用人民民主专制的手段,刊登社论,并有必要立法,准备全国性斗争,坚决制压动乱,这次的动乱是完全性计划的阴谋活动,重点是否定共产党指导和社会主义制度,背后有黑手及其打手,方励之夫妇是典型。
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* s5 x, f4 D) E  M邓小平的讲话和前一天晚上的常委会决定在二十五日当天晚上转告人在平壤的赵紫阳,这项决定是与两天前赵氏提出的“三项意见”完全相反的强硬路线,赵氏于二十六日早上回话表示完全同意。
人在德国 社区* R' a# S0 Z# z9 q# z3 M1 Q
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【トウ小平秘録】(16)第1部 天安門事件 状況一変
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/ A7 n" u* a) B: h, n/ n1 w人在德国 社区 ■断固動乱を制圧せよ, Y: `1 L: `% g( _( {, k8 Q( i1 g. Y

' Q) ]  A( @0 ]7 O5 O6 S5.35.249.64趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は1989年4月23日午後、専用列車で北京を離れ、北朝鮮公式訪問に出発した。その直後に、留守中の総書記代行を託した李鵬(りほう)首相ら保守強硬派が主導権を握ってしまう。
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 趙氏はのちになって、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビューで、訪朝前、政治局常務委員会内には4月15日の胡耀邦(こようほう)前総書記死去後に起きた学生デモへの対応で「意見の食い違いはなかった」と話している(2004年出版の楊氏著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。- p: H3 r- S% N0 y  H
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 その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。
% F4 L  N0 x5 d8 t人在德国 社区
5 k/ Q5 \/ ?$ e/ h6 t 趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。
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9 j  V5 _' ~7 u7 S. \2 [! \$ x人在德国 社区 その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。/ k5 D- x, T7 b1 `5 q

7 F4 B; S; b( ]2 c& d2 X# o; a 22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。
3 b+ f8 {" D# _/ p人在德国 社区
" ^( }9 T0 f% U4 C* T* q 北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。4 F5 o- U/ s4 |% t9 n! p0 L
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 ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。; f+ m, d; t: C$ h6 Z! H& `

8 x+ x" A, p. r" w0 z人在德国 社区 それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。% J3 C& f' X9 O
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 「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記)9 t& J% m$ Z; }( R; j
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 報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。
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 天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。
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 そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。5 T+ Z, T4 `% G' j
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 楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。
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 25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。& c! }! p3 _) @$ {* \: x

% [/ P# }1 ~; z 「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」) ^# w! @9 ?% w( s% B

/ X' C$ m6 U* w. M) D$ x4 J 「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」5.35.249.64% b' g3 ]- ~8 S( n0 ]. l% k( V
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 「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」
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; k+ }8 `" e9 m& i8 ]+ [6 t+ v トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。8 q6 \8 q- }$ b. G2 ~

+ l+ X1 q% V1 ` これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。
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5 L- t5 k2 v6 R5 p. l  Z 油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正)
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  a2 q( z3 R9 h/ q人在德国 社区5.35.249.64: Y8 e0 W/ U* E/ H" k8 b) z
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【4つの現代化】
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 工業、農業、国防、科学技術の近代化のこと。周恩来首相が1964年の全人代報告で提起、75年にも再提起したが、極左派の妨害で頓挫した。文革後の77年の第11回党大会で最重要課題として復活。トウ小平氏は79年、21世紀中葉に中進国レベルにする3段階発展構想を打ち出し、82年に改正した憲法に明記された。

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邓小平秘录:赵紫阳误算保守派学运政策
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" a. ^( K0 C; ~, |/ [+ B; x人在德国 社区(中央社记者张芳明东京二十八日专电)日本产经新闻今天在连载中的“邓小平秘录”报导,赵紫阳对一九八九年天安门事件前学生运动的看法和保守派形成对立,他认为学运发展有利自己夺回实权,未料到保守派对学运采取强硬对策,他的误算造成了后来自己的下台。5.35.249.64( e7 ?7 B, f; S! Q

/ ]. j+ B& ]0 [0 {0 s% E- _4 w5.35.249.64文中引述张良编著的“中国六四真相”指出,一九八九年四月二十二日胡耀邦的追悼大会结束后,赵紫阳总书记在人民大会堂和邓小平站着谈话,他表示将于次日访问北韩,询问邓氏的指示,后者要他好好向金日成问候。) i; D5 L: v" U* {3 V; q, A. p( H/ v* [
赵紫阳随后指出,已向政治局提出三项建议,追悼会结束后要断然阻止学生示威,严惩破坏行为,以及对学生主要以指导为主进行各层次对话,邓小平表示同意。赵氏接着表示,访问北韩期间,党中央事务交给李鹏总理负责向邓氏提出报告。5 N$ F$ e3 \! f0 \* w& ]

