邓小平秘录:老邓听到胡耀邦去世猛抽烟 ( z n, s0 e, c# o * y9 D! T; X. r0 b& {4 j日本产经新闻今天连载「邓小平秘录」,报导一九八九年四月十五日胡耀邦由於心脏病发作去世,邓小平听到这项消息熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,但片刻后开始猛吸烟,想必他警戒的是民众对胡耀邦死亡的反应。, }+ a/ q0 Y! E6 z$ m
) ^- k f9 [5 k! K文中指出,今年一月十五日薄一波去世,他是曾在一九八九年天安门镇压事件采取强硬路线的八大元老最后死去的一位,他也是在一九八七年一月积极支持将当时担任党总书记的胡耀邦解任的一位。后者由於对一九八六年十二月安徽合肥学生民主化示威表示应放任无产阶级自由化而和保守派元老对上。 ) \9 F5 H3 g1 y2 Y. u% G& F! u! x0 x- _$ z
秘录指出,「亚洲周刊」曾报导,当时担任贵州书记的胡锦涛曾针对胡耀邦被解职一事对部下表示(处分)相当不公平。学生和知识份子很多人虽也都有相同的看法,但并未发生抗议事件,改革派的赵紫阳被选为胡耀邦的后任也是原因之一。 $ ~; t. h$ c( `! r% Z) ]9 Y ! r" ^# W# n2 Q5 r2 [胡耀邦去世消息传出后的十五日晚上,北大等部份大学贴出追悼胡耀邦的大字报,十六日,大字报扩大至二十所大学,批评元老政治的内容也增加,一般市民也开始追悼胡氏,十七日晚上,中国政法大学等学生在天安门广场的示威揭开各大学竞相组织示威并扩大规模,由追悼胡耀邦而转为攻击保守派。9 Z. I7 a9 I9 e8 M
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胡耀邦的突然去世带给中共领导阶层冲击,据「中国六四真相」报导指出,赵紫阳总书记接获中央办公室主任温家宝的报告后召开政治局紧急会议,决定讣文内容和葬礼程序并於午后报告邓小平,邓氏由於已接获报告而显得相当平静,但政治秘书王家瑞事后透露,当邓小平得知胡耀邦去世的消息后熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,片刻后开始猛吸烟。% j ? ~. o$ k# m! R
0 H. B4 k% H: D邓小平针对胡耀邦的去世同意赵紫阳报告提议将胡氏定位为党卓越的领导者,对由於主张「无产阶级自由化」而被迫下台的胡耀邦来说是异例的待遇,邓小平对胡耀邦去世保持戒心的想必是「民众的反应」。 5 t; n9 I$ z# ^+ a% y . k; G. y$ Y, ?) x' U( N一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。 9 i0 P* D% q8 X' d! U4 p 3 L1 {0 v, r/ U, S一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。" ~& \: T: G" o h$ E
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【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死 f2 J, R/ G: f! o
* J7 ~; Y7 V5 m! ?# D今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。$ V$ C6 O. P7 g8 P! x1 {3 @
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猛然とたばこを吸った F6 I# N. F" G6 b* k
1 N8 F1 W' p. s* [; i* B; [6 E. d天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。! B* l$ }% \# K8 }/ b
/ i' {3 ~: z4 _0 Z. \ 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。9 B* P" p# [: H3 c7 Y0 y) `) @- x
0 [# i L! @, e2 N( _9 j 当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。6 `; p8 A: B# Y* g4 N* B
/ G; d+ t+ s* P7 s3 O! m2 c そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。 ) I" u' J: }* P) N6 v! H . d1 f/ X; G3 S/ d+ s 89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。 1 x$ }! B2 P& O2 \2 h5 `% v4 Z/ w$ J- R, F# _- P5 v' C
予感通りに事態は展開していく。5 L p7 ^- X& P, k) C
' e9 m* d6 C* p$ F. W& d- L 訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。 1 w& ^+ M9 o9 s ^" j- {0 A% a9 c# h7 \3 ?* @
そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。* H8 b. L% x. {& Q: S* a/ {8 {
1 G" D9 H$ I: }( l2 H7 z 胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。- y9 N( d( o+ r ?0 E
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「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」 1 V! n; A9 G2 D W( P: c + x* ?6 ~2 N& i: n6 l$ p 胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。$ N: m+ z: m6 c& t. s9 |9 `
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胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。) [ d( t9 A6 L; W) b9 m
3 v5 z V; B8 n. D. \" p2 @6 n& U } 半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。 / Q' W/ p9 Y) \4 e5 `3 x# f( u5 a! |$ x4 [& n* F! z
むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。/ S; P7 d9 C8 A! O7 Q9 B- W( {# p" G7 e
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「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。 8 K) w4 f8 e6 n9 [' E/ R! T' w* o7 p& p. h8 D. ]
天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。 % R, O9 Q) \1 L, V, H, O# n6 r+ A8 l5 k; w& z3 d8 i8 Q
さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。; N# H7 }; E% x& H8 o, z
, N! D7 u- l6 E7 U! U その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。 7 A2 G F/ }) m" i! }& }! q. ~% b3 v1 O) S
(中国総局長 伊藤正) 4 [1 J' p9 m) K6 f6 S# s \% Q% N" U8 D4 I6 l! N
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【用語解説】8大長老 * a, C3 y7 n9 b; V # f1 V- M; ^% N% ?, D トウ小平・中央軍事委員会主席▽陳雲・中央顧問委員会主任▽楊尚昆・国家主席▽薄一波・中央顧委副主任▽彭真・前全人代常務委員長▽李先念・全国政治協商会議主席▽王震・国家副主席▽トウ穎超・前全国政治協商会議主席(周恩来元首相夫人)-の8人。いずれも革命第1世代の共産党幹部で、党内で大きな発言力をもっていた(肩書きは89年6月当時) 8 O- I2 z3 `1 d/ P$ C9 ? h # }% j/ a2 U# `2 L(2007/02/16 07:48) 1 d* f; P( T( [7 _: g 1 K$ j. K/ q: i* a8 ?! \5 W$ \# l% }3 u. H' M0 |
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1985年6月、中国共産党中央軍事委員会拡大会議に出席したトウ小平氏(左)と胡耀邦・党総書記(当時)
1 k8 ~6 _# ?' E/ w. D+ ` U9 f7 m4 T そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。 ) ]. S) L4 z, d8 c x) R N0 ]3 A; Q
この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。5 h0 Y3 I/ G. g
_) q9 q6 m+ f 当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。% {" V2 L6 P* N5 X: X
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78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。- e+ M" S4 H4 S: ~* N. `
/ V+ j. P- Z& }7 _9 R$ ?3 w トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。 M3 i& \) S2 H( k' |: [( P$ a; o. c* G" L4 \; }! g
「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」 ( }6 w+ ?) }. l) O/ H! ^! j g 1 r7 L+ r q* H/ ]% [ 「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」 ( l. M& M' [; G4 K5 d# u4 _' C8 {! C! F1 j4 H
だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。 ( q- C- y0 z' i y" I 1 U0 x, P, p9 H, B . f6 J* r) E2 |# w" d反党活動の証拠収集" w6 e7 u% b: ^5 U
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天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。 |4 j: q/ G9 J6 a3 |
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方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。" i4 X; Z2 `, J; @% _5 y
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「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。7 K: C! {6 E7 N( ]% c+ T* g
1 d: t. W% K7 C% w その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 - j8 ^4 W5 x$ ], l' t: }% V+ c% Q4 C T" q) _ I
天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。8 \7 n2 U8 f5 `
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陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。) ^3 L7 J9 t8 Y) r
1 G+ M5 ]) _+ Z1 V: ]3 d 「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」 + @3 s- ~3 J ~- A, _ ) [/ j% K3 Z) Q4 K+ A# {5 _+ B( m 「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」 * a! U7 E1 M# u8 c3 P7 |; m3 G9 _4 O" H6 t
「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」) Q% z5 W( A m5 L
# ]. M# X, C _+ g% W x4 m 「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」 : n7 X' E! o% T; Z0 g0 n5 L8 J8 X7 O- O: ]; X
言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。 - J3 |- ^4 R; n5 K N ? * x" V7 a' z! w それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。(伊藤正) 1 r/ n+ z7 M. O. C% n* ~; K/ p7 H# B: @6 s p, S7 K M
■反右派闘争 56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。8 N. p) \: l. \8 H
$ N$ Q3 E1 P5 o1 Y(2007/02/18 08:10) * c- L. S8 ]& I( P0 k8 u ) W: N/ C9 q% ?. x2 O' c0 j- h$ F9 m
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利 ! C' H7 J; x C% F5 x 6 I! }7 `/ V: {/ E% L. x 9 R4 Q+ P3 a5 z5 a$ B3 o, C9 i* g$ v 根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。6 q6 H- K8 `5 |% B% A) e3 U+ o
/ ~- Y- p8 D7 S' w/ G/ F- H3 ` 文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。 1 k* r2 R7 P: Z/ A, d0 N ) X0 Y/ H# i. S$ w; o 当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。 . j& E+ ]) q( t) L; Z' \% J ( S/ x2 T3 |" N- a7 Y$ C9 w. i3 S& q, Y 秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。 / R2 w% S& w3 A! n& c2 U. K* F - [5 M n2 L' ?' U! X9 z. | 担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。0 f( U" M, U) H7 i
