2 K/ s5 z1 ~- \8 Q, }9 J& ?, E- e2007年1月27日 2 d- g Y8 Q/ _" d9 R) v' S8 k, V! O6 E8 ^* }; H' i
自由亚洲电台特约记者南洲发自日本东京的报导/在中国总理温家宝将于4月访日之前,日本产经新闻将开始连载《邓小平秘录》中的第一部,6.4天安门事件时邓小平为什么对民众进行镇压的背景。 h) Q% ]% G ~6 C5 p* E9 o6 Y
, m* M4 o& O) s4 {( @/ D+ x4 l1月26日日本产经新闻发表<社告>,在2月14日开始在产经新闻上连载《邓小平秘录》。此书由产经新闻社中国总局长伊藤正为首由多名记者编辑参与写作的。书中的第一部是写在6.4天安门事件时邓小平为什么会对民众进行镇压。就当时的背景分6个部份进行了编写。 $ Y7 `- j1 F0 m) P* k2 @9 n- J. J) H* F8 K
为什么在此时产经新闻要连载《邓小平秘录》。 7 T4 \7 B, Y+ \, ]* } s8 a5 h X1 F" d, O2 T3 w/ {9 i
日本亚细亚大学法学部教师达希东日布向本台表示:′发表正好是在温家宝要访日之前,因为当时温家宝跟赵紫阳一同去天安门看望过当时的学生,很多报导认为温家宝是温和派,是反对镇的。产经新闻是要给温家宝压力呢?还是想让中国给六四平反?' 3 V8 P2 U+ u7 }. x* N% { 4 K9 b$ Q* g# k旅日作家、在产经新闻上发表过多篇文章的石平向本介绍说:′多年前产经就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。' ( C* |; P7 Q2 h) l4 a# d' ^* `" ^. b1 l1 G6 ~3 S9 F% T& y- B: F2 I ~, ?
与产经新闻有合作关系的日中通讯社社长原博文向本台表示:′《邓小平秘录》这本书是以6.4天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始,是独裁的政治家。现在连载主要是与温家宝要来日本访问有关系。在对历史问题的认识上中国人与日本人是有很大不同的。' 9 ^9 ]/ A& x o0 E3 ] : Q! ^5 z3 L5 ]3 a+ w$ }4 S) A------------------ 2 U0 i! @% b2 u5 f4 n) ]5 C: c; ^1 Q1 \7 M h
产经新闻将连载《邓小平秘录》; i7 g- ?0 n8 m
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(2007-01-29) ; G. j I6 d3 v$ a! s" Z& t0 c, t, m( y. i9 d9 X
(新加坡联合早报)曾于一九七四年连载《蒋介石秘录》的日本《产经新闻》,今年二月十四日起将开始连载《邓小平秘录》,并将在第一部中即探讨邓小平一九八九年「六四」决策的背景。由于中国国务院总理温家宝即将在四月间访日,《产经新闻》此举因此引起议论。 7 [, ~- H+ Z1 g) p, b, X3 ~% i7 x3 E3 w* b
据《自由亚洲电台》网页报导,日本《产经新闻》是在本月廿六日发表〈社告〉,称将在二月十四日开始连载《邓小平秘录》。不同于过去《蒋介石秘录》使用国民党大溪档案,此书的编写以产经新闻社中国总局长伊藤正为首,多名记者编辑参与写作。 % e6 \2 }! F9 @. I 2 t O: D( q2 w& }! X7 o5 q 对于《产经新闻》选择在此时发表《邓小平秘录》,旅日作家石平向本则表示:「多年前《产经》就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎,这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。」 ( z- Z9 K& T; @$ L9 i# p( w5 C$ ^) t `0 L- T# J, Z0 j5 t n
与《产经新闻》有合作关系的《日中通讯社》社长原博文表示:「《邓小平秘录》这本书是以六四天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始。现在连载主要是与温家宝要来日本有关系。在对历史的认识上,中国人与日本人是有很大不同的。」 , Q$ _ o9 ` c3 }* f% v' f5 ~7 E " r3 ^6 z! Y5 f, C/ Q- a; ~-------------------------- ) J9 _6 d5 a" {5 E0 \% v! j6 s / ]6 c. b x$ g6 ?4 O0 d1 i8 A/ W2 i日本产经新闻 ; E% w" r0 ?1 q7 K* ^7 v; s; R" ? 8 g2 u8 l; L/ r! O( r) X2 w【社告】「トウ小平秘録」 改革開放の実相 2月14日連載スタート 1 h) W. k1 d* t$ u, N4 I