& r1 N' U, s6 a: k/ a随后,李鹏问赵紫阳是否在出访前夕的二十二日下午召开政治局会议,一旁的北京市党书记李锡铭也指出,党中央有必要作出明确决定,赶快阻止学生示威运动的发展。赵紫阳回答表示,已无时间,学生示威问题应无须召开政治局会议,并指出他已向邓小平说明三项对策并获得同意。
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赵紫阳对李鹏等重覆三项对策,并加上一句,强调无论如何必须避免流血事件,一旁的国家主席杨尚昆表示赞成赵紫阳的意见。李鹏表示赞成赵紫阳的三项意见,并指出若有重大情况会随时通报。表示没有时间召开会议的赵紫阳却于二十三日下午启程前往北韩之前,前往北京郊外的高球场打球。
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& G+ z+ I$ R; P9 E3 {- F! {5 y赵氏在天安门事件后的六月二十三日召开的党十三届中央委员会第四次大会针对李鹏指控他容忍放纵学生示威辩解指出,学生要求拥护宪法、推动民主及反对腐败等与党和政府的主张基本上一致,学生的热情贵重,社会各界的支持很高,他个人认为要平息骚动有必要回应学生的声音。+ g  e' F! x- Q+ r) u; g( a8 ~( \! v; d

" b5 u$ F) h1 v( O0 w1 _“秘录”指出,在针对学生示威运动是采取“无产阶级自由化”份子用来颠覆社会主义政权阴谋的看法抑或是学生只是为改革开放造成社会矛盾提出异议的看法,赵紫阳是立于后者的观点,和一九八七年一月被解职的胡耀邦是同一立场。
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# Z$ G" K0 n* s! s5.35.249.64渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。+ w& L# r+ S+ C: d: Y2 h
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“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。) B! z" h, ]* R  D: `4 ^7 ?

: C1 \. [$ a4 r3 K' M赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。
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3 U; H- y+ c( a. w, V# x【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択
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! \! l/ m6 S3 J/ h: p; `; J8 p6 H% w見通しが甘かった8 X0 H- h3 I& C4 Q! O+ A! Q* a9 J! i4 z

2 F' g7 ^- Z, g 「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」, g1 m; z$ G/ s  m' @4 m9 _
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 天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。, Q4 Q' t+ p( z4 C

) i. \+ D. F. {- _! [% ?# N& R 「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。
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 張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。5.35.249.64$ U4 Z9 ~( e7 C$ Z2 v2 m. T

, O& U! h( n: b, p- D8 O0 G 趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」
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5 e2 X& D; s) x" Y$ `$ p人在德国 社区 トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」: ~9 I8 V9 c1 B3 @* V- U  c! f

$ x7 t* K. Q4 v* \3 [ 趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」3 s1 o% S% ^6 J5 K0 x* f6 s4 ^

0 t8 o/ E- [6 s トウ氏「結構だ」
  a/ H$ f1 Q  |  N: l( P- ]# z人在德国 社区
  w; A! A* H( D: N6 j/ b5.35.249.64 趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」4 g0 H/ C1 F4 n7 D0 `

, h* h5 n' Y& P* P1 j. U その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。! d5 m4 J! L0 L8 d; M7 S) l

) e0 ^# i0 E* M. Q 「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」
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) N; ~$ M6 H% c0 A# _4 [7 A! o人在德国 社区 北京市の李書記が続ける。
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 「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」2 K; \! K1 q8 e* F" C. ?
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 それに対し趙紫陽氏は言う。
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- o4 E& T" r) n, [ 「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」5.35.249.64+ Y; j  s+ n3 S( m; f" R

. y- `, U- j7 h- l& Y$ G 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。
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5 N3 n1 B' Z7 ?: D5 \5.35.249.64 趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。
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: s# K" z+ t+ s& \" q* V2 T 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。; f3 Q/ S' M; K5 b

% ^) o8 W6 g% X4 ^+ O 4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。
! d/ j2 A8 D" S( ?$ _2 B4 l7 v5.35.249.645.35.249.645 Y. t$ W/ |: X% ?
 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」5.35.249.646 g6 f; _/ i, B8 d
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 学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。
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 数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。3 G! y: I6 G3 }- }# ^
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 「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」
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 李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。4 y1 d% u( T# a+ u& z% `3 [7 w

* F( f' F6 \3 g! q! Q! v; R 趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正)+ i6 C5 \) `0 o  d

  A, @; Z" I* p* J4 K5.35.249.64 ■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。0 L4 Y* x9 |/ j- j- w; g+ ~
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●=くさかんむりに内
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(2007/02/28 )
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" v6 g( Q- b' E- P' G/ g5.35.249.64天安門事件3カ月前の1989年3月16日、北京市郊外でタイのチャチャイ首相(左=当時)とゴルフを楽しむ趙紫陽氏

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邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」5.35.249.64# S) _. }) ?5 p- p$ |
中央社
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8 ?- Y. M# ^) G1 d/ ~( p/ E) b人在德国 社区    日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。
0 P$ ?" Q6 N. ]3 U$ A$ m
- M, N  a6 x/ Y    连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。0 h4 `+ x4 A4 L