4 y- ^$ [1 X% ^- o 李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。 # @2 [( c* ^8 I % C' |4 b8 s2 l: B0 h8 d) ^! J: b 在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社 ) S$ f, ^' n6 g6 N8 O' A2 M( B $ V5 W9 t% U0 Z6 p5 M. O2 H! L$ ?+ L0 y【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない 3 y- H' q* v3 o. q! A2 [' I 0 N, {, ~+ g+ m# z8 `8 C8 j' a( |3 z& F胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。 7 ], R( u( d8 P e# }2 ~+ `9 p0 n2 Z/ F
その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。 2 L& k V+ u1 w. B 0 W$ U) j8 B; K& M 「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」& U3 a. f6 b) G" h& D+ e+ a
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弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。 + Q @, W( n4 R- B$ N# e3 {) z8 H9 I) v- b7 o8 Y" ?5 T! J
胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。- ]# S& _. s- H8 ~
" t6 e8 \, g' | かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。 6 E/ J" L) a3 w: x1 e ! w4 z1 s, u i! S4 ?) F6 w0 o 朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」 ' @( Z& ]0 v1 N* s7 L" \ I& I. d' E' [9 z! ? w0 @
トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」3 t3 Q; y' G& s% r+ `
# \6 B; e0 Q/ l; t8 h. Q0 y4 G しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。 d6 e1 j7 ~5 W- u
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元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。 , G/ k4 @- x/ _2 p5 w m9 B8 I0 A( @- U3 r& J) ~
「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」) 8 Y, C3 i6 n) O# q7 f/ C+ L! V; Z 2 t/ \0 @- Z l! u% w i; T) \# ]9 v 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。 1 ]4 U/ }$ a+ [+ t: {6 m9 D' {4 k3 \9 \& Y8 s1 f
「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」 # D1 |3 \% l' u) _ : P. b" o, z; v' l それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。: `' A4 a- k1 z2 A" d2 u% ]3 J
; o% R/ N5 S9 J% Y. x5 | 《ひっくり返った党人事》 1 l& r. Z* E$ Z% k; o$ [( g5 ]. [4 ^1 z, l. _7 @3 U, s! v; ^2 Q
思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。7 K8 E) U# W P7 l( L
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保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。1 G9 X& X. [! C' }& P/ o
4 C0 J) w8 h( Y, d' B3 T4 p# u7 w( V/ X 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。2 ]8 m3 ]: U, V% h0 T$ G
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10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。 8 I* k; B" T5 T. {5 z* F& ^2 u ) I0 H# I+ h U1 k5 A- Q! ^ 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。( V m# r- o* W$ \+ k. e, q; f9 R
- D* w8 C9 d4 i$ ~4 K その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。 & |; C% u/ X- w1 d2 j0 v# ?" Y/ P6 t9 p$ G' o
趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。 : f7 u0 }& ~0 U1 A4 m' a; p# Y. u* i) Q; v5 a4 G
このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。, [1 m% ~* k" \. m P v4 q% X0 W/ J
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陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正) 2 M. y3 V( \2 i + ]( z1 ^/ ~$ `2 k ■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。6 l! v; x& I0 M9 v
# T7 H$ f K4 V9 Y w( E4 }, a$ ~ ■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。 8 J( c, z# X2 ^5 Y6 C * q& `0 E+ R3 `( ?6 S9 \# T ●=彫の周が丹 T! a/ f! \ X+ W2 L7 `8 e% V
/ R$ }# l8 K. l( a S' H(2007/02/20 07:26) 4 r4 l* z4 j4 R% M$ ?6 R: z + m7 ], B7 f2 U' v! J 1 T- i; \6 B- `6 X g: n- \2 P7 {: F4 L6 x
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2002年8月、北京にオープンした蝋人形館。トウ小平氏と並んで陳雲氏の蝋人形(左)が展示されている
2 q' h* b4 I5 ?$ C 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 7 K% \; c4 n! \% n
+ f& y) D% h; G 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 , s# o; g& }) w# g
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邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 ' F' h: F i h K$ B4 U4 U2 [+ [* L* U
香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”3 R% f8 z) m9 g% V9 \
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- k: X# ~' ?# n. s. i 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 & [( f }. @8 m: _( c( U9 D m6 d + o3 _" i* o" g- {$ a 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 7 o9 \ c9 \6 o, a0 b8 X9 \$ L7 S' C8 d" m3 T _* o
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 ) G* e, Q7 r, @# C a! j+ ]" E: F% E# B$ O* \% y
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+ G+ ^, w7 T- r* ~China honours man who reshaped world % s9 k" G: J# Q5 H2 v IWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. ! f- U- Y" `8 G) y% j. d9 V& ~' o2 j
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. . J' u; o! X; n; B1 K3 _
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. : a8 d( A% n) X& Y1 J, }$ b, j- t7 G$ I7 B% Z8 R
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 2 T9 o6 w( H) O- G8 J K: E/ U$ \, ^: o8 n( q0 P; W, n: \
“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” + \7 b$ L# X" L6 M9 Y( \! K V' D8 v' l
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 0 y; F* j; d/ E) j
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Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. * x7 U! C2 D) i# g7 Z( g6 K! x
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” 1 z" X( B! ^7 H' h/ @: S) S - I' C3 k7 g7 F) [( F4 {; M4 TNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 1 N) W5 I% L0 a+ |" }- U$ |% v/ K# |! ?3 _( P4 c
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. ' e1 `& P) e. O/ ^+ d+ l
, [; x% n& r) g& `: fDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” . T/ W0 b/ X- j3 W" k/ |
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He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. ! X A. ?( N& q5 a# Q/ }
`. n! R* u- k: p q v8 d/ @" rMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” & U9 F- R0 [+ J4 X6 p 3 e5 Y# d7 G7 w" e! |/ q) qMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. * S' ~# E5 L) Z+ B2 @+ |
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But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. % J8 e2 s1 ^+ T# i( ?# x( H
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His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 6 F4 A' f4 ^& r& T" j
X" k' x; m# u* o/ B2 v+ XNow ; H- [( H. Z$ C 6 M. i7 B3 |+ i$ d2 [Population in cities: 550 million & V( g; \' Y0 Y6 Y' H) L' F. x + C3 }( a4 h' ]" B; kGross domestic product: $10 trillion & G9 R; g$ `" i G
1 n3 }& H" Q* }7 H- r. U
Oil consumption: 6.5 million barrels a day ; G/ u* Y. s3 U, ~
. p& s; n, c6 d4 S' D5 ~# VExports: $954 billion ! k& N6 @1 k% C6 a) @+ e& a 9 e$ a, g4 h. Z4 K; l, b& lPopulation below the poverty line: 130 million 3 o8 {& C( z) |! S
. ~2 M; [5 M7 f" \Ten years ago 8 @5 N: k* }. A! N* G P0 {9 @8 G% S! U/ q
Population in cities: 370 million / n& w. _5 m4 M3 ?" I+ j / z' f# S" G! Y! oGross domestic product: $4 trillion ! k9 n E. h+ E' q. r' R6 {+ E
+ h# L2 T1 q0 ]1 \% j+ K( Z5 Q
Oil consumption: 3.9 million barrels a day `& @$ G6 ]2 O) m w9 R. J