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産経新聞の新たな長期連載「トウ小平秘録」が2月14日付からスタートします。 9 V M ]( M; ?# |+ Q T+ r$ y ; Z) @8 X. ~5 {. P) o2 q( h# j, @# G8 F 1兆663億ドル(昨年12月末現在)という世界一の外貨準備高を記録した中国。この経済発展の突破口を開いたのが、トウ小平氏(1904~97年)でした。今年は没後10年にあたります。 f1 \% L" r$ f& v) ~# Y! |- D' B) S4 t+ v$ }: u- q
毛沢東以来の中国共産党内における激しい権力抗争を生き抜き、事実上の最高指導者にのぼりつめたトウ氏の波瀾(はらん)万丈の生涯は、中国現代史そのものです。 5 [1 `4 H7 M2 C$ ? " n* {+ a3 G5 O+ X! R1 E8 T+ ^" D トウ氏は政治面で社会主義と中国共産党の指導性を強調する一方で、経済面では生産力増大を第一とする独特の理論を唱えました。文化大革命時代の失脚を経て権力を握り、改革・開放路線へと大きくかじを切った決断が中国の驚異的な成長をもたらしました。 8 e* X) l; H2 f5 S, d* W. a' P1 V0 p+ E
半面、膨張経済は都市(富裕層)と地方農村(貧困層)の格差拡大や環境汚染、さらには官僚の腐敗という矛盾の拡大を招いています。世界規模のエネルギー獲得戦略や急速な軍備拡張路線も気がかりです。こうした現代中国の実相を理解するには、トウ氏の足跡をたどる必要があります。 8 r Y& W5 C9 o' j y$ p- f }# |- N2 P
連載は伊藤正・中国総局長を中心に複数のスタッフが取材、執筆にあたります。第1部の「天安門事件」で、トウ氏がなぜ大衆を弾圧したのか、背景を掘り下げるのを皮切りに6部構成になる予定。ご期待ください。 ( @/ w7 }/ U' @5 t; Q' M2 N7 i7 t* Y0 K. y4 I# r$ V) Y, @: A
(2007/01/26 07:27)# o* Q! l8 G: ]/ E
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-15 11:39 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:48
日本媒体连载《秘录》 盛赞邓小平有远见 2007-02-15 8 `" \1 [3 ?6 A* k# L$ W) M. ~ - p& l" K' \, E9 w【星岛环球网】在邓小平逝世十周年(2月19日)来临之际,日本《产经新闻》从14日刊登《邓小平秘录》序言,揭开预定15日开始连载的这位中国已故领导人秘录的序幕,这家报社将把秘录分成六部分进行连载。 5 E4 }( j. V+ G# I ! ?; M" o8 p: l( s$ \ 香港《文汇报》报道,序言简述邓小平的生平指出,他从十六岁前往法国留学后未曾再踏进四川省广安的老家,家人之中,也只有三女邓榕在1989年才初次访问老家。邓小平讨厌个人崇拜,批评为出生地图利的作法。 - E5 B4 T- u1 c$ k, e" M6 q2 J; `& G/ G# v. P
文中盛赞邓小平富有远见,形容他是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等地设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的“一国两制”,成功恢复对香港的主权,并作为呼吁两岸统一的武器。 0 @& m+ {/ ~( Q( \! Z3 Q8 S9 M& I$ r! D# C2 E
邓小平离开人世将满十周年(2月19日),对于这位世纪伟人的十周年冥诞,邓小平三位女儿邓林、邓楠、邓榕透露,十周年当天,邓家众子女将在母亲卓琳带领下,用鲜花花瓣洒遍整个院子,以这种简单而独特的方式,来纪念邓小平。邓家的这种家祭方式从邓小平冥诞一周年时就开始了,至今已持续十年。 ; l+ U. b3 T2 E" z 3 E5 F3 u3 e' r' k 邓小平大女儿邓林说,父亲生前特别喜欢花草树木,无论家居京城还是外地,都会在院里院外栽满各式各样的花卉。在他晚年一直居住的院子里,更是常年鲜花盛开、草木繁茂。“而且,对任何花草树木他都喜欢,几乎没有什么偏爱。花开的时候,见到什么花都要上去闻一闻,乐在其中。” 4 J7 f3 H. L" Z4 s4 O