, t* |- S: o  M1 O8 W7 S# K    中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。
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    秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。
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, [* r# r, P; R/ p    文中接著指出,当天为止,方励之并未有与学生示威直接关联的行动,公安当局掌握的是方励之夫人、北京大学副教校李淑娴和北大历史系学生王丹「谋议」。
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    北京市党委会在天安门事件后发表的「制止动乱纪要」中指出,胡耀邦死后两天的十七日,李淑娴在北大和学生讨论,呼吁发动示威,示威组织的中心人物是王丹。王丹于十八日上午在天安门广场演说,拟订包括恢复胡耀邦名誉等七项要求交给中国人民代表大会事务局,这些要求是事前和李淑娴商量后才决定,且事后王丹和李淑娴还相互联络。5.35.249.64/ @5 A; Q/ v; n6 k" e7 Z
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    秘录指出,王丹和方励之夫妇的交情很深,包括一九八八年设立「民主沙龙」等,王丹受到方励之夫妇很强的影响。由「纪事」可看出,王丹受到有关当局很严厉的监视,但是,他并不在乎,继续发表演说呼吁示威、罢课和成立北京各大学的联合组织奔走,而成为学生运动的领袖。特别是二十日以后,随著大学之间的合作而提高保守派的警戒。4 ^3 S3 y  [8 m
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    赵紫阳和保守派相比则显得乐观。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳的改革同志田纪云副总理在二十日上午和赵氏见面,指出不仅北京,连地方都有不稳定的情势,建议将预定二十三日的北韩访问加以延期。
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    赵紫阳回答表示,他虽曾考虑延期,但若改变日程,将会让外国怀疑国内政局不安定,因此决定照原定计画访问。赵氏于二十三日下午如期搭乘专用列车启程前往平壤,到三十日返国期间,中国国内情势已出现重大的变化。
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5 q- U% U: s* O+ D0 l. \5.35.249.64【トウ小平秘録】(14)第1部 天安門事件 追悼大会
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0 b0 D) c1 x0 X人在德国 社区.
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 1989年4月22日午前10時、北京の人民大会堂で故胡耀邦(こようほう)氏の追悼大会が挙行された。トウ小平(しょうへい)氏はじめ党、政府、軍首脳や各界の代表ら4000人が参加、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席(肩書は当時、以下同)が司会し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が追悼演説をした。
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 演説は胡氏を「偉大なプロレタリア革命家」と呼び業績をたたえたが、「偉大なマルクス主義者」は使わなかった。2年3カ月前の解任事件にも触れず、学生たちが要求する胡耀邦氏の名誉回復はなされなかった。「ブルジョア自由化」の罪状は重かったのだ。4 r. _* |5 K, c2 @( Z8 v

- V0 X! ]4 X; Q. l- ], w6 B* C' K 北京市はその日午前4時以降、天安門広場への立ち入りを禁じていたが、学生たちは前夜から数万人が広場に入って座り込み、胡氏の遺体への告別を要求した。当局側が大会の実況放送を流すことで折り合ったが、胡氏のひつぎは学生たちの待ち受ける東門ではなく西南門から八宝山革命公墓に運ばれた。
+ S: D& J, Z* }5.35.249.64" l7 e  k: U, F7 t
 追悼大会に参加した人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は著書「六四内部日記」の22日のくだりにこう書いている。# P* H& T: s' u3 o
# h5 W# K$ s7 N0 O5 Q% Y# s
 「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」6 ?  S$ H9 {9 R, [  }% w

# L& C8 \, `: I. r; |8 Z0 L5.35.249.64 トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。* [3 N' N2 W4 v5 n

5 e5 E8 J8 A2 d& o5.35.249.64 長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。* A4 |5 s* e: |  x' H
* O" j3 w6 }7 p, ~- j
 「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」人在德国 社区) K- b2 Q6 z& }6 J; _

( e8 ^4 m" B8 u+ e0 n: w& R これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。9 h$ O2 g1 L7 M7 ^
" r3 R7 s2 O: u" W7 K+ Z) R
 「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。
* j" B9 k8 Q7 [( ^' q0 O2 A7 a# k+ g: b8 X. K+ `
 この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。7 i) a& h4 S9 E! @5 ]
5.35.249.64% N: {9 A9 r7 ]0 x6 T! F
 しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。
. w; ~* i$ y/ \8 j% n0 r: K% j: B5.35.249.64* t7 o: h9 _1 g1 F
 北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。
" P$ _* g" z. t  C1 ^/ v' h+ b  ]* o' v. v1 {& k
 王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。5.35.249.646 k# s* G4 B) j0 X/ |! }  }, L& o/ u
5.35.249.64$ x/ n, u4 Q2 v% H0 n
 王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。
  k/ X" H, P+ C+ L人在德国 社区人在德国 社区3 K1 ^. ~$ s% O
 それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。
4 F' ~; ^- L! D1 A7 K* G
5 u# \9 A9 a. G5 U% B( T それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。
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 「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」3 Y. f+ j$ x- p% O; o# O& @1 Y2 X
人在德国 社区, Z/ p6 Q. Z7 W! P1 D
 趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正)
8 @' r9 U' c$ I9 j; w5 p% ^* e* x) y8 t
5.35.249.643 h, z9 r/ s: s/ ]

