邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了5.35.249.64# B' Q5 y5 j8 v8 E
中央社5 g$ d/ o. @% a7 l% [% v0 K
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     日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。
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     「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。
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: w& d2 @* K7 B# d7 y6 {      张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。
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     天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。* v! |2 p& v- ?1 ^

& `2 M" ^# x+ z& \) s     学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。+ f4 j5 V- t2 L( F- B2 m* g- T
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      「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。
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, Y! i' `5 l- @$ Q, M; ^) L     担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。
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【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令
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3 B3 r, P, q) E1 \" U1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。
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「来るのが遅すぎた」( l  ^! S8 H' S4 ], X4 u% o
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 四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。
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! ]% m* Q& u+ w4 H人在德国 社区  張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。
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 長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。
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/ J4 B( `7 T$ p+ l0 P% h- G% b2 Z: H5.35.249.64 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」
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. V% k: w3 _7 k# f 数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。
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) Q* J% h2 d! i$ w5.35.249.64 「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。
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" C# x% T3 A. G* ^$ l人在德国 社区 文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。
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' y0 b; n# A4 ~& Q! U 「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。5.35.249.64- d# k* I- i4 j8 V' p/ x; F5 K
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 トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。
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& v( h$ ~! l; U: f8 A9 G 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。
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4 @, |) g, S: J5.35.249.64 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。% Q% ?; N/ s; W! i# q
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 「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」
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 学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。
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 朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。
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, }9 I3 \6 n) S: l- c5.35.249.64 「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」
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5 ^5 W( c( \% Z 楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。5.35.249.646 i% p7 c# Y7 U6 K! B
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 李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。
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 趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。2 ^; L; W8 p, k( C% b
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 絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。
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! V2 d# ~  \. D6 F! k* Q9 d9 n 新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正)8 a* a2 F- E% u# [( D" H

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( U" G3 c# u. \1 K【用語解説】中央軍事委員会3 _  `: }! \$ B- s% a' J; ^

( K3 u$ \+ E7 c* p+ h, O$ H4 Q  最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。1 ^. f2 |! u! n& S, B  _

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5 M6 a6 L( \' @1 T2 O* o# [7 U1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は温家宝・党中央弁公庁主任(現首相)

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1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は ...

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邓小平秘录:八大上将曾发声明反对镇压学生
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(中央社记者杨明珠东京十一日专电)“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月,当时的中国总理李鹏决定于二十日上午十时开始戒严;第二天,前国防部长张爱萍等八大上将希望透过“人民日报”发表反对戒严的声明,但后来声明遭到封杀;参谋总长迟浩田告知“人民日报”“绝对不准发表”。5 G# O5 g, w3 f
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秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。5 R  R) X0 c4 k" }# k
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二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。5.35.249.64% r: s9 v2 h5 [) k. ]6 V
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这份声明由张爱萍的女儿透过中国社会科学院某研究院传给人民日报,该报副总编陆超祺告知迟浩田,但是三十分钟后,所获得的回覆是“绝对不准发表”。2 y' q9 R, c) W3 \% O2 W6 F
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秘录指出,不仅年轻的下级士兵反对解放军对人民开炮,杨尚昆发布进军命令的五月十八日,曾发生了第三十八军司令官徐勤先抗命事件。杨尚昆的胞弟杨白冰(军总政治部主任)在八九年十二月的全军政治工作会议上曾表示,天安门事件作战中,有一百一十一名将校违反重大军纪,一千四百名以上的士兵弃械逃亡。
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秘录引用“陈云传”一书的内容指出,邓小平说:“问题的根本出在党中央,党中央变成有两司令部,在此事(指将学生示威定调为动乱)的处理上,人民日报的社论是正确的,到底要不要让步,让步的话,中华人民共和国就亡了。”
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秘录指出,就此,党中央统合成一个司令部,接下来只剩如何平息动乱的问题。但另一方面,民运人士这一方无领导核心,对于如何让中央撤回戒严令缺乏战术。在这段期间,正在海外访问的全国人民代表大会常务委员长万里的动向备受期待。: y( Z& d, i, D/ _
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【トウ小平秘録】(26)第1部 天安門事件 将軍の声明) F. L, i, G  W+ [2 e' r
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■「絶対に発表するな」+ A, J- ^! d. K5 L6 g9 D

+ k% I  o7 N. e& y* g* p6 L6 ` 「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」
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/ }. v5 V$ D& N% y. }# ^+ ^ 1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。人在德国 社区  ]. _, M; I& M( t2 l4 E
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 この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。
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 李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。人在德国 社区2 ]& L& b$ C* z) w9 E

, E2 ?+ ]: R; b2 Y; P# L8 R5.35.249.64 ≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫
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 その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。; ~$ h0 f8 s, a' P+ w& x+ X+ x, ~
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 若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。
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 動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。
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 楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。
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 戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。
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4 K1 c0 I; Q2 i& [" ?人在德国 社区 「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」
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 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。
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 8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。4 W+ q2 v/ V+ t, P
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 掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。人在德国 社区: g  m: P6 Z3 N$ i7 E

/ j# t; }, w. t0 e3 e: u% i; i0 r- S% a 同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。# i! S- ]5 A( o( c+ K  ]
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 その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。; f5 a, Q* Y1 I5 ~. H( z+ J

, u+ U- E+ s6 I( \; @; a 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。
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7 i( L9 H! c; |  Q# A7 z+ o 「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。5.35.249.648 c6 t$ y5 u( j, I

9 O" h6 A* G# a2 |$ C 「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。
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, N2 r: s! l9 E4 v* s! r5 p  q人在德国 社区 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。人在德国 社区" x$ t- z( g. p" R( m( T

0 ^. ~- i2 H: v+ V. q. N$ y4 ~) } 「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」( m' u' L3 a) f" S/ I: |, r  U

! ^9 ?4 P: \1 s: \: I 党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。
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  \8 [( q% w9 h 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。# n) H+ e0 y- Z& |* e
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 そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正)
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0 ^3 n) H6 x' ?* O5 B4 `5.35.249.64
6 P8 t& Z8 m: p# m8 l- `' F【用語解説】戒厳令
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 暴動などの緊急事態発生時にとられる非常措置で中華人民共和国憲法に規定。全国または省・自治区・直轄市への戒厳令は全国人民代表大会常務委員会が、その一部地区の戒厳令は国務院(内閣)が決定する。89年3月にチベット自治区のラサで騒乱が発生した際にも発令された。96年に戒厳法が公布され、国家に危害を及ぼす集会・デモ、ストの禁止や報道管制など具体的に規定した。" Y' U. Y9 R( H/ Y. P0 Y# ^7 i2 Z
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1989年5月21日未明、北京市郊外で人民解放軍兵士の前に座り込んだ学生たち