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邓林说:“父亲的每年忌日,母亲都会带着我们在院子里洒鲜花,为的就是让父亲闻着花香‘回家’看看……”她相信,虽然父亲离开她们已近十年,但只要一闻到花香,就会知道家里人在想他。 $ G6 j0 h$ _6 k' o# D6 a8 k5 a9 a, v; U" N0 d6 n
与邓小平一样沉默寡言的邓林透露,正因为父亲酷爱花草树木,从小就喜欢画画的她也深受影响,后来所形成的风格就是花鸟国画。她告诉记者,父亲去世后,她为父亲画了很多不同版本的国梅,“他喜欢梅花,更喜欢梅花的个性。所以每当我画梅花的时候,心里都会自然而然地想,这是为父亲画的。” # m( q8 k" e3 W1 j3 g! U" I
" v' O2 d& r+ Z! @. d7 {" C& }& J 邓小平次女邓楠如今已是中国科协党组书记,官居正部级。这位从小就是邓家“小管家”的女部长,对纪念父亲冥诞的方式有着自己独特的见解。她说:“忌日采用什么方式来纪念父亲并不重要,重要的是他一直活在我们心里,我们经常都会想起他。我们一直用心来纪念他,这就是最好的方式。” 3 m* e6 K3 s* `( x0 s+ I
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而邓小平晚年时候一直陪伴在他身边的小女儿邓榕(毛毛),如今提起父亲,思念之情依然溢满双眼。她说,她对父亲的怀念不会因为时间长了而减弱和变淡;“这种怀念是永恒的,化解不开的。爸爸离开我们已有十年了,但这种思绪随时随地还在伴随着我。今年是他离开我们十周年纪念日,我对他的怀念更浓烈。” # r6 L( A) ?6 @5 R. r 7 @8 r' I- E7 l$ {7 e& h 邓榕曾经这样描述自己对父亲的感情:“如果问我们生活中有哪一部分能够剥离出来跟父亲没关,我可以告诉你,没有,不可能!”作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:56
邓小平秘录:杨尚昆承认64事件犯下大错& X4 T5 n* U( O0 o
$ `, ]1 E' Y i( ^. e/ s" j日本产经新闻今天开始连载“邓小平秘录”,首先锁定一九八九年六月震惊全世界的“天安门事件”。文中指出,邓小平至死未对武力镇压一事留下反省或悔恨之词,但是,当年参与开枪命令的现职国家主席杨尚昆则在生前表示反省之意,承认共产党犯下最严重错误,早晚必须加以纠正。/ j& e! s; K3 m# v, \ Z
. R- |8 D8 u. w( r! s9 c9 y文中指出,二零零四年二月,暴露中国在前一年隐瞒国内发生的严重急性呼吸道症候群(SARS)的军方医院医生蒋彦永致函给温家宝总理等人,要求重新评价天安门事件,信中提到的新事实引起瞩目。" _$ I n8 {8 A" U: u
5 [; U% H& R5 C! h8 R2 X& ?' Z( E报导指出,天安门事件发生当时,参与开枪命令的国家主席杨尚昆在一九九八年死去以前,曾向蒋彦永说道,党(在天安门事件的武力镇压)犯上历史上最严重的错误,早晚必须加以纠正。杨尚昆表示反省之意似在一九九六年左右。 " X* e" U' B7 R8 h5 q0 X8 c/ c$ U4 V5 m; I! _' e5 [
当年学生运动领袖之一的吾尔开希(事件后逃出中国)曾向产经指出,邓小平的长男邓朴方曾为避免流血事件而行动。北京在一九八九年五月二十日发布戒严令之后很快地,邓朴方担任主席的“中国残障者联合会”有四名职员前往天安门广场访问学生运动指挥总部,指出邓朴方为避免流血,希望和学生对话,要求派遣学生领袖出面。 3 O$ W. Z. x9 e( w2 x5 l 4 k- x& `+ P' J3 \7 y5 E# c“联合会”一名职员被留下来作为人质,吾尔开希本人则在一名学生的陪同下前往“中国残障者联合会”。应对的“联合会”干部向吾尔开希表示,政府势必动武,若想避免流血,将安排和主席的会面。吾尔开希是由于邓朴方表示想见学生领袖才出面,这名干部的发言与此有违,结果他未和邓朴方见面而离去。 ) L, a: P% h' J( g# \5 ~8 f' t+ j: X c
吾尔开希表示,邓朴方派遣职员向学生运动总部转达的意见应是真的,但很快地改变主意。他猜测邓朴方是判断流血已不可避免。邓朴方虽未曾作何表示,但或许已知道他父亲的坚定决意。 6 [8 H: l+ Q5 J- Z9 P7 ?! n |: B1 D$ k6 Q, T, ]
文中指出,一九八九年六月三日晚上至四日凌晨,中国戒严部队对学生和市民开枪,造成三百人以上死亡的事件震惊全球,中国领导阶层完全孤立,改革开放停顿,中国陷于混乱和分裂的危机,这也是在武力镇压扮演中心角色的邓小平的危机。 ' v- }' U1 q9 ] t8 {( J- F" l7 n' S6 C$ H) R* R9 ?