9 l+ {- S+ Q- x+ f; K% NExports: $182 billion # I2 d# b* F4 g# O7 k
+ ]; c2 | i% z) i! l' p5 p
Population below the poverty line: 120 million : p, N) a) q: `! s+ h6 t# e 9 L; [0 m, w0 U. bSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies ! [" x3 t- D! R+ N! y+ \! O; w" F. W/ v * F- L9 i9 X" M4 o* W# N“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 7 T4 }; N2 _2 |2 H }( }# u1 [6 c; m0 ~2 F# Z1 Z& h& m- ]% [
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治 7 w9 f$ L; z% O8 ^8 Q8 Y* G+ a 9 L; t8 ?7 e& p8 ?2 m, b(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?” 0 }# T" C { P+ H5 q0 F4 \7 _ c9 D; S5 s8 Q3 c赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。9 K7 B( K8 L% q% l
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赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。0 D P) F$ \' Y( _# P( q+ |( h \+ g
$ Q* Q- o" f% l鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。 : K! s& I/ ~0 H7 v6 t7 N2 G ( z _4 v& G h$ P* x鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。 . Z& K. p: C4 I7 R$ S& b$ T% m & j0 M: D3 `* m0 E [# z赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。 # w/ h0 ]: C* p/ o4 H " B9 s! C$ ~5 B1 S5 t2 {6 Y一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。# O5 a) ]) D/ ]8 L& L9 d
$ G, E% e d, I. E1 N# a 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)' }1 w9 E+ ]) y) }/ U
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この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。( t: x0 l5 V; H; C
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趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。/ c& M# K6 y% d; o6 ~- d
2 x' e- U b7 A( ]+ E 中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。9 Q r" @% h: E# r. H: F
. j: H+ f+ M6 h: o しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。 % c5 R, Z) ] q ^3 L4 W& }! f/ H6 i& p, P1 D* ?1 N. ?- M
この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。 - M( v! E% v9 z* y! p! v. j4 _3 [* ]: G$ M5 R3 N! {3 z2 j
しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 $ O$ g) c/ n+ i$ d, S+ D C3 d2 X) S2 t" Q/ U
≪パニック買いが起きた≫ ! W! ~- n- d" X! D) `, l9 X ) N% R* n* Q- q" D ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 8 C% b3 w( N# K" N/ P' r& T( S9 x- N# I, n4 W
趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。 ) j4 \7 _; T" L- D# v . F$ u' D4 i# l0 s4 B2 ~ 「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏) - ?: N9 E9 l% r! T2 Y, }5 b! Q3 n1 {" ~2 q$ A
トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。6 z! x# @4 h i: v4 N Q# t H' B
7 u. \. j, _0 }! u/ M$ F 当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。8 t; y; C, V8 s s* `
' S: f3 e. x6 F' N 5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。 # r( G- _+ { o6 t8 G- y- k / N& o" a9 ^5 i2 A 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。$ N. S- T1 Z2 L" S5 S
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その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。1 p' y C# X2 v; B9 H
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ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 4 w2 h9 Z. [% l3 K, p 7 U1 G E& |( U 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正) 5 M2 x- i; n# l0 F1 c % A" |4 b- n! P# }' i ◇: w; _( `; ]- D
! `8 y3 s9 w/ H- p! A【用語解説】3自1包 7 f& N0 d, T5 k& H1 N # b# l: p% {6 Q: X8 z# `2 { 自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。( S& r0 b j( B, c n
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【用語解説】北戴河会議. Q+ y8 a, Z7 c
0 {+ ]9 M8 f3 }+ M! |
北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。) h1 T9 Q4 ^+ e* h5 \9 S
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●=彫の周が丹 0 P5 ~; Q7 _2 C' H* f/ o, C5 W& r4 I+ g! u; f" |* m9 M
(2007/02/22 )
邓小平秘录:邓对赵紫阳发警语说中国不能乱, b: w) O s) u. R
(中央社记者杨明珠东京二十四日专电) $ }5 f8 p+ k0 O7 P) |9 b% V. N0 n' ?8 F5 {# V
日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。" E& s: E! I' `9 {6 C6 C
7 S$ d; j9 y# u) f/ g秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。8 l: J" \$ l( l: h7 W0 k" w
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但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。3 S& x8 G6 [% D8 `/ x8 X4 S
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产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。 $ S0 y% Z! z% z - j; O- V3 q5 C& y2 d5 z秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。' J { P4 D e9 i0 N) l" F
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秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。9 N2 u$ k L1 d# a1 j/ g
( K2 I, [1 L5 t# f秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。 2 d0 q A) M" u2 l - X* E7 I+ y r. ], _! N秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。 ) f# K6 `* m) K$ e8 O' d. g: T9 h& G6 m7 U0 {0 h
秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。 % X8 _2 d* r5 _! ?) g4 X) N, E5 ]- N3 j, b8 F- V2 I
【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。 ) U n4 v# @8 i( Z6 v, d # H! T4 K+ o2 \2 d その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。 3 [5 M0 {9 U" _, p1 }5 x7 g. \5 p+ j/ n# w1 {+ b; M. h
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「中国は乱を許さない」 0 X. ~( d6 A: r: U/ h* J; i+ Q8 _7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。! l; Y3 u' E# t$ A9 u
8 F; i$ L& O/ l# P3 E 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」( h1 A$ t( B- a* W; z8 B
$ [# g$ y* B7 `8 W6 P) q3 r& H6 C 「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。% i9 C- b9 M7 m
a4 z/ Z( W( C2 l) @' L% \ 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。 : T* e3 ^# `6 j- E& J' j3 I2 j- H 7 J" u, u5 j0 F# q1 C3 U0 i 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。 9 W" k# r2 `2 S% `$ A 4 x: y. }5 J a6 l9 |+ j& P 「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」 9 m4 J4 S/ p6 ]/ V2 f : ^4 J0 C* w# y# K6 l 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。 3 f& ^) j, W0 P/ B6 Y0 x9 a. ]* _/ B) k& ~
それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。- V" ]: X( x" y3 E
8 i, M0 U4 N5 N9 } 当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。# @# A/ d: Y/ {
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トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。1 n" f8 _2 a" c& h
; t' {, B; _4 R7 U8 V# s ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 6 j3 {- T P1 T 1 W0 A; m2 g8 Y/ u- ] 「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。# A/ ]9 j/ r% c) \4 f
5 b* r' ?6 R, j4 ~ 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。+ g' H7 @2 X. d
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夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。 ( N& v X2 X, t( n/ @( Q" J' j# H( j- Q3 N1 A+ \
その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。3 f8 t5 i8 S# h! y8 z/ B/ V
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それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。) c% F) i8 [! n' A
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3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。 3 ^9 ^& r6 X, D3 L8 m3 ^1 `1 g. I2 f6 z+ e. c0 u
「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」 - g; H) q! y! x1 q9 W# H # [1 r1 ?& `3 @8 w e1 ?/ V+ s! B, h( A 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」 3 Z: C$ r4 \3 a3 N- ^ 0 X7 g6 C& x9 w3 h' H, d8 Y' W それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。5 b3 z: l; d0 J: T' Q7 `# L. n% D8 j