) J& w3 I7 q0 x' |0 c5.35.249.64【用語解説】八宝山革命公墓' j( D* S$ V$ ?9 I) k! [
$ R, K. [2 {; q4 y% ~: d
 北京市の西郊外にある国立墓地。新中国になってから革命功労者を弔うため、明代創建の護国寺を改築し革命公墓と名称を変えた。指導者や高級幹部が眠る。1950年代に火葬が法令化された後、遺骨は納骨堂に置かれるようになった。火葬場を併設、胡耀邦氏もそこで荼毘(だび)に付された。# Z6 w) q( R; t$ g1 K
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(2007/02/27 08:08)

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邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派0 f  \8 _) V( D8 F$ h
2 C$ m8 W& z% N0 C7 _+ p
 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。
" ?3 y: Z# c! P4 d  I+ e9 F# ]. x, V0 N1 k3 ]
     文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。# @2 k; z( i/ D1 h: a
2 T" n5 @% g: w+ _! j
     根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。
# F% A( d; u, J- B" C1 Y2 M# X5.35.249.64
1 f/ r- {+ P$ u5 x" C- i" U% `     两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。
( B8 Y* j9 G& q' t: c. a
, G! D* t8 @' F/ V# {6 j# m5 D& }     十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。
& E$ }' J% M4 e; B' U# I5 v) ?
: H, K8 i/ s+ H- t1 Z     十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。
0 ?/ l. Z4 I% K5 ?* H/ j: \0 f5.35.249.64
, b" w4 ^! x) ]# h! m     二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。
5 x# c( V. [3 s9 B6 Q* u$ A
6 b, R5 Z" }, g# N: Z9 v6 I/ ^5.35.249.64     这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。
( ?% e! ]' J/ b2 a) Y! ?  @4 R1 Z. n9 T+ E9 T8 Q
     由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。

8 R; ], e/ P( B: p3 z) q! R' |) d7 h' E. Y9 H$ D

  [& ^& I1 n9 I# r【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件. J1 i: Y  q- q$ \

; w( u  D7 A0 \/ h■下心ある者を警戒せよ
+ l  r. V( \6 I9 f5.35.249.64
3 Y+ I6 C/ U6 ~2 e 異変は、新華門事件から始まった。
0 ]6 j/ W1 Q# ?: L$ X( M2 P: _9 H% L- R- j! V/ w% T
 1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。- z0 A7 x) p! B7 p4 K
/ ^+ g# P8 }. O1 a! o$ B9 |
 それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。
7 g: j# U- U8 J' S. l% J
! x! d1 k; {5 q: {# }! B5 G! \0 Q* I いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。1 `3 e1 s+ {( d, x

) s! p8 a# X( u3 ` どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。  E4 [' G3 j  e% N# S) [" ^5 m
9 X! \1 w3 a$ w4 A( v
 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。5.35.249.64* L' m. a5 `, u" m9 ?1 M
% r* r/ k4 H" e, N' k7 T
 楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。* ?5 t7 E3 I8 o3 ]7 u4 ?, Y4 ~' l

- y7 ^: q8 V& h8 H. ?- i/ b; D' Y まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。3 T7 m; C5 S+ b5 C% p$ d1 M1 |/ e
人在德国 社区7 D3 p/ u" X8 b, n, [
 党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。) ]: P" P8 Z8 W* G% k1 T

  v. o7 ]: l& s9 U3 u) z& H2 m 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。
, ~  Z' D* ^' M  L: f5.35.249.64/ x2 b$ J7 C# ]
 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。
  X  p4 i: V$ |
+ v, X/ V/ P# _: ?' z人在德国 社区 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。5.35.249.642 F: R9 V  ^/ m/ H
# m3 U' K/ \6 S* B
 この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。
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3 w* R7 _* N: |: K: b2 d) e 「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。. t8 q  P8 {1 d: B3 o7 L
4 ?' ]* H$ x9 i  N! h# N
 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。人在德国 社区, u  b7 c& D6 Z  o, k
4 ?; |, _' {) j7 O4 d5 Z
 全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。
7 f9 w) i  I* z; Z4 G/ m& ^
$ E! f  F. T! }7 ]& E* q5 r9 l5.35.249.64 この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。
% n! m# I! p+ P/ c人在德国 社区& X1 W: N. W! Z! D) C
 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。# @! S$ ^( D7 H1 s* F, E

& x8 ~+ N4 e, T  B1 f: N) L  Z8 ^ 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正)5.35.249.64% _3 N- S9 u4 O; x

" g+ K8 M) y* V2 Z$ R+ z% W0 T: m ■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。
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(2007/02/26 07:41)