中国后来的发展使得事件后的政权都肯定邓小平当年的决断,至今中国国内除公式的见解外,不准谈天安门事件,要求对该事件重新评价的人士都被置于严厉的监视下,当年支持学生运动而被解职的前党总书记遭软禁至死。一名中国老记者被引述指出,事件遭全面封锁是由于政权内部有看法认为大量杀害人民是作得过火。 7 X& T4 L3 G. R8 l. i: n6 s! C( {3 u
文中指出,天安门事件后,中国虽经济发展,但为贫富悬殊和腐败的蔓延等严重的矛盾而头痛,该事件是政治改革受挫的主因之一,胡锦涛政权背负着邓小平留下来的正反两面的遗产。 $ H% E/ Y" Z3 f5 E4 R. p+ l 9 v& P" e1 ~4 N中央社东京十五日专电 1 l. t0 e% G* Y/ N, ^9 h& p# n# ~1 t" @) ^& g
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【トウ小平秘録】第1部 天安門事件 格差と腐敗の中華振興* _7 |! w: }; Q7 r7 w6 v2 U/ c
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トウ小平(とうしょうへい)氏の死去から7年後の2004年、中国各地でトウ氏の生誕100周年を記念する行事が催され、大量の文章や映像が公開された。トウ氏の波乱に満ちた人生や人柄、思想について、さまざまな分野の関係者が証言し論じたが、決して触れられないことがあった。+ ~ _4 {/ E6 Q9 v& }: M5 k# J) ^
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武力鎮圧の残影 . K8 v$ y/ l8 b2 L3 B& _& ~6 S + K0 K9 ^' C8 O0 m6 V" Y9 W7 y/ t! J+ Q6 C/ e
その年、15周年を迎えた天安門事件である。5 l# r4 H, J# O; \
2 `8 q6 q2 X3 B, \/ @ 1989年6月3日夜から4日未明にかけ、戒厳部隊が学生、市民に発砲、300人以上の死者を出した事件は、世界に衝撃を与えた。中国指導部は完全に孤立、改革・開放は頓挫し中国は混乱と分裂の危機に陥るとみられていた。# z; I1 m. y" [) e$ q& O0 v
0 D" G; `' T+ U" q8 Q" L それは、武力鎮圧で中心的役割を演じたトウ氏の危機でもあった。 9 d9 J0 q& {! g( H3 D& f ; d$ Y8 e7 k! k! R1 z) G) } が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。 # B( |1 j$ L: q; [) ^ ! [: r8 z. y1 ?1 {6 f4 y 04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。9 H9 A! e* F' m) U( J
; c' [5 |) m+ m* @3 r5 \5 ^ 「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」 9 @( c9 B& @9 I* d+ y2 Q5 B v# [5 d
同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。" v: {; G) w& G$ a, i4 ]2 k
1 U. O; X- ~, A6 B$ v8 C 中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。# `' M8 |& q) v! M) T
" y$ ^/ c5 Q6 V" U$ k 天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。! s: v4 y; n; o. G# }2 Q1 x$ m
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なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。 8 a# U7 O5 t1 r6 m3 Y. F! f' s8 P& L; b1 t5 w
2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。 6 ]( b9 M" C) L+ `" T3 ?, \) p2 D' |
天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。/ J8 T% b2 d# p3 Q& X1 m
' z* w. ]# ?3 W 事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。( h6 c( |) y+ G0 E
# Z9 c" L& t5 l) [$ V/ P- y' k 同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。$ h* o" s* E) n# D& a
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職員1人が人質として残り、ウアルカイシ氏自身が学生1人を伴い身障者協会に赴いた。9 v3 A, I3 j: ]8 i* x( [. X
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応対した協会幹部は「武力行使は必至だ。流血を避けたいなら、主席との面会をセットする」と言った。樸方氏が会いたいというから来たのに話が違う。で、ウアルカイシ氏は樸方氏には会わずに辞去したという。 ; H+ S$ M1 n# n. o9 R/ ^ # ~: O* _- M3 \ w+ L ウアルカイシ氏は「樸方氏の協会職員らに託した意思は本物だったが、急に翻意した」とし、流血は不可避と判断したためではと推測する。樸方氏は何も語っていないが、父親の固い決意を知ったのかもしれない。, V3 S; A9 r# W5 |) @, X