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邓小平秘录:民运对万里的期待遭到出卖9 F: L  D9 T) t7 s7 a
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    日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,中国大陆民运人士曾对全国人民代表大会常务委员长万里表示期待,结果遭到出卖而落空,一九八九年五月二十日,中共宣布戒严令后,全无同意学运要求的气氛,使用武力的可能性日益增高。
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" R. o  |! f9 T    「秘录」报导,新华社当年五月十七日报导在加拿大访问的万里发言肯定学运升高了社会对他的期待。万里谈话被报导的当天,北京有一百万人示威,谴责邓小平和李鹏的强硬态度,声援绝食学生达到高潮,中共宣布戒严令之后,民运对政府的抵抗色彩更趋浓厚。
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    张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳于五月二十一日经由秘书鲍彤要求万里早日返国,社会各阶层和学生对万里的期待升高,学生计画二十五日热烈欢迎万里返国,但是,这项期待遭到出卖。: b! N# L. A* K8 A$ M; g* E

; c+ W1 c3 J& m    万里虽提早于二十五日凌晨返国,但是并非回到北京而是上海。没有人相信新华社所报导的,万里是为治病,两天后万里表明支持党中央的决定。万里的返国问题显示元老主导下的强硬派正在控制局势,加强对各方面的取缔,并着手准备对天安门广场进行清场。5.35.249.645 g, N# G. |( S) s; |

9 T8 \8 @: c/ k5 c4 i9 g    五月二十三日,北京出现戒严令之后最大规模的数十万人的示威后,中共有关当局下令各部门和工作场所禁止示威,二十四日以后,参加示威者急速减少,中共元老们的动向也逐渐明显化。大陆知识份子预感党中央行使武力的行动已接近,继续说服学生撤出广场,学生也曾决定撤出广场,但是悲剧仍然发生。
) d1 C5 C1 f; N4 Z9 R% {# O" a5.35.249.64, U5 W- I% V: D$ K( Y3 }. f* {
【トウ小平秘録】(27)第1部 天安門事件 緊急帰国
4 ?, H/ _3 i$ b; S) x, e- V" {* }% T1 S4 ^
天安門広場での座り込みは続いていた。1989年5月20日の戒厳令布告後、学生側は北京市民とともに軍の市内進駐を阻止していたものの、政府が学生の要求に応じる気配は全くなかった。むしろ政府が武力行使に出る可能性が日々増していった。
4 G1 t( d' H1 J人在德国 社区. e/ o. P) y6 E9 J& m' q  r7 u
 
# B* p+ e5 R& u  n* A期待は裏切られた人在德国 社区) C: _9 a% W0 S+ z8 m: V3 Z) O- A
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 そうした中で、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長(肩書は当時、以下同)への社会の期待が高まる。きっかけは5月17日の新華社電が、万氏が訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国行動」と肯定する発言をしたと伝えたことだった。5.35.249.64* b" C, e4 V% J; Y) a9 @
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 万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。5.35.249.643 M$ U9 v% M- |+ ]3 Y; `; w9 ]
5.35.249.640 ~+ `/ r& N' ?7 }
 万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。- W1 k: p$ F  h: K: Z
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 しかし戒厳令後には、政府への対抗色が強まる。例えば21日に胡績偉(こせきい)・元人民日報社長ら40数人の全人代常務委員が署名、発表した緊急会議提案書は「法的手段を通じ人民の意思を反映させる」と述べていた。某常務委員は「李鵬をクビにする」と語ったものだ。
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0 e. ^# h) p1 I. Y7 P" e 党中央の指導下にある全人代が党の決定を覆すことはあり得ない。が、万氏が帰国して全人代常務委を招集すれば、戒厳令反対の声がさらに強まり、形勢を逆転できるとの淡い期待が趙紫陽(ちょうしよう)総書記周辺にあった。% O4 l; }( q! \# K

$ S/ f( X( v- E' }& X7 J0 W5.35.249.64 趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。+ y) y% Z7 T$ j9 n9 C3 S! _. _
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 また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。9 {* x! W2 D* a- B+ j5 @
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 万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。
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! h! J1 T5 q" e+ Y' m; W人在德国 社区 しかし期待は裏切られる。万里氏は5月25日未明、日程を繰り上げ帰国したものの、帰着先は北京ではなく、上海だった。「病気療養のため」との新華社電を信じる人はいなかった。2日後、万氏は、党中央の決定への支持表明をする。
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- b) f9 d: t" o6 [ 「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。
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 《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》
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 万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。9 Z2 c2 U3 T1 H" p1 t

  c$ E( ?4 g" X 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。! T0 X. I' h( |4 Q
人在德国 社区; V3 x) `$ b7 v* |
 その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。: G6 B' N6 {, M7 I: T

; U6 G: `2 |9 P% G9 F0 U+ H: s 楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。5 L; P4 H5 ?" p  X2 R  r

# P, W% r! \3 Y& D3 E6 `' M 長老らの動きも顕在化した。陳雲(ちんうん)中央顧問委主任は、23、24両日、李先念(りせんねん)政治協商会議主席、彭真(ほうしん)・前全人代常務委員長、王震(おうしん)国家副主席、薄一波(はくいっぱ)顧問委副主任氏ら長老のほか軍長老と会談、薄氏にこう話す(「陳雲伝」「陳雲年譜」)。& Z  K1 H  o, i3 F$ Q4 Q) D

8 i5 U+ Z: ?: N% j0 y7 g2 D0 q 「この局面で、引く余地はない。(デモを動乱とした)人民日報社説は、もう少しブルジョア自由化反対を言うべきだった。今やわれわれ老同志が発言しなきゃいかん」
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 陳雲氏は26日、顧問委員会常務委会議、李先念氏は27日、政協会議主席団会議をそれぞれ招集して演説、彭真氏も26日、全人代副委員長7人と座談会を開き、戒厳令支持で意思統一を図った。
7 T, o2 S: c7 v) u; g5.35.249.64人在德国 社区$ `* S; T% R4 X4 ?8 W. l, ?
 知識人たちは、武力行使が近いと予感し、学生たちに広場撤収を説得し続けた。
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 いったんは撤収方針が決まるのだが…。(伊藤正)
# T) @4 v2 R5 H) G* Z& b5.35.249.64
+ X, ]& f, U( A  H) r0 O! U人在德国 社区 ■全人代常務委員会 国家の最高権力機関とされる全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の常設機関。委員長、副委員長、秘書長、委員で構成され任期は5年。年1回開催する全人代の閉会中、憲法の解釈・実施、法律の制定・改正、経済計画案や予算案の修正、戒厳の決定などを行う。6 @7 B! U* H: \8 E
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●=彫の周が丹" n& e; G1 `) {( N' D( i' _
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(2007/03/13 )

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1989年5月23日、米ホワイトハウスで、ブッシュ大統領(右、現大統領の父親)と会談する万里氏