( _ {1 t5 V% q8 g その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正) 1 Y( L8 }" u0 _: @; X+ ?+ U$ R ( |) k/ T( E# j9 w$ m& U% l% i% G* y5 ~! [# K& `8 T
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【用語解説】抗米援朝 2 d+ [" m7 z0 S0 E5 T * S/ p# R9 q0 G+ q) M. E 1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。 / ^ X: g5 F. _0 w! ]3 {! K# i" j) P7 Z+ s
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1988年12月、モスクワで会談する中国外相(当時)の銭其シン氏(左端)とソ連外相(同)のシェワルナゼ氏(右端)。中ソ関係正常化はトウ小平氏の長年の懸案だった
0 I: b" N. h0 l 北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。 1 u8 r* v: l1 i ( U! V2 C0 Q( L9 f それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。(伊藤正)0 f, `* z9 E8 M. c
: Q2 z$ l9 R7 c この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。2 V: ?9 u$ f& B$ K. y/ z
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しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。- F' r" B9 i. X2 n1 [2 \
- l9 N& O5 d h0 B 北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。 , k P& G0 I5 n% F6 _# K 1 s4 ^$ e5 L' [5 V; ]7 f 王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。 1 w% |1 s( h3 n& h: m+ j, h ; t2 c5 x) d! Q- _1 Z6 i 王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。1 u" n6 ~+ L! H8 J+ |# R6 V% V
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それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。 ( _/ v& {/ K% O6 M# l$ S . ?3 P$ R u& U9 ?2 A( Y8 A$ O: \+ h それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。 3 f Y3 t: U- J* u8 c" S4 E' n9 R* Q! B% K1 ~' F. X( t+ t! r
「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」) n4 d7 z) J# E4 O2 k
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趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正)+ P" p. K. J2 R0 _+ l$ q
, n/ q) A7 b- x5 K) z 社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。 ! J6 J6 |. R. Z7 x3 o% _, @& K: ^- z: h4 {( \* g6 ~3 g
人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。; s' c/ X) b6 r C: v! v& N
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「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」" m6 p# C/ q0 b- h) e: \- X
Z( A d3 u9 V' x! |; e' l
その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。 7 N, R. b' A" ^- ~4 d, g( A# Z G $ q S0 ~) {# [/ O7 o6 u% j 陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。$ V& a3 Q t( X. r% C) a
) p d$ N6 ?- W 社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。5 f6 f4 M& n1 }9 {: u4 ?% T
2 R0 [# y( y3 y- i 93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。 , m; @3 i5 l( G8 t5 X- F+ t- R; P7 `) M% _$ W+ g1 B8 }$ D- L1 S: t+ ?9 f# c% ~' f
トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。7 Q1 D% a8 O7 y- V) m2 B
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しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。1 x2 W$ t' m# ?; q" M, o8 W) }
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北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。, c) j0 v' p9 o% ~; u; n
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当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。9 u7 _5 t( L8 V9 Q- ?
, S' ~6 B" c3 z" l, z g q この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。 7 i$ x. r" k: E" q4 J2 i# X; K' J& q/ U2 M
新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。4 s) ^, L, \+ R5 p$ {
3 R; c/ e; C; d9 t# Y w それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。& g0 U4 T- Q( _0 d) ]/ P, A
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《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》5 Z7 n e; A. W! E7 _% v: ^+ d
: b6 n+ x8 o9 Z" M 各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。% v3 L/ w M& \. ?& i6 y
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これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正)7 B" S' Q7 I& J/ o
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【用語解説】トウ小平文選6 X5 J- z. |8 g% f9 \& ^
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对# x- ]. j- c7 }% {& F) S
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(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。, S/ u. n7 x( x! O; U8 n! K8 ^
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由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。+ {/ x: R1 v5 L# N9 } F
“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。' g, X9 x3 Y0 {" I
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“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。 3 Y0 }2 a- }" `' {; O) g: i0 z3 ?2 o9 P( Y1 L
另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。# O% J7 b# N3 ^' r
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“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。 ! P. ?4 k) a- G+ B8 C) ?8 \) }) w4 x. N' m) y" @- _
“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。% X j1 N" g8 i! v" K6 P- g
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于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。 $ z3 J$ c# A* c# `3 J- W% j$ `6 W* B! b: h( C
不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。7 l/ L/ b( X9 R8 W; m0 @
# ? r/ n( g' E4 M- P( M1 C“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。 " E- z% Y, N. f! M3 J " o* D& r. ?8 V" n【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 . Q, J" ]& E2 o1 `+ A
2 f2 i/ K" b& S% u7 a* I ■指導力 試される ; u8 Y/ k2 e+ w7 e5 @ 8 d' Z \/ {: L. g: Z 1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。+ c" k; l! P5 i2 ~
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23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。0 _( B( a# V( s9 @! y7 L+ P
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「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 . ?& J3 h3 a$ m; P& t: a4 J
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「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」 ) ^8 {, h" n& K" X: M* ?' g1 m, _
5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。 2 _6 e' i9 j8 I4 j/ P, N% d3 E; |4 l9 K, i8 h0 t
趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。 ; m* L+ L0 z7 ~ I 1 ?# p5 G& b0 i& n 会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。 9 O# L( C2 Y% F( C x" `# O7 z! v5 Z9 g. x# ]
一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。; {. v9 Q! d0 o3 _1 `' o
# w4 E5 l% E& r% ~& B, v 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。* H% Z& Q6 H0 R+ ?2 B4 S. }
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趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。, M+ K' U3 Y% t, ^+ @
0 c* i# f0 Q3 [; Y8 W 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。 ) E) r) f+ c* _& R7 F* `5 M) l4 H1 _7 @% L' _
「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」 & l! X- U( t, `% R7 R. Y% C , B5 s+ L8 M& V7 z ]8 F 中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 * E1 p( Y" ?3 ?# |! Y7 ?% p. \ / h7 P6 U4 q5 [ 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。4 z4 p) |; W8 S
5 y0 u6 Y6 x3 Y: m6 \6 w. {7 G" c 「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」' |7 Q3 [" F% k& A: D' K0 z- ~% S
9 O- p2 b, t [, q" b6 m 学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。) X: ?% ~% @1 E' {- C* n* H