) T8 C# B6 p0 w; k' K( z* n2 D( K) ?6 Z& |' S, E/ Z" [- g

) J* j4 k, O* k; n) M2 m6 `5.35.249.64  n" Q* _( }8 S4 ?* a7 S
6 }. X. T/ n! v/ }  \

+ `  ^) Q  {7 E) a4 y4 Y7 }  k0 f1989年5月9日、北京市内で「新聞(報道)界の良心を声援する」との横断幕を広げる学生たち

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茅台酒瓶问题成反革命开端人在德国 社区( w. g; p3 ?0 w+ Z0 w! {5 C6 k6 J
(中央社记者张芳明东京二十五日专电)日本产经新闻今天连载中的“邓小平秘录”透露,一九八九年四月十七日由中国法政大学主导,为追悼胡耀邦而进行献花行动中的茅台酒瓶问题,被中共当局作为“反革命煽动”的开端;十八日晚上前往中南海要求与李鹏总理见面的学生和警卫发生冲突,成为天安门事件悲剧的序曲。4 C: v( W  W3 Q/ d* }7 Y4 ^& t
5.35.249.645 M. E$ U2 H+ O4 ^6 V6 U
文中指出,一九八九年四月十五日,前中共党总书记胡耀邦的死亡升高中国国内政治社会情势的不安,造成许多人预感可能引起某种骚动;但是,想必没有人会预测到后来会发展成为那么大规模的运动。
' z" f+ N) b( _/ m$ i5 H' Q0 [胡耀邦去世第二天的十六日,北京大学出现大量的大字报,不过学生很少;但是,十七日中国法政大学职员学生发动追悼大会后情况为之一变。十七日下午,先是六、七百人迈向天安门广场,沿途市民加入行列;傍晚时广场上出现了四、五千人,大学生对人民英雄纪念碑献花并合唱革命歌后解散。# p( I, y  E  z, l) a5 Z. h7 e

2 V6 u1 x, f8 y+ X; {) B这项示威行动后来被作为“反革命煽动”的开端,原因和当时在挂在祭祀英灵花圈下的茅台酒小瓶有关。中共有关当局指出,“小瓶”与“小平”同音,示威份子的行动是侮辱攻击最高领导人邓小平。5.35.249.643 H5 z5 f; {# A5 J$ r; ^& V. A; W

% P+ D' G2 `( t$ ]十七日深夜,集合在北京大学“三角地”的近千名学生出发前往天安门广场,十八日凌晨四时左右抵达广场,途中,人民大学及清华大学的学生也加入而增至数千名;其中大多数在有关当局劝导后搭车回校,但是有近两百人留下,热烈讨论今后的对策。& I. y$ K  Y2 z/ G
人在德国 社区3 G" f7 S3 V' t0 u1 ]6 I
这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。
  G- c6 X: ~, V( a4 W- M1 u5.35.249.642 i5 ~' ^1 T% o- ~; ^# O
当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。. F' e+ A* w4 s  [, Z

0 Y3 x* ?1 L0 q( e, Y人在德国 社区十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。

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3 h1 X0 V2 U. W% K  l  a" v  W【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に# U8 J$ q1 y$ ?" R/ X6 f$ p

- ?+ s# M- d# h: U+ ?# l4 l 1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。
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1 @4 [0 j* c1 ^' L" {. l5.35.249.64 胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。( W) b7 o8 @, i6 K6 L

2 n  v# U6 {) d: X( o2 l; [ 「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」
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 当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいないエリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。
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% _( P7 m5 ?8 r! X% N" Y' E1 K トウ小平(しょうへい)氏がこの年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが、「トウ小平年譜」では削除されている)
/ p" y& Q; B/ z' r& @
# G! W7 _$ ]- K$ \2 C/ U) x/ N9 y それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。
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 「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん)(哀悼の対句を書いた掛け物)に『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との無記名の張り紙を出した」: S6 F2 H2 H# O) S) P6 y
人在德国 社区* I: b3 v7 ^! W$ ]- C. t
 六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。
; \! n  D. K& }4 K5.35.249.645.35.249.64( z7 `  \) M; }. r/ I" s4 V2 Y
 呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。人在德国 社区- ^7 }; V; W( ?7 @  d+ j$ `
5.35.249.64" J/ |8 a  K% x5 t+ Q! Y4 Z
 「その夜遅く、北京大学構内28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」; s: C& J. B$ W% l3 A
人在德国 社区. {6 y7 z3 }. a; f9 f- m
 当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に同大のデモ開始時の模様をこう書いている。
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. I, t$ M9 i, f# c5 U$ t: t* J; @ 北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。5.35.249.643 w0 \) U, {! X, k. C; p1 H! j

' ~& ]" e/ T9 S人在德国 社区 しかし200人ほどの学生や研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など7項目の要求がまとまる。+ j" l7 K1 ]/ @7 [2 _" h