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邓小平秘录:民运人士拒撤退血腥镇压成定局# z' A8 U( D0 g, a- m- T- u2 [# V
中央社7 ^3 i, x# ~, w5 y5 K# Y
! H9 {- {9 \  k
    日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月下旬,中共当局企图武力镇压已迫近,当时避免流血的唯一方式是学生撤出天安门广场,但是要学生撤退困难,结果学生拒绝撤退,中共血腥镇压成为定局。
5 a" D' O1 j* N; _0 v& }. c. b8 ^+ c5 f2 ~# e( N* [7 U5 U
    「秘录」指出,五月中旬学生开始绝食后虽发展成为整个社会的运动,但参与运动的知识份子领导能力有限。二十日宣布戒严令后,大半知识份子主张应撤出广场,结果却未能如愿。人在德国 社区; i4 C. W2 y) f  P( Q: i
* t# A4 `. m0 G8 R1 f. }! [
    中国社会科学会历史研究所副研究员包遵信曾在天安门事件后为文指出,北京社会经济科学研究所副所长王军涛本有机会说服学生撤出广场,但负责广场总指挥的柴玲突然改变心意,拒绝月底撤出广场。柴玲的先生封从德则在「天安门之争」一书中指出,五月二十五日晚上开始的民运领袖会议,九成七对撤退投反对票,柴玲只是加以宣布。: r5 K4 Z8 h8 j+ x/ u7 y
- f. R! O! E* k1 j8 D; T  l
    在学运扮演军师角色的王军涛认为学生若不撤出广场,中共行使武力已是不可避免,开始着手学运遭镇压后,主要学生领袖逃往海外的准备。天安门血腥镇压后,王军涛、王丹和包遵信在国内逃亡,三人在十月底以前都被逮捕,但多数民运领袖逃到海外。7 [, k& }! D1 b& h1 f

- z( s- u2 ?: z( r$ s    中共当局在天安门事件后指出反革命暴动的黑色打手「三所一会」,包括中国经济体制改革研究所等三个研究所和一个学会,它们都被视为是赵紫阳的智囊团。「三所一会」直接的罪状是五月十九日晚上发表的声明,中共断定它们和鲍彤关系很深,后者泄露戒严令等情报造成学运对抗政府的行动。但是,鲍彤事后一贯否认这项指控。1 @% h! L! \! @

/ W* [. a" o# x5 v+ D( Y' v* }* U/ m. V    鲍彤于五月二十八日突然遭到逮捕,被送到北京市北部的政治犯监狱「秦城监狱」,这是邓小平等元老和李鹏总理等保守派决定武力镇压而进入具体性作战的一个信号。
# P- A9 g6 }" Q- n8 u$ s0 L
  m7 D" n) y: ]5.35.249.64【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否
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& ?5 d' x4 Y& O3 ]6 G. |  [■必至だった血の鎮圧
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 「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。
( O' \/ k: b. y, O$ J3 T5 }
: r" M) |& _& h( i5 q5.35.249.64 5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。人在德国 社区9 f) i: z8 U$ P+ u6 |6 ]# q% z

5 ]" H, j9 F# I 5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。1 i# {# X& q2 e: c0 @/ R6 W/ j5 b
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 包氏「何とか学生たちを撤収させないと」
7 f8 U4 a; r& u* C7 s6 [
  h# f% ?( v/ [2 r' J0 H1 r 王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」6 w1 [, o; D& m9 |/ P: l$ B
) ]2 Q: i' |: z+ m. Z/ m9 d
 包氏「(撤収は)いつ?」; x/ f% h3 ?" C/ ]. T. K/ B2 n+ b

# ?0 S3 L# b; | 王氏「今月末だ」
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+ [& p3 J& D% R- @5 t9 s- A 王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。
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 ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。
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: c* C* H% F9 }7 R- D人在德国 社区 「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」* P9 q9 d* F  h2 r" F$ u
: `6 {2 P8 U/ w8 v; N3 P: X
 柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。
2 a& \1 L! ~/ U- e: D: S- |7 Y+ u( [( o6 N) U. a
 高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。4 P7 J; c: o6 i) m* k) i& Y
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 王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。
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$ O: k) R! q3 k0 s, L( ?2 D5.35.249.64 彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。
1 D, p/ ^" ], o% E6 o/ F7 C( `5 v5 j* p& |
 そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。
; T4 }1 Y1 U; ], I% I* d) R+ b; M5.35.249.64人在德国 社区% O' z9 G9 L1 N7 b" K
 ≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫! K- r& v! G' q
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 王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。' |- G7 L- ^# |. Z( w- p7 z

# q' w* A# Z; m3 [8 N 声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。
; C+ k. [( N: J" T人在德国 社区. E8 w1 |! K+ D% F: n2 g
 連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。
5 p6 q/ m5 f9 i/ x& b, f3 H$ ~9 |, `% k/ g4 u8 }5 u- A+ m$ b8 u
 この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。
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 直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。; O/ u' d9 p4 u
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 3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。0 C) z1 S- m% Y( O( l/ \
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 鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正)
0 I" L9 I. \# f  |8 x- x! \0 Y人在德国 社区5.35.249.647 S0 d* m3 I* ^8 ~7 I) f) t' e
 ■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。
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(2007/03/14)

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王軍濤氏

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邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场
+ r- p9 R! I, g0 l2 s(中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。人在德国 社区- S5 F' {# D4 y' C
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秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。# s9 ?: A' H0 H$ c
元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。
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' D9 h. \- ~% m“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。
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: U3 d2 q* D+ F* ]5 X* j五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战,4 ?" V4 b7 l! d8 D- i/ l. A8 V2 U
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包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。2 r8 f. d' D- T! \3 Q& {" y- c
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“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。”
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4 Z: w+ k$ m8 J2 H2 s$ R# r【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦 " \: u5 b- y- y9 M% H* I
■既に退路はない 
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 トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。
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) o6 f6 \. Q) w 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。
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8 k/ |1 T, O4 j. u7 H2 I, }( S5.35.249.64 そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。: h0 G6 O7 N# ]3 S0 [% Z) B

  s: |( e4 t# ~; f; Z: j% f5.35.249.64 政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。
, C3 \, i, w& E' ]; x
7 R, I4 _6 g8 k7 j この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。
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4 w, o6 X) s* Q( V 「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」
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 トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。8 {7 N: h5 b# O6 h: Y9 c8 f: |: |
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 江沢民氏は5月30日に北京に呼ばれ、31日、トウ小平氏から次期総書記を命じられる。トウ氏は続いて、李鵬、姚依林両氏と会い、改革・開放を徹底、腐敗を撲滅し人民の信頼を得るよう話した後、次期総書記に江氏を決めたと告げ、一致協力するよう指示した。
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 《「トウ小平年譜」は、李、姚両氏への講話を掲載しているが、江沢民氏との面談の記述はない》
& `' }5 H1 X& _/ [& ^2 T  e
4 n. c2 ~8 r8 w 長老会議2日前の25日、新華社香港支社長の許家屯(きょかとん)氏は中南海で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と会う(「許家屯回憶録」)。人在德国 社区8 r% e; N4 F' x( O
" E( M( {) R: ^. U9 l  m
 楊氏は趙紫陽氏の停職を告げ、後継者は未定だが、「李鵬はありえない」と断言した後、言う。( b) F8 h( [- e# Z( d