/ l" k. L7 {( {7 B 趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。4 D: O* i) k7 O+ r: g! ]: a
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会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正) % A# Z; }/ T5 A! v: Y- c8 S. O5 Z, A1 r' }% W" L# a9 q
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【用語解説】五四運動 2 M) T9 |" w! H& |! M! V5 e8 P; _' e4 A8 w
1919年5月4日に北京の学生らが起こした反日愛国運動。第1次大戦後のパリ講和条約で、山東省の旧ドイツ利権を日本に引き渡すことに政府が同意したことに抗議し、学生3000人が天安門に集結してデモ行進、親日派官僚罷免や日貨排斥を要求した。これを機に各地に運動が拡大、学生や労働者がストに入り、政府は講和条約拒否の声明を出した。 ) `3 q" {& q; Q0 b' H) b3 y3 S
邓小平秘录:反扑致赵紫阳路线成梦幻 ; V( S( m o' l7 z% X1 i7 T + u& i( I3 w; m* `( \(中央社记者张芳明东京五日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日北京学生举行的反日爱国“五四运动”显示出四月底人民日报主论的强硬路线出现破绽,中共转向总书记赵紫阳柔软路线明显化,学生运动出现和平终止的希望,但是,随后由于保守派的反扑,赵紫阳路线成为梦幻。 2 k- H. U' _! ?/ S$ D) m' u8 w # b, B! }; g" b9 |* k9 B z“秘录”指出,赵紫阳在五四前一天的演讲表明推动改革和建设的决意,强调社会安定的必要性,对学生的改革要求肯定为爱国的行为,没有四月二十六日人民日报社论那种高压的表现。这项发言带给学生好感,五四当天数万学生在北京市中心的游行井然有序,学生们的表情开朗,集合天安门广场要求与政府对话后宣布中止罢课,次日开始返回学校上课。- W9 z0 s* I9 c/ ]0 w- V1 J* D+ W
五月四日下午,亚洲开发银行理事会在人民大会堂召开,赵紫阳接见各国代表,针对学生示威指出,学生是批评政策运作的缺点,并非反对社会主义的基本体制,难以避免少数人利用运动图引起动乱,但确信示威已迈向结束,不会成为动乱。赵的这项发言后来成为他的罪状。0 U# u8 `3 _9 u6 F* R0 m
& Y U) ^# Q& l2 g" F天安门事件后的六月二十三日,总理李鹏在党中央委员会大会(四中全会)提出赵紫阳的罪状时,严厉指责后者在五月四日的发言是鼓舞策谋动乱者。然而,实际上五月四日内赵紫阳的讲话赢得党内压倒性的称赞和支持。% y* p+ `3 P5 E2 W6 j
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张良的“中国六四真相”指出,李鹏曾在五月四日称赞赵紫阳的讲话内容,并表示次日接见亚洲开发银行代表时将表达相同的看法。事实上,李鹏在次日的会谈向亚银代表作了相同内容的发言。 " x& W3 N$ U7 [. O b ; e0 h, w S; ? p3 I赵紫阳当时曾对李鹏表示,使用柔软的语调是为促使学生示威早日结束,让外国资本家确信中国的安定,他向后者探寻修改四月二十六日人民日报社论的可能性,但是被以这篇社论是根据政治局常委会决定及邓小平讲话内容为而遭到拒绝。! ]( u+ X1 v- c& k
4 o- }3 p; E; F3 `赵紫阳为改变社论将学运定位为反党动乱的定义,打电话给友人、新华社香港分社主任许家屯,请他来北京一趟。许家屯后来发表的回忆录中指出,五月三日和赵紫阳见面,两人对情势的分析和意见近乎一致。赵接着提出四二六社论问题指出,常委中,乔石和胡启立赞成他的看法,问题出在李鹏和姚依林,拜托许家屯协助拉拢与邓小平有深交的国家主席杨尚昆。 & F7 a% r7 ~7 o% g1 p6 Q/ y3 k; S8 [, O& |
五月四日,许家屯前往杨尚昆家,杨完全同意许转达的有关赵的看法,并称赞赵紫阳对亚银代表的发言,但是对要求邓小平改变四二六社论的主张表示有困难,指出他可试着向邓小平说,但以邓小平的性格恐不会接受。 . b" l; Q7 H3 M7 D+ C4 ~! c- Z! l4 A; H% J7 N, I
人民日报副总编辑陆超祺的“六四内部日记”指出,五月四日,社长钱李仁通知编辑部,赵紫阳的秘书鲍彤两度来电话,指出赵对亚银代表的谈话极为重要,要求在版面上大加报导。人民日报在五日以头版头条报导这则消息。 $ o: w v2 {* j' `( k0 O9 {7 i. X% v5 z9 F
赵紫阳在五月三日的演讲,四日对亚银代表的发言内容都是鲍彤起草,反映出赵让学生运动迈向结束的强烈决心,若是成功的话,赵将可重回权力中心,出现全面推动改革的可能性。赵紫阳掌握趋势是事实,但是,挡在前面的四二六社论是道很厚的墙壁。 . Y/ S: |! S8 k, J/ K t- [" w* V9 H
前年秋天前往杭州别墅静养的保守派大老,党中央顾问委员会主任陈云于五月七日回到北京,不久,保守派开始对改革派进行反击。' I* j0 S J7 [& |
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【トウ小平秘録】(20)第1部 天安門事件 幻の柔軟路線 ( `+ t: T: X( X1 Z {
4 R# I u- S, T9 h& L ■厚い壁、立ちはだかった! Q1 _2 M9 q# v+ q* m4 v9 x
) d/ ^* n M6 M/ M 北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。8 q ]2 K) a6 H3 c! d
3 _/ i) D0 O9 @2 | この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。* v8 R. e, ]& p# O* v1 s4 l
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趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。 & @7 l1 S# @4 Q/ h% g ( j: o) ]; F& t7 d 学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。 M' d1 c/ \4 V1 H ; S _6 A: ]% L- q# h 学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。9 x5 u" @; ]9 l; b
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「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」& K( H" H* n1 I0 z L; S8 H
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天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。+ M& c( P+ p: [/ f/ V. n) v
* _6 |$ G; {; n: Y+ K( f* j" S 張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。! g: r3 e! n I# t" k: c/ o4 x: N; f0 T
5 i* ~1 o: G, C 趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。 5 m9 X6 i+ y% b6 h! o: i6 Q3 B' r, s; I/ E7 X7 f1 C! N9 |
許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。 7 C7 T5 x' I: u ! Z2 E7 \ ]- N' B 趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。 : i3 O2 u4 r( ?# ^$ Q8 U " \3 B+ y4 J z 翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。1 a' `: o. @1 O& y" h6 m; H0 d; X
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「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」 4 A. K% n T' f+ g9 J+ P y# K: |
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。 , e- V w2 N% a# N5 z$ Z4 M3 Q4 k6 b7 v
3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。 $ T/ L: v$ N% E. p L( N) p3 {4 ^3 e0 \7 a) v W
許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。9 i. i6 W, F, [1 B. ^, ^
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趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 u9 t |" b o7 ?' n2 m6 `, G1 d # l% H: W. t. t# Z* }8 T 前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正) ) U6 M' s' L! E' C) n* R2 Q7 T( i. {0 B! Y6 g# f& t( t6 t
●=彫の周が丹+ M5 a' L6 m# I W
: P& X$ t6 l2 ] ■新華社香港支社 国営通信社新華社の香港の出先機関だが、1997年の香港返還前までは報道機関としてだけでなく、中国共産党の対外工作部門と政府の在外公館の機能を併せ持っていた。許家屯氏は83年に党香港工作委書記兼香港支社長(中央委員)になり、香港返還交渉に活躍。趙紫陽氏との関係を疑われ90年に米国に脱出、91年に党を除名された。 - z9 Y5 k+ F1 i+ k# v ]8 f5 P+ M- p# c& A
(2007/03/05 )作者: 日月光 时间: 2007-3-6 08:05
邓小平秘录:邓氏曾为民运对策态度犹豫" Z5 v( j- s7 Y) k+ Z1 X, n( ^
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(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。* Q$ J w! R( L
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“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。3 d% g3 V) \- l* v4 ?. W$ o- P3 T
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中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。 / G8 ~0 U8 k8 A6 }, n% Y; n* V: g & M _9 X+ g4 [9 Z: z五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。 % _# o4 N' `2 L; g8 V9 ]% T % f' Y& [) f$ g, O0 C' c张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。 # N, f0 {3 I1 O& M" x; o# y- b5 n# v8 x5 ?. v+ o
杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。; K' l2 l0 S- b$ b5 `2 j. T/ a* H8 M
2 d% Y% A8 B- C J; I0 |当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。9 f" W4 r# K; ^- V
; \, @/ w5 i$ ~: ~5 ]) N就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。 a7 A `' D" V7 e; \, k, t% }1 B- }& }: k& i D$ L! s
【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂/ I# ~" u- V6 r' C2 \2 C% v
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中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。. V3 ^0 x6 ?2 B# v) U- h
$ B2 X- d, a1 o; ?# n! } 89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。2 F2 G: p. A, p
2 _8 x( a h. M6 N( U 5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。: n" j; k# x* d4 o- ~
: n: `% l! |- d これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。 # C' D5 G4 ]7 R) l. G! H8 e6 q4 }0 B' I' j A" E
柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。 + a. ]) J) A& |6 C+ M: m2 j) t4 I" l+ V
「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」$ Q( P( B4 w1 ^, M/ j
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張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。8 a: J2 `+ Y! u
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党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。) Y) U S+ w, Q# j; V
' a$ S u: A; c; K H0 g, j 最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。 # t- a' x4 U" O3 u( f2 |. ~2 d/ m& a! }' P9 W& m, Q
9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。. w4 B0 T) }) g8 E
; ~0 T/ g% q# \1 H A しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。 # Z e9 K B7 f- O9 J8 ]0 b8 K% z. j: Q/ s- o7 z+ Q
陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。 2 j! v# X- O( v$ h* ]0 x. `, ?5 ]! q/ m% ?: Z P1 M
そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。; P# a) e( A8 _, N" M/ L
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それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。; k0 J8 J5 m8 s/ Q* Y" @# B L% ?' {
# O4 k! j( c& Z7 |; l 「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」 0 D# ]3 V/ ~; Y2 m ) j8 ?( @" L4 O5 l/ l$ y そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」- L- a' E. _$ o+ Y
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トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。 $ C; ~# Z& A+ a$ c : H* Z* }7 i, }- k4 K& p" j, D トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。4 Q z, q' g) ~) Y; d; q
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《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 # B6 L& o; u9 }; F& f' ^) F$ P" ?* s) n! F- S( G5 a4 }
トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。9 H; n, B# L0 S$ H" G% Q: ` c6 ~! Y7 |' H
" a; W* r# Y! X' b% d1 P 彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正)9 w4 x0 A# Z1 _% N
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【用語解説】中国青年報 / K' w- R9 l- O ! Z% m) m* Z+ T/ y( l- L" I 共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。 + I3 [/ {2 ^/ S; Y4 g5 I" T# \. G# r0 }
(2007/03/06 ) ; F+ U' y+ R. A& ^: A 4 P$ h! f) ]1 D2 I2 V作者: 日月光 时间: 2007-3-7 10:31
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口 , g. O# U# p1 Q: b- {& _中央社 s; ]7 |; T+ k% ?" Z
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日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。- k% r+ U2 {( A* W. R
, m% E4 T* Q8 ]) A1 d6 S0 k
「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。/ _$ `8 @6 M: h
6 j9 z& f: c: _! n. | 「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。) L8 Q. {( X! ~
3 S* b X; t C2 [% s0 @
王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。 " G- N0 b5 D1 c- ?# j4 S1 Q' [+ G r
$ f7 Y* e3 I. q( E G 但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。 0 g* q G. N, x 4 K; r; n6 D$ Q n. W2 O5 b+ Z 王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。% i- B/ s# ~& G
- t2 `" Z! w4 `/ X( P# R. i; n 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。: q1 J4 W# {: j
3 B% \4 T6 s- B2 s2 ~! G6 ^9 z 就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。 ( x' b( M& o. t2 M0 a4 p9 V9 G. N5 h* U
邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。 5 D' G/ V- D8 l ' A- q) i& O5 `7 Y2 _( B 对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。 1 s6 }* x/ y) B6 V# z1 C3 B5 a5 `( o# e. I! l
学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。8 z+ f5 }+ {# [
/ y% R" j, ~3 G0 z" Z0 K" E- y/ d 7 @* E9 Y$ O$ j5 ?; N8 C【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言 + C7 r b4 e1 c5 ^ 3 A. q% M; r0 ~- r1 T■急進派が押し切った r. O) R% L) B S0 M ) f i& B7 A P 1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。1 Q9 D2 ]- x: Y, v; g& R
& n5 V' f/ T. G Z7 U3 g
戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。 . h# X1 ^1 t1 G: _3 Y/ `& @1 @: c( i* J& R$ H5 Q+ B
同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。5 j/ x Q" c. N7 g
) E/ V8 h/ W9 H1 W, F しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。' S4 I+ f! P; c% B
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絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。 9 i; t( W, z9 E. [* _; X m, i ( \9 E; P9 L: \5 e それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。1 q: {. I& x( |% r! G3 B
( P; E; `2 H0 Q# `" R 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。6 i$ P: e/ y4 k( }
3 k8 N, P$ u; Y# i! l: U
王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。6 ?( @1 ]& c" ~/ `- W1 @3 S. ^8 V0 J
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在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。 " P) c8 \4 n$ G; ~+ }/ k& ?) \8 T, l+ K( D5 P$ l) ?7 ^
李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。% `: D+ t1 w, {/ |
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14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。- ^& Q6 z t5 Q. o0 ~# z% d4 \
6 C) R+ i) a+ l+ c' n. S: m; C 政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。3 f: Q% v) ~$ ]5 i% V+ x: c' X6 X4 `( w+ L
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13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。+ N/ P0 R% m6 L! N: C9 F, |0 |) Q
6 E7 z8 C4 W# F& ?, G それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。 8 G$ a% x1 ^- j4 ?8 K: P; E* m: C& L7 Q6 v8 Q& e9 V" F
趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。6 b6 r+ O; f$ g% d; L
5 I" s: O, t: } I( B* J; n
14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。4 J- _, O7 C/ m9 F. Z; ^& x
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絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正) 3 k F; l- [, U( o/ G . C9 a8 f& G; b●=彫の周が丹 . I& d( p9 A9 s% {9 B; s% V4 Z2 I+ W5 E) @
◇ ' M {) K- ]6 r* B: C. h 0 o5 A; e; }+ S/ L" Z+ |* c【用語解説】中国社会科学院) s9 D1 I8 b9 N* {$ L( l
# [0 Q/ H, P7 D1 s* H, U 中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。 0 ]6 G4 U: V* ~5 P( t / i. V7 A& x1 e(2007/03/07 )
邓小平秘录:保守派主张不能对民运让步# I2 g1 P% ?4 Q, [+ b2 m
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(中央社记者张芳明东京九日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月十七日下午在邓小平家召开的党政治局常务委员会扩大会议,事实上决定了北京宣布戒严令和党总书记赵紫阳的下台,赵紫阳在会上反对戒严令而表达辞意,显示他看清戒严令将导至动武。 " {! }% ?8 q$ ` X9 H5 {- k; j5 t3 X2 g5 S' G5 O- n
“秘录”指出,与会者多数表示,当前的情势极为严重,绝对不能对民运让步,和主张撤回或修改四月二十六日人民日报定位学运动乱的赵紫阳的意见对立。会上决定对北京部份地区实施戒严。 % X% N" H- ~: z. j 2 d& x8 [3 F+ g2 J. J- R" S3 c对赵氏表示理解的国家主席杨尚昆在会上指出,若让步将造成堤防溃决。邓小平表示宜下戒严令,并征求与会者的看法。以观察员身分出席的薄一波提议表决,结果李鹏和姚依林两票赞成,赵紫阳和胡启立两票反对,乔石弃权,邓小平的一票具有了决定权。 7 z) }) w! y. ~3 f' J& r0 r& b/ @6 q) P* ^* e1 @% t/ ^$ z- M
赵紫阳在会上突然表达辞意,薄一波和杨尚昆表示慰留。十八日上午,赵紫阳和李鹏等前往市内医院探望绝食学生后,赵回家写辞呈,但杨尚昆仍然慰留,拒绝收件。 7 f+ J' A/ n3 @% `! B# O) R& j+ [& s6 k* `) Z
赵紫阳在一九九一年对友人宗凤鸣指出,他的辞职是不想在历史上留下丑名。他的发言显示已看清楚戒严令势必造成动武。他后来在接受访问也承认,向访中的苏联共产党书记长戈巴契夫透露“邓氏是最高决定者”的党秘密决定是造成北京下戒严令的导火线。, L, S! f( M8 N3 t* Z
- |- L( J# `" l5 C+ ~/ T党秘密决定暴露后,知识份子和学生对邓小平的攻击一天比一天激烈,邓小平想必重新忆起文革时代挨红卫兵批斗的恶梦。毛泽东指出枪杆里出政权,邓小平也示意经由枪杆来保护政权。; ?! p2 r$ q* c6 l
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【トウ小平秘録】(24)第1部 天安門事件 趙紫陽の失脚 " y& ~! Q5 {. h$ h ) @) d0 o$ \0 P! o北京の戒厳令と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)失脚が事実上決まったのは1989年5月17日午後、北京中心部にあるトウ小平(しょうへい)氏宅で開かれた会議だった。「トウ小平年譜」は政治局常務委員会拡大会議とし、こう記している。1 T0 [7 R5 ?: d/ d* U9 F; t
# l: A6 H' {. u: O" @' P 「席上、多数が当面の情勢は極めて重大であり、決して譲歩できないと認識し、譲歩を主張する趙紫陽の意見に反対した。会議は北京の一部地区で戒厳令を実施することを決定した。トウ小平が講話を発表し、常務委員多数の意見を支持した」 + N: @# d6 i: j- ~- S( B R ]0 g$ \* R
文中の「譲歩」とは、学生運動を動乱と定義した4月26日の人民日報社説の撤回ないし修正を指す(以下のやりとりは各種資料による)。 ! P/ h. S) z8 p# |% m' T; J# M , ]7 v* r7 e7 X# I) w 会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。 f4 l8 i+ @/ ^5 \
0 O* u* t8 h: u1 W0 u; O* d
「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」 - c0 g* ]0 r3 s6 n , \& |' I& I1 d それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。. d/ h% l8 L5 Q( e- D
) l% u$ r" d2 j) A トウ氏が言う。0 \- k9 d0 `. Q: @5 e
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「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」 0 a; P: h- A. c 7 i5 D# [1 m# E, v7 ~; L 沈黙していた趙氏が発言する。8 G3 e1 h. `0 }& o$ K0 u a# `, X. ?
