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发表于 2007-3-9 08:20
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邓小平秘录:保守派主张不能对民运让步
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(中央社记者张芳明东京九日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月十七日下午在邓小平家召开的党政治局常务委员会扩大会议,事实上决定了北京宣布戒严令和党总书记赵紫阳的下台,赵紫阳在会上反对戒严令而表达辞意,显示他看清戒严令将导至动武。
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“秘录”指出,与会者多数表示,当前的情势极为严重,绝对不能对民运让步,和主张撤回或修改四月二十六日人民日报定位学运动乱的赵紫阳的意见对立。会上决定对北京部份地区实施戒严。
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: r. a4 P# V( n6 \! r2 V, t人在德国 社区对赵氏表示理解的国家主席杨尚昆在会上指出,若让步将造成堤防溃决。邓小平表示宜下戒严令,并征求与会者的看法。以观察员身分出席的薄一波提议表决,结果李鹏和姚依林两票赞成,赵紫阳和胡启立两票反对,乔石弃权,邓小平的一票具有了决定权。
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赵紫阳在会上突然表达辞意,薄一波和杨尚昆表示慰留。十八日上午,赵紫阳和李鹏等前往市内医院探望绝食学生后,赵回家写辞呈,但杨尚昆仍然慰留,拒绝收件。
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赵紫阳在一九九一年对友人宗凤鸣指出,他的辞职是不想在历史上留下丑名。他的发言显示已看清楚戒严令势必造成动武。他后来在接受访问也承认,向访中的苏联共产党书记长戈巴契夫透露“邓氏是最高决定者”的党秘密决定是造成北京下戒严令的导火线。5.35.249.641 G0 e! r5 N' m! Y$ x
7 e+ j3 J+ v8 d( F党秘密决定暴露后,知识份子和学生对邓小平的攻击一天比一天激烈,邓小平想必重新忆起文革时代挨红卫兵批斗的恶梦。毛泽东指出枪杆里出政权,邓小平也示意经由枪杆来保护政权。
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【トウ小平秘録】(24)第1部 天安門事件 趙紫陽の失脚, k' c5 D% d" I9 a3 D9 @
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北京の戒厳令と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)失脚が事実上決まったのは1989年5月17日午後、北京中心部にあるトウ小平(しょうへい)氏宅で開かれた会議だった。「トウ小平年譜」は政治局常務委員会拡大会議とし、こう記している。, B+ x9 h5 \2 G6 p
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「席上、多数が当面の情勢は極めて重大であり、決して譲歩できないと認識し、譲歩を主張する趙紫陽の意見に反対した。会議は北京の一部地区で戒厳令を実施することを決定した。トウ小平が講話を発表し、常務委員多数の意見を支持した」% u2 m& j- k- S' Y O
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文中の「譲歩」とは、学生運動を動乱と定義した4月26日の人民日報社説の撤回ないし修正を指す(以下のやりとりは各種資料による)。# F! A$ m3 m, ]9 p$ s
! r9 G' o/ A4 v) R0 L人在德国 社区 会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。
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「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」
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それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。+ d% Y( i( d9 k7 U8 s
3 ?/ ]" K }8 C' v+ A" q' L5.35.249.64 トウ氏が言う。! m7 C. @0 g3 O) A! E: P3 D
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「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」& q8 V5 D4 e, @" X5 ^
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沈黙していた趙氏が発言する。
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2 k: Q: ?8 T! S' T7 L 「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」, d4 k: N* ?: @" \
5 a4 T9 X" h5 u' y/ y% }( ? 「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。" N% y9 @5 e6 B. c" Y5 q7 r
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その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。
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トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。人在德国 社区6 i8 P# D6 B! t' U- D" }1 s* i
# t4 i0 |" I/ B: v7 k9 { オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。
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賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。, Z9 z) R* `1 W' f: Q2 l( I
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趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」5 Z" R) ]6 X' W' Q3 C
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薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。5.35.249.64$ R6 Y5 y8 P+ M# P( M. ^6 [
0 M3 o( @, n4 s, R9 M4 {1 @: W5.35.249.64 趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。
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趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。
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「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」
. _7 ?1 L! H1 e人在德国 社区
* l3 V5 s& T. u8 q5.35.249.64 戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。
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6 |- |# S, w$ z さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。
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o$ W, k$ {; P" D 権力者の通弊として、トウ氏も自分の評判には神経質だった。趙氏によると、84年10月の建国35周年に、行進する人々の掲げる「小平、ニーハオ(ご機嫌よう)!」のスローガンを見て、トウ氏は非常に喜んだという。トウ氏の人気絶頂期だった。2 [; `2 g" U. q5 }1 C! J9 h) c
+ V! g3 ]/ {* i- f" b5.35.249.64 秘密決議暴露後、トウ氏攻撃が始まり、日々激しさを増す。特に17日昼に発表された知識人グループの「5・17宣言」は強烈だった。中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏が起草した宣言はこう述べている。
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「清朝滅亡から76年、中国にはまだ皇帝の肩書のない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる。趙紫陽総書記は昨日午後、中国のすべての重大決定は、この独裁者を経なければならないと公表した。老人政治は終わらせねばならない。独裁者は引退せよ」' t; t3 m% h. e- [
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トウ氏には文革中に紅衛兵につるし上げられた悪夢がよみがえったに違いない。趙氏によると、文革で身体障害者になったトウ氏愛息のトウ樸方(とうぼくほう)氏は「われわれは外出できない。学生にミンチにされる」と話していたという(「中国改革年代的政治闘争」)。
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" B: i1 A S$ K/ b! g* P& C人在德国 社区 「政権は銃口から生まる」(毛沢東)
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政権を守るのも銃口であることをトウ氏は示そうとしていた。(伊藤正): n1 X+ |4 L8 a
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8 p( y0 a) X U% T$ o) n) @5.35.249.64【用語解説】政治局常務委員会1 N1 W8 ?, ^! J; t6 v) }
- p U& R4 w8 B1 E& L7 I! b* p 中国共産党中央政治局のトップ5人(現在は9人)で構成する最高指導機関(筆頭は総書記)。拡大会議は正規メンバー以外の指導者も参加する会議をいう。「トウ小平年譜」は89年5月17日のトウ氏宅での会議を政治局常務委拡大会議としているが、これは参加資格のないトウ氏が戒厳令決定を主導したためとみられる。87年の党中央委決議により、楊尚昆、薄一波両氏は常務委にオブザーバー参加できた。
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7 H: v& B7 N) d4 ^9 O: z F5 V北京に戒厳令が敷かれた1989年5月21日、最高実力者のトウ小平氏を皮肉るプラカードを持って上海市内をデモする学生たち |
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