5 w# l& C' ^6 q( d) T5 X) j1 L 「トウ小平同志は、既に退路はないと話し、戒厳令を選択、軍を動員して動乱を平定することになった。党中央の決定を支持してほしい」& [$ o5 B) @5 e5 @$ K# i6 M
5.35.249.64; |* F$ [! T2 @* C
 許氏はしばらく言葉を失った後、言う。5.35.249.64- F4 P1 A+ _) A- h

) d7 S, A& W) j/ f! z9 x1 l6 S5.35.249.64 「軍を動員しても、万が一にも流血はだめですよ!」
  v2 c- |7 H* [3 T, c- \5.35.249.64% u2 J. E  m! _# W) f) h2 U
 楊氏は即座に「それはない、それはないよ」と言い、こう続けた。
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$ d1 a6 s- M) X1 G人在德国 社区 「徐向前(じょこうぜん)、聶栄臻(じょうえいしん)両元帥も同じ意見だ。彼らは既に中央に(流血回避の)意見を出している」
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 《55年制定の軍階級制で最高位の元帥に選ばれた10人中、徐、聶両氏のみ健在だった。両氏は武力行使に反対と伝えられたが、当局はデマと否定していた》
1 _, R+ H' f3 N2 h# s/ k
% w0 @1 l( ?7 n* }* n$ \  S 「真相」によると、5月27日の長老会議で、「動乱」の平定作戦の実施時期が話し合われた際も、楊尚昆氏は「いつまでも引き延ばせないが、流血は絶対に避けるべきだ」と主張した。
3 S  y1 Z1 C8 B/ M; L% B4 \* G, A5 d- b+ f2 C
 陳雲氏は「流血は極力回避すべきだが、5月末には解決するよう」主張、トウ小平氏も「これ以上引き延ばせない」と述べ、政治局常務委員会に迅速な秩序回復を要求した。
. o6 `  ]5 v$ V
- B) s: R( P. Q. p& Z4 P 天安門広場では5月30日、中央美術学院の学生が作った「民主の女神」像が立てられ、市民の目を奪った。しかし座り込み学生は5000人に減り、大学が授業を再開する中で、学生運動は内部分裂し、消えかかっていた。
1 `9 O: H  k  O1 H8 g( D* d& S
$ x  W2 D. v: }! m8 I, C人在德国 社区 それを立て直し持久戦をやろうと考えた知識人がいた。北京師範大講師の劉暁波(りゅうぎょうは)氏らだ。劉氏は社会科学院副研究員の包遵信(ほうじゅんしん)氏や北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)氏らに、リレー式で絶食をやる計画を持ちかける。人在德国 社区0 O( _; Y3 l* q* k' h; v

3 s% b$ e; b( e 包氏の著書「六四的内情」によると、包氏自身は、この計画に反対だったが、王軍濤氏は賛成した。そして6月2日夕、劉暁波氏、台湾の歌手、侯徳健(こうとくけん)氏ら4人が絶食に入り、広場は久しぶりに熱気に包まれた。
5 m: H! o! }5 G
% S( k! Z( a) M% p人在德国 社区 その日の午前、トウ小平氏ら長老6人と李鵬氏ら3人の政治局常務委員が会議を開く。李氏の状況説明に長老らは激怒する。第一声を放ったのは王震氏だった(「真相」)。
, }  F) `. g2 v+ A3 M5.35.249.643 Y. g. J/ A( Z6 g
 「くそ餓鬼どもめ。神聖な天安門広場をなんだと思ってるんだ。解放軍は何をしてる。反革命どもをとっ捕まえろ」& E' ^0 H; I' D4 y
5.35.249.64* A8 c5 r- w4 `
 李先念氏が一刻も猶予ならないと強調、「今晩から『清場(チンチャン)』(天安門広場からの学生一掃)を開始しよう」と提案。最後にトウ小平氏が言った。5.35.249.64& _& P4 g, n* S. o

4 H. F" @6 q% d8 z- V. d5 P 「みんなの意見に賛成だ。戒厳部隊指揮部は今晩、清場実施計画を開始、2日間で完了するよう提案する」(伊藤正)
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' M. y9 Z  ~$ ~7 ^9 _0 O9 u9 T                   ◇人在德国 社区& w' ]0 y& f% g3 ]% z+ a
人在德国 社区2 T4 s5 q2 y! C& d. @! a# C
【用語解説】軍階級制5.35.249.64# O; m  R% X# R

& H0 \7 u" G# i  U, V0 o8 b- A* u6 P人在德国 社区 1955年に導入されたソ連式の階級制度。革命の功労度により、元帥、大将各10人、上将57人、中将177人、少将1360人以下、全軍人が階級付けされた。66年に廃止されたが、88年に復活。新制度では元帥、大将はなくなり、上将が最高位に。徐、聶氏以外の元帥は、朱徳、彭徳懐、林彪、劉伯承、賀竜、陳毅、羅栄桓、葉剣英の8人。
+ r" t+ g: i9 J: N人在德国 社区. [8 S7 i1 o+ i  H; L% M
(2007/03/15 )
. W" s& ]( Q0 \0 q, o5 T/ i. o! ~: s, Z

+ F; z0 F8 i' S4 O' P5.35.249.64- V5 S+ a) T* ~, a( C" I4 w
" s7 z- y) ]3 I2 N2 E/ `
1989年5月30日、天安門広場に学生たちが作り上げた「民主の女神」像。米国の自由の女神像をモデルにしたという

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邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态人在德国 社区0 X: f1 P+ t, W
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(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。
8 M4 M% A% x4 K8 t4 E2 r( U4 e4 ?
* O( s# V% I8 l$ }0 i人在德国 社区“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。人在德国 社区3 c2 a2 u& p: ]# e7 e  P
但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。
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- V" W) g" E# ]& R- k7 V人在德国 社区这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。% `" f' ?3 M) l7 C

0 q3 ?6 [# V% [( O4 F4 s9 `三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。
9 V- X% r; b$ S- Z  E( h人在德国 社区( h5 e7 y" M) |6 X& ^# _
张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。
  \) Q+ k/ @+ e, P6 K; t. o5 E人在德国 社区
/ U$ O4 e4 f1 a6 w- D: {/ H0 V“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。2 O: l. f' s" a2 p% _7 E8 ~