% j4 b8 _ ~* Q f R 「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」 Z7 ^* y, B/ j3 p! {1 E3 g `# D+ q; ^! h
「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。0 ~" ]% I. ?. I& A( G
% `/ b* d3 D. v1 B- I その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。 ) w8 E5 q6 Q( ?5 P 6 J, {, s. P6 I, S2 J トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。, Y/ H* B! P# Z! Z6 p' h
. q& d+ h) t" n8 g) B) }
オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。( Z1 s4 ]) u& |
" S. U% }( z; X& U
賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。, B- F S* r, N) z) O' J# x1 f/ n+ b$ m
/ A4 o+ B% ]4 c% w) [ 趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」( ~7 ^+ L8 e) `. m/ N' m
" z4 u6 w, |. G* X0 `7 K
薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。 2 x {9 @. s8 x7 X6 L- @0 G' @* R4 u) ?3 j5 _5 Z' D% v
趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。8 G7 {0 X+ ]* u
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3 s' o y* ^. K3 f. `& g$ B4 o
北京に戒厳令が敷かれた1989年5月21日、最高実力者のトウ小平氏を皮肉るプラカードを持って上海市内をデモする学生たち
邓小平秘录:民运人士拒撤退血腥镇压成定局 5 M& O5 g. _# }5 R' X中央社 ! S7 _& I, I) _6 l. H$ d+ N 9 k/ a, H& k& W5 c( g" {, q 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月下旬,中共当局企图武力镇压已迫近,当时避免流血的唯一方式是学生撤出天安门广场,但是要学生撤退困难,结果学生拒绝撤退,中共血腥镇压成为定局。 . l* x* R/ Z1 l8 x / M& t$ I/ \- L5 p$ K- C 「秘录」指出,五月中旬学生开始绝食后虽发展成为整个社会的运动,但参与运动的知识份子领导能力有限。二十日宣布戒严令后,大半知识份子主张应撤出广场,结果却未能如愿。 % \$ l$ [4 r! `' Z" V# n 9 A! g0 L3 \6 D3 Q 中国社会科学会历史研究所副研究员包遵信曾在天安门事件后为文指出,北京社会经济科学研究所副所长王军涛本有机会说服学生撤出广场,但负责广场总指挥的柴玲突然改变心意,拒绝月底撤出广场。柴玲的先生封从德则在「天安门之争」一书中指出,五月二十五日晚上开始的民运领袖会议,九成七对撤退投反对票,柴玲只是加以宣布。0 L1 F7 w( I& b
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在学运扮演军师角色的王军涛认为学生若不撤出广场,中共行使武力已是不可避免,开始着手学运遭镇压后,主要学生领袖逃往海外的准备。天安门血腥镇压后,王军涛、王丹和包遵信在国内逃亡,三人在十月底以前都被逮捕,但多数民运领袖逃到海外。 # b2 B: G" I4 B8 N$ k* x g+ M , C% ]; W. q; q& X5 W 中共当局在天安门事件后指出反革命暴动的黑色打手「三所一会」,包括中国经济体制改革研究所等三个研究所和一个学会,它们都被视为是赵紫阳的智囊团。「三所一会」直接的罪状是五月十九日晚上发表的声明,中共断定它们和鲍彤关系很深,后者泄露戒严令等情报造成学运对抗政府的行动。但是,鲍彤事后一贯否认这项指控。9 N) S' E3 `& {! y
1 G0 B8 o7 J+ p, l; S, [ 鲍彤于五月二十八日突然遭到逮捕,被送到北京市北部的政治犯监狱「秦城监狱」,这是邓小平等元老和李鹏总理等保守派决定武力镇压而进入具体性作战的一个信号。 " J$ t8 X1 ^# h9 I
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【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否 5 s# Q4 ?4 F9 x9 a8 B5 o8 s2 I$ Z8 m' c6 ~8 [" T, _6 Z$ x$ Y: v* K
■必至だった血の鎮圧 + ~5 C O! ]& M" N6 f, Q q: }- ]4 d+ g5 N- w$ b. [
「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。0 k- c% }6 y) L! l, F4 L4 H3 \
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5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。6 f% y% \9 y3 _) _8 x0 K
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5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。- Z/ i& u- e: r$ r6 T
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包氏「何とか学生たちを撤収させないと」 7 G! B$ V" [; v. J, C& Z6 l7 W. g5 d. R
王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」 4 ?& b: p. z0 h% [! |& s" d" c/ N
包氏「(撤収は)いつ?」9 D' Q0 J1 O1 I% E* R
% @7 M, q8 D4 ~( W. H: D6 J& J. n 王氏「今月末だ」% y. E. ]6 p: P# c6 N
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王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。 0 V! E$ e- l) v5 L- `1 t# Q8 Z. l
ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。 * l1 n+ D, @* {% B( A0 ]' [7 B. b/ p9 [( B( N
「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」 . b( |3 Y! @9 t, ~6 ] . t0 o& J) Z6 v- U 柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。( [; Y, M2 n. H1 A: r
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高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。* e8 c" n3 j' Q1 v/ K9 [5 X5 A* K- t
1 E5 C: \! {. z3 k- D: \6 U 王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。 " C6 I# W o6 v. N) N ; D p' {5 i8 w& {+ U 彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。5 }# _7 J9 |: n& s7 q) e
# g# H* A' Y. h& X9 D そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。 1 Z+ t) b/ |" m0 x& A/ p/ J3 }6 O2 p7 D6 Y+ D5 a
≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫ $ T3 W2 b% ^. ]$ K, F: ?/ D7 J% S# T7 Y3 q5 e/ w* M: N1 f, c
王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。 ' Y1 m, g4 f9 \' ~+ c; H3 i, X+ v" O; P
声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。0 _$ E) ?6 i/ j- S" {+ Z
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連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。$ d/ b/ C( t! g& }4 ]4 K
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この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。 ( _7 i) Q' D1 J) n- ~8 L! {6 F6 ~8 b2 P$ q% `
直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。5 k8 a+ f* g H/ D6 C
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3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。 ! f+ A- |5 `: H5 k( O ' c* z! J6 {" d 鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正)1 e7 ]% P7 z; r) @# N3 f
, X. `; G. m5 y1 b y ■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。# i, n% z8 U, b! Z: p
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●=杉の木が丹 5 D1 _% F/ Y! C6 Z+ G3 Z; ], V+ }7 U& n! a) j
(2007/03/14)
& Z# B. B. Q* \( G2 J 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」; L6 {7 |: [" C& Q' N- f k
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楊氏は最後にこう念を押した。 # k' M! N5 L( l7 n$ L( t- z0 E* s/ _% U
「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」* v9 x5 ~0 Y; @) M( ]
N" J. W+ _6 F( R 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。 + O- l A1 Y& f# W- T 0 ~1 u a4 D) v4 X+ i, k 3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。" }8 U% e1 C, v( E# L
2 U' e$ |0 L4 A- L 当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。 % Z% A: }9 k1 I; ? . @& R. p3 A* ], y そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。 % M" E: {+ k" a5 G , T2 i9 r. u u) z5 v% b 午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。3 p/ ^! e/ u5 E, c8 e
+ o4 w* D1 [+ P& ]+ u 支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。 * u" o- Y' Z ~0 W6 ?2 a # k7 z6 |% m& p3 p ~ 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」8 V1 ]& R4 C/ i/ J# |$ R3 q
" s) O2 U% p8 G8 _7 x3 Z% E% R3 Y 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。1 D6 m" M+ m1 V$ z: {7 N3 h+ {
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「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」 8 ?$ {5 j4 K$ X8 I! Z; Q / S$ c' g, E1 ~6 G6 n" J. k その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。 9 h/ N- N( c. m9 u. q/ c% j2 o3 T* ?( W
「これは本物の戦争だ」(伊藤正)& X3 J( a1 s6 v" n2 P9 v
s) V2 W$ q) b- f/ R
■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。 ) Q9 F' b: V) b. w9 R & S' B8 ]% e; r: y) ?( p; V' ^/ P(2007/03/16 ) 5 A& l, B8 ]1 X/ o# Y
2 P5 E% k! ?! x7 b* T 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。* `6 d/ j8 W- D
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しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。 ' K6 t8 Z3 N z. A) m& G/ e8 N" b( w. Z' N5 l6 U7 z
トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。 & H" D8 `2 k% j- y, ~ % U7 _# A: ]! j0 z) ?4 E 天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。0 o9 q( ^- B$ ?: ~) G" ?