% ?. x8 m5 t- k1 V そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。* W9 S; @$ U( r) y9 s- W5 p, }
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 面会が実現したのは18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。" \' Q6 f* f' c6 g
# Y( y( j1 c) {, g) V" g  z
 「それで一段落したと思った」と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。5.35.249.64. a4 f# g) C! v+ _1 p# Z- u

6 |, A5 n8 `; ?$ u$ ?人在德国 社区 天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。
$ t8 l/ A6 P3 \5.35.249.64
4 c" K" E$ ^8 p3 L1 ?/ T" i. f 北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。人在德国 社区9 ^/ V( |0 t4 P4 q1 e; G( ~1 Y
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 それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。(伊藤正)
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 ■7項目要求 (1)胡耀邦の政治成績の公正な評価(2)「反精神汚染」「反自由化」運動の否定(3)国家指導者とその子女の資産公開(4)民間新聞の発行許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(5)教育予算増と知識分子の待遇改善(6)デモ規制を定めた北京市条例の廃止(7)今回の活動の公開報道(要旨)2 @& Y* s* F, y% ^

1 _5 w; ^) G3 U) E& r' N# o人在德国 社区(2007/02/25 )
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2 \& e* R4 k9 y- t6 ~# e' i人在德国 社区5.35.249.64* `! k, b& P0 B5 i: g3 W% {$ Z
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  Z* `  ?) C7 P7 {% q: Y: C. g" a# e0 A+ Y
1989年4月17日、胡耀邦氏の追悼のため、北京・天安門広場の人民英雄記念碑に花輪などをささげる大学生ら

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邓小平秘录:邓对赵紫阳发警语说中国不能乱
2 _0 m) I! ~# D# K人在德国 社区(中央社记者杨明珠东京二十四日专电); l) N8 @, d+ D$ Y2 K

# M) y" A. U  `( \5.35.249.64日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。
5 O& G% x# @  W" h+ f人在德国 社区6 `: Q7 M, `8 f/ T% a, A. Y4 G
秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。
2 e+ d3 F- h& l1 l人在德国 社区' s' r: o; E/ d' i
但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。
5 Y- G) `; `& N+ y$ [* D7 M- q( t* P
产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。5.35.249.64- N8 W2 W8 d( g3 M- q
1 A/ S8 n4 b% C+ t5 r! V- T
秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。
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秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。; e$ z+ N0 w6 _

" \- c( [2 a( c' A秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。
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秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。人在德国 社区! L1 A5 ]* K' ]" S; K
- {2 K6 d# }, a7 a$ y0 H
秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。
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【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。
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; m8 T- g$ ?" b) e その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。
( p5 w+ R3 e: h, z8 a7 ^+ f( O* K, P% o

  V1 C! J0 T5 O+ P2 d「中国は乱を許さない」
6 f8 i) [7 Q6 X$ S$ R, W5.35.249.647月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。: i  }+ v. v  \; Y( i5 [
1 q( v- L/ a" J' C% ]
 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」人在德国 社区2 z7 c/ V% g) G8 m$ I2 t! d- W4 \

, `4 [9 @3 A2 E) d) W2 C 「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。
* I0 Z3 s9 g) ^2 ~+ O" b# E0 T; N& `0 e2 W! M' D
 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。人在德国 社区# K1 D- h: k" c8 \$ |0 P

; |9 M$ F% P( t  b! ? 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。
5 r  e0 T  s/ m
. \2 b7 d$ |- \4 r( H 「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」
4 n$ J5 t6 e4 x1 O; R+ Y) I0 f( G
3 w- ~# i# X" U- e: [! L 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。
  d2 [+ Y% ~/ S/ L! x* R' k9 i$ v
! c5 a: K* c  \/ x/ o8 ?$ ] それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。
1 d* D, u+ v* |3 n6 f; K1 Q2 D5.35.249.640 o0 R; c+ \, P. S
 当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。人在德国 社区  i4 k2 r2 x5 Y1 b! z

; l% F" H# ]- r$ s トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。
3 _3 g2 }2 u+ s5.35.249.64
2 A+ F  T4 ]7 F' g  m; G人在德国 社区 ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。3 K* |# w; g/ |; c  A
5.35.249.647 `  E4 K  o" Q0 y
 「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。6 h5 T1 ^$ S& `  ~; b6 n. O3 U

1 S9 `2 u5 r* m6 C 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。
0 a8 z! {4 Y, t, q人在德国 社区
. U% A- c- S8 y 夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。
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 その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。人在德国 社区8 B3 ]( {* [$ }

- n5 n5 [8 c+ [/ I それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。( Z% b) M, N, C) c, L5 C5 @
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 3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。
) A3 p% m/ p: W, O
+ V, q! m( q+ @2 X2 R, l 「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」4 g. b" j% c  s9 H' l% |

% u1 P. b/ ~# [* p! n; B' H0 x 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」5.35.249.644 X) D/ Y1 g- _# c. ^
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 それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。$ \* G/ l' S7 h2 C1 h/ }
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 その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正)5 N  q' E4 h! ]+ }5 k0 _$ G