5 f  L5 a+ ?2 o- B+ E. _8 M5 n三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。
3 n. z& T9 A, X; q: H/ j, w5 s: r6 @, B2 E0 l
就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。& G. x; y  ]; A
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【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲
3 r, P8 Y2 ^. B  M3 D
; {% y1 T. z8 r# I1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。" W4 ~# I- C2 C& x

3 y1 n( h6 n9 t& O2 ]5.35.249.64これは本物の戦争だ8 H8 ~- F& j1 W3 D

8 T7 [6 I- n3 q% y: q そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。) ^3 D* c  z5 ~; \# ?
5.35.249.64" j' }7 H7 ]0 Z
 それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。人在德国 社区  F* z, \7 u0 v4 i

# P, W8 {1 t) X 3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。7 d; @4 W2 g) H8 q2 K4 b! l6 C( c

) }& z8 ?; k' A人在德国 社区 「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」
: K( `' |$ ~4 n# t人在德国 社区4 Y+ ^; p9 i( D" o
 情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。  J9 \5 h5 g+ T

% J* V1 \/ `7 U1 c2 e人在德国 社区 3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。
2 ]6 w% X, W/ P1 _- w& L+ V; \$ g' _2 m% J) V
 新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。
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 3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。人在德国 社区' `! k- M+ u4 |! ]

( V' @' \2 H" P- K$ ?* [, k 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。5.35.249.64. J0 c& p1 p1 H! l7 V7 \0 ?: a

" c1 Z# ]) l( E7 B2 x3 \ 李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。+ n, P0 y1 Y3 O; Y! I; J: b( H

3 v; b, G3 k- T( @/ r0 b9 Q 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」: ~1 H$ u: t- O

0 V& V" h& f2 }; e# H- |3 i1 } 楊氏は最後にこう念を押した。
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1 B2 ^, g6 l& \! G% |人在德国 社区 「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」
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$ C$ f) B4 F' s3 X: l 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。
; c' {- w) P# C: [, ^$ s人在德国 社区
6 m# a$ h0 o, [( e9 Q, Q; Z 3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。
2 \. d! W( L# {5.35.249.645 Y% ]/ `" S; v8 Z! ?( J9 `0 e) p
 当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。
& c' v- x+ m6 q. v" }$ Z5.35.249.64
8 ~" T3 Z6 l! |1 @1 R# k3 r1 B人在德国 社区 そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。
* z4 t( d. v9 p* Y* D/ |& G人在德国 社区
& q: r  y# F2 L# }6 g" b' Q 午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。
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4 p' ^: A! }) G! i% n  z& W5.35.249.64 支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。
" |& ~- I) P4 _5.35.249.64& b. p' S$ C$ V2 @! l$ S
 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」
+ ^; ?8 p6 I0 o+ x5 f人在德国 社区5.35.249.647 y* Z8 ~5 k- n# g4 A
 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。
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 「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」
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 その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。5.35.249.64# b. u5 j6 z% F) D' D0 r" D! K
3 P8 E! t0 s( U8 [1 M! V, {& M% [
 「これは本物の戦争だ」(伊藤正)
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0 j4 N1 @. k9 S. b8 }人在德国 社区 ■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。
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& f+ S1 b) v7 s8 y5.35.249.64[ 本帖最后由 日月光 于 2007-3-16 08:43 编辑 ]

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天安門広場に向かう、人民解放軍の戦車の前に立ちふさがった市民(1989年6月)

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天安門事件 軍の発砲

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邓小平秘录:共军血腥镇压手无寸铁市民, p4 y( o2 z9 h: K* P" C. }0 g% i$ C& ?
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(中央社记者张芳明东京十七日专电)日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,中共北京军区主力部队于一九八九年六月三日晚向天安门广场前进,沿途对强烈抵抗的市民开枪。一名新华社现场采访记者曾在日记写道,那是场「真正的战争」,问题是那是场正规军与没有武器的市民之间的战斗。7 p2 Y. B* X- I: C% S+ U! p1 `
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「秘录」报导,以河北省保定第三十八军为主的北京军区主力部队在装甲车前导下于四日凌晨一时稍后进入天安门前,部队是于三日晚上九时稍后由西长安街西端公主坟出发,由于遭遇市民的强烈抵抗,前进至天安门总共约八公里的距离,花了四个小时。% b3 n! }/ V! B) e7 ^9 Q% W2 `

- k. l0 _5 t& n% h1 {部队和市民最初的「冲突」发生于公主坟东方两公里处,市民以并列巴士和车辆放火等方式抵抗。部队在晚上十时二十分左右开始开枪,天安门前也是如此。另一方面,同样遭受强烈抵抗的济南军区第五十四军几乎只对空开枪,北京军区第二十四军和渖阳军区第三十九军等也未开枪,放弃进城计画。
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第三十八军等部队获得开枪许可的经过迄今不明,由邓小平事前指示「不得已的情况下可使用一切的手段」来看,可视为现地指挥队的判断造成各部队对市民的抵抗采取不同的因应措施。+ o% l, F% K+ D/ Y6 Q6 i

; e2 v% Y& V& L( b/ {戒严部队四日凌晨三时前几乎全面控制天安门广场和四周,四时开始进行最后通告,将实施「清场」。但学生总指挥部所在地的人民英雄纪念碑和周围,仍有以地方学生为主的三千多人在强烈抵抗。
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; V& O; t: Y0 @1 x人在德国 社区在此之前,二日晚在广场开始绝食的台湾歌手侯德健和北京师范大学讲师刘晓波等四人呼吁学生撤走,但遭到奚落。四人在商议下,侯德健两人已私下和戒严部队指挥官交涉,取得不抵抗下撤退的安全保证。
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凌晨四时半左右,持枪的数千名士兵包围纪念碑,侯德健向学生演说,公开和军方交涉的结果,呼吁不要再有更多的流血。但是,学生们的回应是一起怒吼,刘晓波等的演说也是没有效果。
( e( W- _4 N# k# N8 \8 N" I' n. e! j9 l人在德国 社区' Q" P% Y7 G4 Q/ C! t
不久,出现数辆的装甲车,由扩大器警告学生退出广场,预告将使用武力。侯德健等提议由发出声音来进行投票,因赞成占多数而决定撤出时已是四日清晨近五时。所有学生完全撤退是在清晨五时半。
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4 M  |6 i$ A' p" H9 w5.35.249.64天安门事件的牺牲者人数有各种说法,总理李鹏在一九八九年九月对访中的已故自民党干部伊东正义指出死亡者三百十九名,包括十数名士兵。其中,学生有三十六名,大半是市民和劳工。
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「天安门广场连一人都不准杀」的邓小平和杨尚昆的指示被遵守。中共当局重覆否认天安门广场的「屠杀」,当时在现场的记者也未目击牺牲者,但是,广场的周围有许多的伤亡者。' S" L+ W6 `: j! P" Y

