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发表于 2007-3-17 17:48
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邓小平秘录:共军血腥镇压手无寸铁市民7 `' J* c; T* B9 C
: y0 \! u+ o8 a( b(中央社记者张芳明东京十七日专电)日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,中共北京军区主力部队于一九八九年六月三日晚向天安门广场前进,沿途对强烈抵抗的市民开枪。一名新华社现场采访记者曾在日记写道,那是场「真正的战争」,问题是那是场正规军与没有武器的市民之间的战斗。
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「秘录」报导,以河北省保定第三十八军为主的北京军区主力部队在装甲车前导下于四日凌晨一时稍后进入天安门前,部队是于三日晚上九时稍后由西长安街西端公主坟出发,由于遭遇市民的强烈抵抗,前进至天安门总共约八公里的距离,花了四个小时。
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7 w; U. @# b+ k3 y部队和市民最初的「冲突」发生于公主坟东方两公里处,市民以并列巴士和车辆放火等方式抵抗。部队在晚上十时二十分左右开始开枪,天安门前也是如此。另一方面,同样遭受强烈抵抗的济南军区第五十四军几乎只对空开枪,北京军区第二十四军和渖阳军区第三十九军等也未开枪,放弃进城计画。6 V/ {- T c0 \2 X; [# V+ ?+ U
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第三十八军等部队获得开枪许可的经过迄今不明,由邓小平事前指示「不得已的情况下可使用一切的手段」来看,可视为现地指挥队的判断造成各部队对市民的抵抗采取不同的因应措施。人在德国 社区3 a0 [& n- H5 g+ k! h
7 n- l5 Z9 Z( S- d戒严部队四日凌晨三时前几乎全面控制天安门广场和四周,四时开始进行最后通告,将实施「清场」。但学生总指挥部所在地的人民英雄纪念碑和周围,仍有以地方学生为主的三千多人在强烈抵抗。
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在此之前,二日晚在广场开始绝食的台湾歌手侯德健和北京师范大学讲师刘晓波等四人呼吁学生撤走,但遭到奚落。四人在商议下,侯德健两人已私下和戒严部队指挥官交涉,取得不抵抗下撤退的安全保证。
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0 C, a0 T( n' S8 L+ q. q" i, k凌晨四时半左右,持枪的数千名士兵包围纪念碑,侯德健向学生演说,公开和军方交涉的结果,呼吁不要再有更多的流血。但是,学生们的回应是一起怒吼,刘晓波等的演说也是没有效果。
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$ q9 z0 f) l- \5 i+ r1 a5.35.249.64不久,出现数辆的装甲车,由扩大器警告学生退出广场,预告将使用武力。侯德健等提议由发出声音来进行投票,因赞成占多数而决定撤出时已是四日清晨近五时。所有学生完全撤退是在清晨五时半。1 ?! ?# C+ ^' U$ N5 [
& G2 y. K* R" ^* h3 x( b8 u9 ?天安门事件的牺牲者人数有各种说法,总理李鹏在一九八九年九月对访中的已故自民党干部伊东正义指出死亡者三百十九名,包括十数名士兵。其中,学生有三十六名,大半是市民和劳工。
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「天安门广场连一人都不准杀」的邓小平和杨尚昆的指示被遵守。中共当局重覆否认天安门广场的「屠杀」,当时在现场的记者也未目击牺牲者,但是,广场的周围有许多的伤亡者。人在德国 社区: T* ^1 J1 a( V6 p% Z
. f S- I" S% a3 b天安门广场随后由数十辆战车占据,六四以后,北京市民也继续抵抗,不时传出枪声,各地出现抗议示威,外国政府也相继发表谴责声明。+ E% I* A+ B9 g
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邓小平于六月九日接见戒严部队干部,脸上浮现笑容,显出心情愉快。天安门事件后,邓小平在家里闷闷不语,开始重抽数年前戒掉的香烟。当时,他已八十四岁,决定由政治全面引退。他对自己说,武力镇压之外没有其他选择之道。! i! `) t$ s5 H9 P, O' o# J2 M
& d& p, u9 }* A7 T: C【トウ小平秘録】(31)第1部 天安門事件 6・4未明6 F5 F% L3 A! T: ~7 u2 ~
2 ~- X9 t, K3 E. c$ k# Q1989年6月3日夜から4日朝までに北京で何が起こったのか。膨大な資料、報道、証言があり、映像がとらえただけでも、近代史上まれにみる大規模な武力鎮圧事件だったことが世界中に知れわたった。
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前回書いたように、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は6月4日の日記に「本物の戦争だ」と記した。爆竹さながらの激しい銃撃音を耳にした人なら、同じ思いをしたはずだ。ただしこの「戦争」は、正規軍と武器を持たない市民との闘いだった。
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張良編著「中国『六四』真相」によれば、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)は「武器の使用を極力避けよ」と指示していた。それがなぜ発砲する事態になったのか(以下は各種資料、証言による)。
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第38軍(河北省保定)を中心にした北京軍区主力が、装甲車を先頭に天安門前に1番乗りしたのは4日午前1時すぎだった。3日夜9時すぎ、西長安街西端の公主墳付近を出発、天安門までの約8キロを進むのに4時間を要した。激しい市民の抵抗を受けたためだ。