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1 b* T8 K3 N' ^9 \& s5.35.249.645.35.249.64$ v& @. ]7 V" P4 f* K1 G. L
【用語解説】抗米援朝
2 d. I" c/ s3 `5.35.249.640 Z! q) U9 w( _5 {% U" b
 1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。
  d- D& o: H1 E/ j9 }: a人在德国 社区人在德国 社区* O8 B0 }3 s( C6 e, c+ G9 A$ @9 e
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# @1 }8 e2 |6 B6 R% A, [5.35.249.64- X  ~# p  D7 ]- E9 r4 F- B% j
人在德国 社区4 b% c9 p1 U: U, s$ g4 O

% v. M. [% f4 }8 w5.35.249.641988年12月、モスクワで会談する中国外相(当時)の銭其シン氏(左端)とソ連外相(同)のシェワルナゼ氏(右端)。中ソ関係正常化はトウ小平氏の長年の懸案だった

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改革风波造成赵紫阳地位动摇
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(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。
/ ^8 {) A, p' I& f% c% O* o  D: `$ U( F; `, L1 \
文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。! R: P, n; H2 N( \7 ]0 }
当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。
) C. p9 M! W/ [8 }
- z" ^; ^  V6 C人在德国 社区“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。
" ?; J% ~* F- V5 f  p5.35.249.64& Y/ ]* A8 |" S) T1 {
赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。
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“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。
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4 ~' c# ]  f; d, h  I: u5 f7 N5.35.249.64【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点
# W1 n6 t, J( w6 t5.35.249.643 P% M# W* K0 D$ A
1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。7 `* U) r' K. l1 Y  P# S' h" O

! k0 ~% c  z# r( ]' t0 G 「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話)
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 「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で)5.35.249.64- ^! m8 R2 e0 Q2 ^  W' U% n8 N2 r9 Q. S+ l

. p: A4 c+ @: y5.35.249.64 「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に)
6 z8 ~5 t4 e7 J" E5.35.249.647 }8 F9 V+ p7 R( J3 D$ K- L
 価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。
5 n6 n' q# W& s+ C. Y人在德国 社区
0 s( l7 r0 c2 P: Z, W5 V5.35.249.64 それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。# O( U$ O4 @  ^' _

( ?" }. Q% \; s. q  P; F; P 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。
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( K7 O; Y0 ~" t8 r! w4 k1 q5.35.249.64 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。
2 B5 v; P9 p. U: ^人在德国 社区) q/ w1 a4 M  ]1 i$ n# C. I: Z7 _
 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」# e# O! Z2 Y* V9 a6 U5 f
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 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。, @8 y$ m3 s1 W$ }- z% l
/ M: n$ @' h, ~5 y, B
 88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。: y3 a' m# g# ~3 G- k

( s1 X3 g& G& q. O* h' r 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」/ O3 `( k/ b( q
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 10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。6 b3 b0 |; l# J' T1 P0 T9 r6 J

. [% ^; b+ E& G0 M0 z 「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。1 D7 G. R- Q/ V8 N

- [/ W% I5 i- Q& _ 改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。
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7 m( e( c" a/ \3 } ≪空白の2カ月半に何が≫
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0 A7 \3 s: J5 E0 K5.35.249.64 「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。
6 U4 w* h3 t# ~5 f7 M+ ~" U5.35.249.64人在德国 社区9 K" _  G3 d6 }
 この間に何があったのか。
% F6 A' s( s% A% S$ S
& K8 I2 f: X5 c9 C7 @. m% R) c1 _ トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。
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7 _- T0 A" `, S( C& H 趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。
! G+ T/ ]; S+ x, Q  _1 q" N人在德国 社区
! M1 O& W) V; K) \: j 新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。
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# X; J" l9 D) ? 学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい)5.35.249.64* A0 _# `$ z+ P0 n7 D( F( c2 }4 R
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 トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。5.35.249.64: p6 _1 J: T+ P, ~6 t  f0 F: W' K
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 このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正)
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9 W7 ^" E) \9 A7 h- t ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。
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1988年9月16日、北京・人民大会堂で自民党の二階堂進氏(左)を歓迎するトウ小平氏

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评说邓小平 难避六四和“先富起来”: }7 y- y$ B$ r* n3 _

2 p2 F1 M4 M0 {6 u2 i; a人在德国 社区今年2月19日是中共领导人邓小平去世10周年,北京官方没有大张旗鼓地纪念,胡锦涛和温家宝也没有对邓去世十周年发表任何讲话和评论。
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, Q1 B7 L( d2 M' z2 O7 u7 g0 Y人在德国 社区邓小平一直被中共称为中国改革开放的总设计师。他的最著名的口号就是“让一部分人先富起来”;另一个无法回避的政治难题,就是六四的枪声。
( d" g: J2 c6 g) W" j*“让一部分人先富起来”是祸是福?人在德国 社区) X* C1 g5 z7 P4 C3 E( X