( C7 W8 i. ?* {+ l" ~天安门广场随后由数十辆战车占据,六四以后,北京市民也继续抵抗,不时传出枪声,各地出现抗议示威,外国政府也相继发表谴责声明。
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邓小平于六月九日接见戒严部队干部,脸上浮现笑容,显出心情愉快。天安门事件后,邓小平在家里闷闷不语,开始重抽数年前戒掉的香烟。当时,他已八十四岁,决定由政治全面引退。他对自己说,武力镇压之外没有其他选择之道。人在德国 社区" B6 z0 @2 H0 ]9 T  B! \
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【トウ小平秘録】(31)第1部 天安門事件 6・4未明
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2 p8 R5 d6 a1 c: J1989年6月3日夜から4日朝までに北京で何が起こったのか。膨大な資料、報道、証言があり、映像がとらえただけでも、近代史上まれにみる大規模な武力鎮圧事件だったことが世界中に知れわたった。: k# @/ g, j& u+ c

) |( i1 s* d& u+ T9 l5 L+ C2 a. q, t 前回書いたように、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は6月4日の日記に「本物の戦争だ」と記した。爆竹さながらの激しい銃撃音を耳にした人なら、同じ思いをしたはずだ。ただしこの「戦争」は、正規軍と武器を持たない市民との闘いだった。
6 W2 H* K1 b+ l- Q$ ^! |$ i2 j: |9 i, s" w5 z: d# Y5 }' }
 張良編著「中国『六四』真相」によれば、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)は「武器の使用を極力避けよ」と指示していた。それがなぜ発砲する事態になったのか(以下は各種資料、証言による)。
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  L6 @5 {3 h& _5.35.249.64 第38軍(河北省保定)を中心にした北京軍区主力が、装甲車を先頭に天安門前に1番乗りしたのは4日午前1時すぎだった。3日夜9時すぎ、西長安街西端の公主墳付近を出発、天安門までの約8キロを進むのに4時間を要した。激しい市民の抵抗を受けたためだ。5.35.249.64! m' E( B$ i4 ?8 u! i+ F
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 最初の「衝突」は公主墳の東2キロ余の木●(もくせい)地で、市民側はバス、車両を並べてバリケードにして放火、火炎瓶やレンガ片などを投げて抵抗した。5.35.249.64% L, A% [* |6 C0 J+ i9 I

3 |2 h$ Z, Q( M; }2 t2 G' g人在德国 社区 部隊側は、午後10時20分ごろから発砲を始めた。以後、復興門、西単、六部口で市民側の抵抗を受ける度、発砲を繰り返し、天安門前でも同様だった。
- e8 P2 v0 ~- X- V' E9 @. G+ }: u# r5.35.249.64* p, r2 r; E, i% [3 g" N8 P
 一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。
& K, A8 ?$ H+ N/ e% h& P% |) v
' m2 }$ Z' T- P 第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。/ {# R/ s7 v- e* Y# U

# A* B1 L/ p4 l" z  j+ D 天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。) Z1 t' N' c+ n8 U' `# }/ t% N

! }1 z1 v" L, M/ w2 u それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。
' ]* T5 s* w! J. q- f+ J人在德国 社区0 O2 L8 }- N9 \. b4 k
 午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。- R* m, x% L) o5 @

( G7 c' a. X9 q" m人在德国 社区 学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。人在德国 社区* ?% e9 w$ y/ F: v3 ^
5.35.249.64. X$ j% s* r; A6 ?; p
 「裏切り者!」5.35.249.64" W7 E3 a; n% V' l
人在德国 社区$ R0 O+ Z9 k/ C
 「さっさと消えろ!」
2 g+ w1 v/ j5 d5 @: M/ N
$ o4 Z: W$ r' s" E- k 劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。2 Y$ I/ T! U8 M( c! v2 J4 ^- g
4 ~+ \! R! |! }. a8 T
 すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。. K! Y5 P  i3 c7 o8 S
8 d+ u) \+ K1 ^* L$ A( F
 天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。人在德国 社区( }& C- X) y! Q1 V& v! b. T2 v

, I8 R- ^0 M2 ~2 ?  `人在德国 社区 「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。
+ F+ f& U1 ]& K# q0 `4 x3 u3 x0 Z8 G# l
 天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。
! b! s6 L" w. Z2 a+ X  p4 P+ T
/ N/ \: F$ b, _7 V トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。
  x3 q* o& y" t# z% I( B! {* ?5.35.249.64
6 ]9 P3 d. h+ {  ? しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。! U: ]. o' s+ b- \4 i* u
# d! N8 }# @* J/ j. T
 「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した」
7 \  h7 C3 m$ I( q# y人在德国 社区5 L8 V8 c1 a: G6 B2 R5 v6 e0 I
 その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。6 _2 p. u, d! p3 h2 c$ q7 L0 Z
5.35.249.64& l6 b6 \  q" R7 |. }: U
 (伊藤正)0 K1 H# _7 `  W& g
. e; ^% ^$ h7 t; V  m6 D. e; _
●=木へんに犀4 I' ~, N. k5 ]) q

" \! t# ]: ]) u
# u2 J4 X$ V  h6 T1 F8 |' @
; v. p( `% _9 V7 K【用語解説】人民英雄記念碑& Z' p) Z& v' x
, f7 c7 ~; p- B( t, _
 天安門広場の中央部に位置。19世紀のアヘン戦争以来の革命闘争で犠牲になった英雄をまつるため1958年に建てられた石碑。高さ約38メートル、基壇は南北61.5メートル、東西50.4メートル。碑の正面には毛沢東が書いた「人民英雄永垂不朽」の文字と、背面には周恩来の書いた碑の説明がそれぞれ刻まれている。訪中した外国の元首らが献花することも多い。
  z6 o6 |! N5 g5 V$ D
0 ~# @  x3 |: K. i/ ^; u人在德国 社区(2007/03/17)
6 ]- n4 Q5 F; N; c, m

+ U* n  P# u# K8 U% d. t7 d
6 B* j9 @6 `1 b  J# M: j; M& v- @8 y% C# V3 y9 e/ B
1989年6月3日から4日未明にかけ、公主墳から天安門方面に向かった戒厳部隊は、市民、学生らの激しい抵抗にあった。木●(もくせい)地近くで集中的な発砲があり、死傷者の多くは復興医院に運ばれた(●=木へんに犀)

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天安門事件

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邓小平秘录:六四悲剧是学运卷入权力斗争
7 ^% [$ F3 ^7 r0 [5.35.249.64
6 F2 K+ O, X! {(中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。" a4 k% A( w, z- x

, P; I/ c/ G9 A# U: B「秘录」指出,一九八九年六月的天安门事件今年将届满十八年,中国不知道「六四事件」的世代增加,北京市民也将当时的体验关闭在记忆的抽屉里,中国媒体在上个月刊登邓小平去世十周年的特别报导都未提「六四」,有关人士指出这是中国报导管制的结果。5.35.249.64) ^6 ^% x& R7 K) k3 J