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6 F8 T# R* U$ i C. K' M 最初の「衝突」は公主墳の東2キロ余の木●(もくせい)地で、市民側はバス、車両を並べてバリケードにして放火、火炎瓶やレンガ片などを投げて抵抗した。
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b3 Z0 a5 s2 w! a$ @3 \/ p 部隊側は、午後10時20分ごろから発砲を始めた。以後、復興門、西単、六部口で市民側の抵抗を受ける度、発砲を繰り返し、天安門前でも同様だった。& E$ M* u) T7 `3 b2 C/ t' H
& s* u: K6 p/ j2 { 一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。. f* K" X, \$ _, X5 b
5 d8 n7 e3 [. T: X0 P! R5 p+ Q5.35.249.64 第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。7 R* s4 X% a/ j f. _, }& e4 y' o1 M
1 p( v. P: q |人在德国 社区 天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。/ {6 B* G) U, G! E7 C
( j1 |- k! C( P( g8 p2 I4 _9 X( ]人在德国 社区 それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。
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) V p" w- E6 c 午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。, |! c1 y& N9 h- U' D( v
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学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。3 g3 l9 j: @: {2 Q6 h1 k- \
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「裏切り者!」
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" w8 ^2 H; A2 e- t3 H5.35.249.64 「さっさと消えろ!」. |0 D; T6 e, r7 R( z
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劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。
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すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。
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天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。; w+ @5 Y4 ^1 M" @
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「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。+ G/ }6 e6 P# U2 w7 |
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天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。
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トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。( j# N b7 w6 z$ w8 L6 J5 S7 @
, X# C+ z% m' w: C, f% w しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。
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「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した」
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その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。
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●=木へんに犀5.35.249.64 R3 `* S$ N9 d" j C" d* j
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5 ]% }4 z4 W% H X8 ?$ @+ s【用語解説】人民英雄記念碑
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天安門広場の中央部に位置。19世紀のアヘン戦争以来の革命闘争で犠牲になった英雄をまつるため1958年に建てられた石碑。高さ約38メートル、基壇は南北61.5メートル、東西50.4メートル。碑の正面には毛沢東が書いた「人民英雄永垂不朽」の文字と、背面には周恩来の書いた碑の説明がそれぞれ刻まれている。訪中した外国の元首らが献花することも多い。
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1989年6月3日から4日未明にかけ、公主墳から天安門方面に向かった戒厳部隊は、市民、学生らの激しい抵抗にあった。木●(もくせい)地近くで集中的な発砲があり、死傷者の多くは復興医院に運ばれた(●=木へんに犀) |
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天安門事件
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