4 Y1 i0 l) K$ ?2 H2 Z3 v4 L人在德国 社区美国之音报导称,邓小平当年的政治口号在今天已成立中共官方禁忌。邓小平在1970年代末推行中共经济改革政策的时候提出的一个最响亮、同时也是让现今的中共最高领导层感到最难堪的口号:“让一部分人先富起来”。
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7 j; h& A- U& L! g+ v, {人在德国 社区将近30年过去,中国的公众普遍抱怨,邓小平所说的让一部分人先富起来,实际上是让大批执政党和政府当权者及其亲属通过强取豪夺富裕起来,中国大众则不得不承受住房难、上学难、就业难、看病难这些所谓的改革代价。人在德国 社区6 H! l& f! Y: O6 m1 ?% V: m' o

! B0 [$ Y' e6 ?# k住在北京的中国工人网编辑严元章说:“谁富了呢?他们是通过勤劳的劳动致富的吗?我看很多老百姓不认可这一点。他们认为,那些人是通过权钱交易,通过自己的权力,通过权力腐败而获得的财富。”
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  A% P- ^' D2 q0 q严元章说,这些年来,他多次到全国各地跟中国老百姓交谈,交谈中他反复听到的一个说法是,现今的共产党比1949年之前的国民党还腐败、还专制。中国迫切需要民主。人在德国 社区; k2 L: K1 B" I; O5 V$ {* q3 F
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人们普遍认为,共产党的专权导致的腐败,是邓小平“让一步人先富起来”的经济改革政策给腐败官员大开方便之门的话题。6 j( I. f: y* G% C8 }! Y4 u

4 Y" `, M0 k; M" {% J( V8 M5.35.249.64*六四血案 无法回避的话题6 \- T1 t1 c( y" P8 j( w! D
人在德国 社区: \2 Q. ?2 L9 n: o* N  _
谈论邓小平的是非功过一个无法回避的话题是他在晚年下令出动解放军镇压学生民主运动,血溅天安门,这段历史至今是大陆政治上的最大伤口,虽过去已18年,仍不容任何人触碰。
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前中国社会科学院政治学所所长严家其分析说,评价邓小平,躲不开对六四事件的评价。他说“我认为,对邓小平的否定主要是要否定他对六四的大屠杀。首先要把这个问题解决。当然两极分化、贫富分化的问题也要解决,但是,要用新的思路解决,不能简单地回到毛泽东的平均主义的老路上。”
) f, @  Y$ R- c  J7 t! j4 o0 h人在德国 社区
1 \! o' c* q$ }中国网民在严酷的政治监控下无法公开发表评论,在大陆互联网一些论坛上可以看到许多被管理员删贴的痕迹,论坛上的发言区上面许多地方贴着一行字:“该用户发言已被管理员屏蔽”。
9 u+ h/ J/ U2 U" x人在德国 社区
& @% J/ j# c, [6 K3 {' e5 R' v人在德国 社区有一位网友巧妙地表达自己对邓小平镇压六四的看法:“如果非得说(邓小平留下)精神遗产的话,那就是我们对枪杆子出政权有深刻感受”。
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* Y# w0 ^% I2 n' j4 J*改革开放的功过是非2 m/ x0 g9 L! j; k2 a# i& N
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中共一直称邓小平为中国改革开放的总设计师,有网民发表意见认为,“没有总设计师,80年代力主经改政改齐步走的胡、赵二位恐怕(会)将中国引向比现今更好的方向”。
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“邓的改革,使得甚至是最穷困的山区农民也在生活上改变了在毛时代的悲惨命运。但是,他作出实用主义的努力,又使得中国人走上了另一个歧途,那就是物欲横流、道德败坏。”5.35.249.64& ^, x! r# f5 F+ C4 v! j

8 K, K5 n. `9 Q中国问题专家严家其对这个观点表示赞同。严家其认为,沿着胡耀邦和赵紫阳确定的经济改革和政治改革并行的路线走,中国的贫富分化问题、贪污腐败问题当然不会完全杜绝,但是绝对不会有今天这样严重。+ K, g, t2 c; M- F3 |
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美国之音报导说,在美国的中国问题分析家认为,胡锦涛没有高调纪念邓小平逝世10周年的原因并非要否定邓小平的路线,而是试图在一定程度上从邓小平提倡的“让一部分人先富起来”倒退回毛泽东的“平均主义”。还有专家呼吁中国现任领导人客观全面评价邓小平的功过是非,为“六四”彻底平反,回到胡耀邦、赵紫阳倡导的经改与政改同步前进的道路上。
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# ~$ R7 q$ T; W% E" |- t日本产经新闻近日连载的“邓小平秘录”则披露了中共内部权斗的许多鲜为人知的史实。8 I8 l: C4 `8 k7 i& L6 _7 p

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2006年11月29日,山西省小青河(xiaoqinghe)煤矿,一个工人扛着煤走过毛、邓、江的宣传画前。

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