0 p. ?! L  I0 e8 ^5 X3 m/ O- v, h/ p8 v; ~邓小平在天安门事件后的一九八九年六月九日接见戒严部队干部致词时指出,这次的风波迟早要来,那是由国际的大气候和中国本身的小气候来决定,不是人的意思可以改变。  d# n3 T: l# c
- o# z+ J( t9 ^" J6 E7 _
邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。
; ?' e5 H& h( ^# O# k) B: E8 a0 X5 c7 ^/ |, C; X3 f4 |6 C
一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。7 }) k! Y! d7 A" `/ X% c5 q% F: H9 @

- n3 W4 O* M5 v# R9 A* e邓小平推动的改革开放政策是以市场经济化和国际化为基本的经济建设,与毛泽东路线是不相容,但是,他坚持的四原则就是毛路线,特别是核心的「共产党领导」的一党独裁是毛遗训,成为保守和改革斗争的种子。
1 ^9 D# F" v# M人在德国 社区1 u( C4 D  c' [4 a
一九八零年代,中国的经济和社会出现激烈的变化,人民意识思想倾向欧美,但是一旦发展成为对党的批评,邓小平和保守派联手以四原则为盾牌展开镇压,为的是坚持政治权力和生活特权的金字塔型党统治制度。
  \2 J, V7 U/ A; x
4 u+ ]8 p" f  [6 o7 z+ M* k在一党独裁的制度下,一九八零年代官僚腐败大增,一九八九年四月胡耀邦去世后引发的学生运动除要求民主化,也反对腐败,邓小平等元老和李鹏的保守派将之视为企图颠覆党领导体制的挑战。4 i# g6 M# F5 F
- q& p' y4 c! N4 k" }. D% h% h
天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败的运动被卷入保守派和改革派之间的权力斗争,不少人认为邓小平是被保守派的谋略所利用。邓小平为何对民运决定使用武力?尚有值得检验查证之处。; M3 @. r0 S0 B& s5 r4 b

! D8 t1 W- K4 i- Y9 Y3 e/ H3 _, T' N
' Z  F) i- b3 ^& t/ C' `【トウ小平秘録】(32)第1部 天安門事件 独裁堅持
* p/ d; i' w5 e& R! m' d8 z* J7 P
 1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。
+ g8 v1 e5 J/ N. `7 |) ]! C# h3 P0 H; m
 胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。
  ?- ^* h# y9 K7 t* U! t8 W# A* M" Y. P0 D, t& T( D0 e
 トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。* `/ b# d$ N, a' P8 a" L
4 R5 E2 {9 G( R: {
 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻)* f# K) m  v! V* s/ j

! p# o# b6 v* I4 U5 }; v, {: z人在德国 社区 その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。
6 I9 ~+ E3 ~% d. N- k2 |' b8 a5.35.249.64
" d- i- B0 O; z% I- E人在德国 社区 トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。
5 a0 q+ G# `9 K+ O" z* q' G; l
& j) n8 a8 R" N9 L, A) Q) v! V5.35.249.64 「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」- Z7 c5 G0 f' X6 t( b

1 d9 c6 P' u# i# G" u' d5 Y 「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。人在德国 社区: F& L/ h) p9 M
2 G6 \7 W# e" q; ?8 l
 89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。3 p, @8 U% {% A+ v/ B! U

7 X; s9 b6 T7 I' q  t& X人在德国 社区 トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。% b: K# M' r0 X& ~5 H. T7 v6 Z. |# M( y
" I2 y" o/ k8 @1 ?) Y: M% O% Z5 D
 「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」; Q/ Y. V: B; I9 P1 W9 p+ g% W2 U

! t- H' \) y4 b- J0 t' e* \8 E" [
$ W4 i8 T! |6 F: P8 G" k. I8 f: }6 L
毛沢東遺制は守った
8 J) K6 j5 C* X, O# i( P* q! s
6 z+ ?: v+ ^' N# w: c9 E トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。人在德国 社区7 G, x, H1 R/ T4 E3 V2 x
$ x1 }; w9 i' k
 改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。5.35.249.647 H4 n/ z+ `! s6 R
5.35.249.64- }( f& K" Z* W, m+ @4 n6 u6 h+ T0 k
 張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。
. I( M+ ]1 ]$ F+ V5 B7 e
! x2 w) \' ~9 R 「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」5.35.249.640 g6 u$ C2 F! h9 w" {% l( x

$ B1 m& V7 i! ?1 u9 P9 U4 j 今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。( M, U$ L$ e) H0 V

) Z) ?8 R' N# A" B( Q: U* ~ しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。3 H) S% |9 ~# }) G8 O0 T! x
& m0 `6 C  u2 {* U3 G
 その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。0 ]5 q) P! x" ~# J$ I& M

" V7 j. B) K! v% m! d  g 89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。' `$ M# o* B! k/ t9 z6 p2 B( k
5.35.249.64* M7 d+ u* V. z  {9 @
 天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。9 D! d7 G  Z0 l% A' d3 c

4 h1 O7 ~0 f% T5 f* I トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。
" V4 H- C' r2 u* v5.35.249.64
* s  d% ]% E" G) g, @# G+ w (伊藤正)
5 C& f5 t$ v6 z# ]; U: i9 d) {: {; _5.35.249.64
8 }  l5 ?: I% z) R0 o =第1部おわり
+ ]: ?  p1 g" N
9 W& w' N$ Z, C  ?. j$ T& m- t7 [7 J- k2 n
# C. A% _9 [9 i2 t5 f. ]8 t
■伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。5 z# s' q* d1 t6 {! e% [; n! ]

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【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 ! k; z" ^0 n2 V% H# X* M1 ~0 F8 w& b$ a

# b3 K$ f  M& R# L  w" Z8 ?6 }春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。, Y6 n7 h' o6 u
8 g; S* w% K6 c- ]- l- }/ |" N

6 z, M: T+ k# ^9 f人在德国 社区期するものがあった人在德国 社区/ y7 O$ J6 s  z7 G

! n" [; h! Y" Z) h6 f9 I0 N  c 普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。* D* ~8 h' F/ G. M, I) y

5 ~' s# k' J! _0 P/ A5 z# v5.35.249.64 午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。
5 z6 }  C2 K$ n; B5.35.249.64( e' p! T0 g8 G( M
 緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。* `9 I5 S1 t% a) _

. `; W+ P: n' S' k4 d1 E' p4 c 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。$ A6 \" X) y7 A% U' S- E& S

; a) W& P6 Z' Z+ o( o8 @+ ?. i 「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」人在德国 社区! `7 h1 x; x3 D  f/ C8 h4 V
2 q0 `% }% s" |+ V$ U
 トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。% w1 {* F/ M4 _) O# X

4 p8 h- x5 x* \( E3 h( [ 引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。人在德国 社区$ m+ p6 o1 T1 h: K* _