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天安門事件における武力鎮圧は当時84歳のトウ氏の人生をかけた決断だった。「中華振興」の夢実現に、一党独裁下での経済建設が必要との確信に基づく。97年2月の死去まで、武力鎮圧への反省や悔恨を示す言葉は残していない。% w) @5 S+ j4 s5 b% T0 k$ h
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事件後、中国は経済発展の一方で、格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)など深刻な矛盾に悩む。事件で政治改革が頓挫したことも要因の一つだ。胡錦濤政権は、トウ氏の正反両面の遺産を背負っているのである。(中国総局長 伊藤正)5 I6 X" i8 W2 \: M2 j
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【用語解説】政治的風波 ; y$ b- |4 Q, e9 S' }! ]$ Z1 e) I9 F6 @! Z( b6 M9 ~% X. [8 I
天安門事件の中国当局側の呼称。事件後しばらく使われた「反革命暴乱」は国際的イメージが悪いため、90年代初めから、鎮圧が完了した日付をとった「六四(事件)」が一般的表現になり、当局側では「政治的風波」が定着した。「80年代末から90年代初めの政治的風波」は冷戦終結やソ連・東欧の社会主義崩壊という国際情勢の激変も加えた表現。4 S" a9 i3 [$ O) x
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(2007/02/15 08:03) , P- O$ t) x' h m, }: N5 c- ]
邓小平秘录:老邓听到胡耀邦去世猛抽烟 ; g. X& N4 T2 C9 _6 A: a! @ . d' W4 M0 F; _% ?1 X日本产经新闻今天连载「邓小平秘录」,报导一九八九年四月十五日胡耀邦由於心脏病发作去世,邓小平听到这项消息熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,但片刻后开始猛吸烟,想必他警戒的是民众对胡耀邦死亡的反应。 , N! t: a8 x; {- [" `8 ?3 i * S, s$ {, }6 z4 ?* H) D6 d6 \* S文中指出,今年一月十五日薄一波去世,他是曾在一九八九年天安门镇压事件采取强硬路线的八大元老最后死去的一位,他也是在一九八七年一月积极支持将当时担任党总书记的胡耀邦解任的一位。后者由於对一九八六年十二月安徽合肥学生民主化示威表示应放任无产阶级自由化而和保守派元老对上。 ( d- c" I a& `* y$ H4 B. A2 C U4 @ s; ?! ~! U4 s1 c# E
秘录指出,「亚洲周刊」曾报导,当时担任贵州书记的胡锦涛曾针对胡耀邦被解职一事对部下表示(处分)相当不公平。学生和知识份子很多人虽也都有相同的看法,但并未发生抗议事件,改革派的赵紫阳被选为胡耀邦的后任也是原因之一。) W+ x0 `' A J8 T
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胡耀邦去世消息传出后的十五日晚上,北大等部份大学贴出追悼胡耀邦的大字报,十六日,大字报扩大至二十所大学,批评元老政治的内容也增加,一般市民也开始追悼胡氏,十七日晚上,中国政法大学等学生在天安门广场的示威揭开各大学竞相组织示威并扩大规模,由追悼胡耀邦而转为攻击保守派。3 M6 V9 D, E% `0 I6 h
; o- z" W% X! [( Q" J胡耀邦的突然去世带给中共领导阶层冲击,据「中国六四真相」报导指出,赵紫阳总书记接获中央办公室主任温家宝的报告后召开政治局紧急会议,决定讣文内容和葬礼程序并於午后报告邓小平,邓氏由於已接获报告而显得相当平静,但政治秘书王家瑞事后透露,当邓小平得知胡耀邦去世的消息后熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,片刻后开始猛吸烟。/ {% t; O+ g6 Y4 `7 }3 r
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邓小平针对胡耀邦的去世同意赵紫阳报告提议将胡氏定位为党卓越的领导者,对由於主张「无产阶级自由化」而被迫下台的胡耀邦来说是异例的待遇,邓小平对胡耀邦去世保持戒心的想必是「民众的反应」。% X r! c" ?, F3 D# b1 ]/ t
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一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。 , `& Y# J, J. ^$ ?( N! P% B. E/ t* w1 X9 B4 ]$ I1 e( j
一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。 # Y( F! d% s9 i. N# @3 F) s# G+ p9 Q8 F# _
【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死2 Y" U, \* J* A
, X& Y) Y6 _6 W T3 _/ K6 @今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。 5 U5 C0 E6 _3 F2 @" z' T: E Q" h# H6 c7 H- D" _猛然とたばこを吸った/ `+ M+ q: R) E$ f/ z
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天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。0 f4 }6 d2 ~- U7 [5 F: g* W