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計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。' L. F- a' k+ S" d9 [
( k* b( U; W9 m その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。) v/ ]2 W4 Y( z/ A9 s" `% C
) L. Z9 S# D' n) m; c トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正) 3 Y3 p) b. |2 j 7 j# a! L( ?6 m■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。$ B. J6 P! o E8 J; Y
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【トウ小平秘録】(36)第2部「南巡講話」 瀬戸際の改革 8 X- f* o4 x. p2 r; S9 ]# V3 H" ^0 ~5 W* k e
1989年7月1日、米大統領特使スコウクロフト補佐官(肩書は当時、以下同)とイーグルバーガー国務次官は、極秘裏に北京入りし、翌2日、トウ小平(しょうへい)氏と会談、李鵬(りほう)首相らとも会った後、同日夕には帰途に就いた。 4 s! z! Y+ I9 J$ Y$ O: n/ Z0 S6 }7 ~! ?2 w0 E! d
軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。 + |7 m8 D, c4 F+ B+ J ) m! O- A; r, x: W 3 L: `% n0 O+ V$ M7 s米中関係の危機だった 0 f+ O& O# E3 ]0 ]' o( k5 j 9 r1 ?; |- b# R 前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。 b+ n. c4 L0 b9 C. Q 0 _) n2 j2 ?/ V V 「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」* G: G' D: z4 {6 V6 E
' v5 o: E- q% {8 i. |2 b 「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載) . v! J1 v: [, ^/ n5 }' ~0 j1 d" K5 x% [
天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。 ( w6 {! }$ n# X9 p9 F' A& B3 t" c / u" r, ~% I: v z 雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。! S, C7 Y8 H* n7 b2 i$ k C( x
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しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。 7 f- E' K; _# X& t* \6 G1 ]" Q + F5 R g$ C0 k4 K: C- A! D その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。. d+ c% ~, `. _& g# q; S& {
R; ]( G. U* C7 V2 C' i 米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。 $ L. m% v5 i- t * U$ n) H. m" N5 {" j 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。& E3 ]/ ^' Q" {4 L5 ~3 T6 ^" z
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米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。. Z! A( U" p: ^/ y T; I3 l c
( ?4 R: v5 i7 ~8 M* \ 79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。 / B+ t" L( a) s- t0 J/ C 8 p* T0 m! m o2 t 7 n/ X' i! E$ @1 i弾圧も正当化される8 K$ S1 q9 L# H! X' U Q
; c; w( ^& d/ L* R9 ?, L/ a 外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。0 w& j3 F; d0 h' U" B5 m1 s
! f% B0 H A9 G" Z# C 後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。! l5 ?/ [- l$ \! x) N/ }
! z) }1 }% m( d' G' u9 j+ R3 c+ A
理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。 * V$ E+ L2 `; E( |. v' B0 H3 a" H! s8 Y
「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。 6 a* n, z4 z+ v# n 8 M$ H/ J' x$ a% w; r そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。 # `5 M) ~& |! ^ B6 D : p' v2 x1 A0 ?, W3 P$ \ g4 N( L (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。 $ ?$ i% } V3 E+ i5 x/ k: l( Z. Y/ r( }
これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。$ c" t5 z9 n1 A2 g$ b. d7 _7 r
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理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。, ?9 \, Z0 R y$ {: {1 W
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天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正) & N' |# ~# I! b( z0 o0 n* V4 }( _. l
■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。 2 X2 X C3 T6 P0 w3 s6 b # |1 N& X" Z \! s. i; o! \' P+ ?7 B9 Y) G1 t% r, o
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天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時) * `) B: r! G6 K2 g# ~* H# n0 E, r u y4 u1 O* a
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1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した
7 [! ^# Q- I- s. T7 ? 当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。! K5 o' \, A0 [9 e, F$ ^
8 V& `7 v9 t+ Y" [; N) }8 B1 f( n 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。 $ U6 b, d, z. w. O; Q6 r' Q( s ( |) A( W# `2 _2 |: d スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。 : B9 a# a3 L- c% ]3 D: q' ^ j& E2 J R$ s C) y- F 銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。 2 w C0 [7 ? l/ Z# G 5 Z; ]& T% ?% N. s0 o 「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」) Z" D) M, h: l" Y% Q1 b6 `
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トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。9 R$ m) \1 {$ n( i" ?
$ `! s5 c4 V% N) _2 J トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。 L J' f( w' D5 g* g# z. r7 x+ t* s: _
トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。 ! C% L2 b0 Q/ \" s u* }1 N3 {' F9 Y8 D" U, K' w
「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」 3 |, o# l6 _. i3 @7 @$ s8 \1 P& x" G4 m+ n$ H
「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。5 S/ F+ ^# @) [3 |. q4 X- q) u1 v- u
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中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。 + L9 l. n7 S9 q' d4 l! M! {* c$ O) P! }9 T1 ]
「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」 * i4 X0 y( f3 l0 D8 K" C% E. A) O% G
トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。 " R# [1 F4 E; B7 D" @) x5 o0 |! J 3 d: X+ L$ M. g* { ≪3度密書を送った≫' n- x& Z& `/ U
! F; U m9 k) t$ e6 k 1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。 2 a4 L" g. Y; w( Z5 b# Y5 s8 h3 w. E2 C+ H4 `* e, v2 M" c( f! J
「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」+ L L4 k3 D0 W: S; Z. p
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関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。 $ c' i" Q u* }) r3 J6 A) _" E" a O
「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」9 D3 E# c! `, y# I* Y& ^( l$ j
3 l& K, z* |$ v, {1 `) q0 m9 o 大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。8 g! D# U+ x; ]+ H( d+ W0 i
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それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。 8 f. \- H) r# }" b( c7 B0 I5 H9 e% |9 Z' G0 z
この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。% v' ]# v3 E1 ^
6 v- c/ h0 N3 z5 W. m7 P% W/ J その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。 7 P7 x4 C, O- ~: s$ G; x5 z( f, v; E2 C5 D7 U' {) M! y8 d
「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」7 @9 b3 n. }5 K8 Z/ D
# o3 j5 w E1 l しかし、トウ氏にすれば新たな「鈴」が付けられたにすぎなかった。ソ連・東欧の変化が顕著になる中で、中国国内では強硬派が発言力を増す一方、米国も「ゴルバチョフのソ連」へ接近、米中関係の危機は続いた。(中国総局長 伊藤正) 1 ^% C) |' u6 t5 q/ G' e! x/ E + S4 d' W5 [ e% V* ` ●=深のさんずいを王へんに % t: E' F# P% j# y* u1 y- K. v2 I# s. p6 v$ f- F. N, P
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◇: C' m- G, ^4 z- G
3 [* H" v8 ]* L# t$ |& } v) s/ y【用語解説】アルシュ・サミット M. V6 w k% l2 M7 ]4 z+ u+ @ j0 f& T8 V
89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。$ `2 Z! c$ V* W9 U- f/ j! V+ f1 F