! J1 A! [+ x" {% \! M トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。人在德国 社区2 N3 X- e6 }- Z! _+ m9 ~4 {5 q

' {( X: z4 q+ s ≪天安門のツケがきた≫1 ?0 S( D; C; r0 `% P7 w
5.35.249.64; H/ ^3 u, p+ z8 L! E
 元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。
& D& @! p: Z9 B( c* G7 a5.35.249.64. @8 }1 u! z" @5 ^4 m8 ]( t
 「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」
/ G% h5 h! @- E5 y
$ o% D" W" f1 s0 a, G1 }1 c人在德国 社区 広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。1 c; R7 P/ h' }
" T9 \6 ^' I1 \& z7 a' p
 「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」' e. S# Q; E4 L# k

4 H2 {% S6 k8 m5 ^6 I6 P2 N 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。/ J  M5 u& L& F) V' [% K7 e
. z# G5 o1 t6 c
 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。人在德国 社区# [4 I, ~5 C! S- C$ ^8 o! F" M6 F3 N: F

$ A* i* Y( v0 R" { しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。
; `6 J; I6 f0 x0 e' [' f+ \5.35.249.64
+ d- M) j9 m4 `# d3 F' Z% q% B5.35.249.64 トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。5 T7 _2 ^) @/ b9 |  T/ j
! E& X5 y( a8 L$ S
 天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。; W  h; a$ S+ ~2 u" \

& l$ w* @- M2 n/ N 計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。人在德国 社区2 @% r* W9 q6 i6 E& m

6 `" R5 C1 y. \  T5 L5.35.249.64 その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。
/ [; p4 Z5 h  N" N& O人在德国 社区人在德国 社区5 C0 W. ?) D/ l7 p( e; l3 \
 トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正)6 f$ d9 T3 K% a; j9 l
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■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。  T6 e' m( A- Z1 [
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6 b- g/ [, e/ d  b( E第1部あらすじ
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' o$ v. O( U  a人在德国 社区 死者が少なくとも数百人にのぼったといわれる天安門事件(1989年6月4日)は中国現代史の大きな分岐点として後世に伝えられよう。! @1 g3 p* a  N" o, L

. h$ f+ L6 S6 Y1 q! F 「トウ小平秘録・第1部天安門事件」では、トウ小平氏が、なぜ人民解放軍を出動させ、デモを続ける学生や労働者らを武力で鎮圧する事態に至ったのか、背景を掘り下げた。
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 89年4月、急死した中国共産党の改革派指導者・胡耀邦前総書記(肩書は当時、以下同)の追悼集会を契機に、北京の大学生らは天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。党指導部内では強い姿勢で臨むべきだとする李鵬首相・長老ら保守グループと、対話による解決を主張する趙紫陽総書記ら改革派が対立し、深刻な権力闘争に発展した。
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 改革・開放を推進し、国民に豊かさと自由をもたらそうとの思いを抱くトウ小平氏だが、天安門事件で自らの路線の執行者である趙総書記を切り捨てる決断を強いられた。改革・開放のためには国の安定、つまり一党独裁の社会主義体制堅持が不可欠と考えたからだ。5.35.249.64+ m6 ~# o( i: R0 o$ b6 o

# c  Q5 H* B/ t9 f! |5.35.249.64 第1部は最終回(32)で「天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力抗争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない」とも指摘している。

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; z; E2 T" Q5 N) H* M2 w9 \[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-18 11:40 编辑 ]

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1992年1月、南方視察で広東省深セン市の民族文化村を訪れたトウ小平氏

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1992年11月、「改革・開放の継続」の大号令をかけた南巡講話を記念して作製されたトウ小平 ...

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[size=3]【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行

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邓小平秘录:邓南巡讲话 警告保守派9 t8 ]. l5 V0 J- U- b
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日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,已故中共领导人邓小平于一九九二年初的南方视察,名义上虽是休息,实则是经过深思熟虑的一项行动,而南巡讲话的主要目的是对抗拒改革的保守派提出警告。9 z1 R& j$ v3 y4 ]% y+ C+ `% M0 L
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报导指出,邓小平于一九九二年一月九日进入深圳,采访此行的中国媒体指出,由邓小平的谈话可看出他的广东之行是有备而来,是对北京、中国全境乃至全世界的发话。; `" M5 I  v' O$ t* D+ J0 K4 B
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邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。5.35.249.645 d) ?7 b: G8 x; k2 w1 g: I7 H
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报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 ) ^* Q) s7 r! {# {% v1 G) @

1 @! U. E; U; P/ @5 j  ~, ~- ^人在德国 社区【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告  k2 S9 b/ I: L& `

9 C1 n( N0 K& O( O2 V: w, P& b人在德国 社区1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。人在德国 社区+ Q# J/ G9 N$ H. G
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手法は毛沢東に似る0 n" t) g" l/ |4 t, |

/ I  K$ k5 i$ }  O+ F' B しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。
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" K! P* R9 |. \& K+ R1 E; A5.35.249.64 「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」$ u' E0 q6 D: k

5 L/ a! }2 i- u5 u* g1 ]( V5.35.249.64 牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。
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8 w- k! ~; C1 Z5.35.249.64 陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。
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 講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。
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" p7 V# N6 v, V- Z* c8 {7 u0 l0 m トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。
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" O0 Y  f5 q5 `7 v: ~8 U このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。
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% W2 h7 {% U: Z 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。
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 毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。% Z& {; |- [% ^& K+ i8 A4 ^1 i$ i
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 林彪事件である。
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# a3 l) d: [* ]* t3 w3 g& R冒険せず何もできぬ5.35.249.64; F/ k, c; q' G! O6 R1 z) n0 i  z
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 トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。5.35.249.648 j) d2 B1 x( r5 W# Y

# H6 G$ H$ `# u 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。! i7 t) r9 A) T+ V6 v  q

: P4 u+ G8 R6 _, l: j人在德国 社区 トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。
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, k( V3 U' Z, o& w 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」' L" f% J+ {+ x# R( Z
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 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。人在德国 社区2 W' M9 p6 k: C- X

$ g0 y- Y7 _1 |* B- |9 N トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。
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 トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。
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" l2 j/ }6 j  C3 d人在德国 社区 劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。5.35.249.64- _7 X0 Y1 A9 [$ ^7 U  C7 y

9 B3 p$ @8 g4 T# z  ~# ~# F, Q4 v5.35.249.64 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。# Z, [) D/ }6 z& M9 f# N

0 D9 c0 Y4 g, _4 g5.35.249.64 しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。- Y+ U/ k* N: j" e& p4 z$ M

! \/ E9 i, @6 @2 r6 t トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。人在德国 社区: h% w, P3 b3 x' }

, Q9 Y0 C4 G  {: ~ それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正)
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■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。

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