/ r0 p. h& O; f: S, A7 A; R 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。 0 v' T3 l5 A. l# ~! W. C* f) B& Y* o7 P9 `& h4 h
当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。+ n0 B/ G0 j7 w3 w
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そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。 & A2 b6 T4 x8 ~" x$ N8 A- ^ ' x6 b' Y9 W& d, m5 r 89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。; Q# ?, o& v: r2 V
4 v' v9 `5 G1 F0 f5 C 予感通りに事態は展開していく。: G6 D" B' \* |
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訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。8 G6 s# ^& R% }
3 w+ T% E2 a, ~. F そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。: k% I1 V* r3 o
5 j$ H5 V/ q, y5 v- |* ]9 j 胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。, R2 o. p4 ~0 w. K f5 C
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「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」 - b* L( D% r$ P4 m 5 k5 K5 L+ q! G m# p" F 胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。 . ~+ d* t! v4 f% d4 D ' f) {5 `& d( ^( {, K+ d( p5 N 胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。; R7 {( [- B! z! T. a) Y N6 w( r" Y
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半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。 & r" j+ `: x0 W5 C' L/ [% t8 @) X+ C# H9 e* k- r! q5 \. q
むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。& X7 p9 g1 H% T6 {
+ w9 c# ~# m0 y( T; V; `! W 「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。1 ]) y) r# g$ `, T
2 G4 G4 e$ Y6 K4 N/ T; q" s8 u( [! c 天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。% q9 m, x! f I
8 q0 n1 C, x @9 x9 s* P さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。 1 @7 g+ I! h) b; n2 \+ {. S8 ?* A: q/ S2 ? U
その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。$ M0 c, ?% |5 u
/ C% @3 S2 T4 A5 R& A2 a: L$ X (中国総局長 伊藤正)1 `- ?2 D7 x4 J3 p* m; f
* \% w r5 W% H' R# Y◇ % [0 } v6 l! R i7 m7 B& n 9 j H' j% ^: d【用語解説】8大長老 $ W$ N( A7 M2 Q7 w% a' o. a# v2 V" H + n- O1 y9 [; w# i# h+ Q6 E トウ小平・中央軍事委員会主席▽陳雲・中央顧問委員会主任▽楊尚昆・国家主席▽薄一波・中央顧委副主任▽彭真・前全人代常務委員長▽李先念・全国政治協商会議主席▽王震・国家副主席▽トウ穎超・前全国政治協商会議主席(周恩来元首相夫人)-の8人。いずれも革命第1世代の共産党幹部で、党内で大きな発言力をもっていた(肩書きは89年6月当時)" W1 S* ]0 I* R0 D+ W) w
( P2 E6 E S8 I(2007/02/16 07:48)* W+ K$ e/ ~/ i" B
: g1 Y+ J5 }7 ? トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。9 I. g5 ~. y% y* T' S
- h' t. Q5 z; H$ Y9 X& A 天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。 a9 ]; b8 @0 b7 j 4 M) V+ p( Z5 r" N" ^3 H B それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。 5 J. u2 `, f- K$ M " c& q, c5 z; Z/ a. ]/ W 中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。 1 N. S) `1 F% w8 ~/ R# ^8 F) o2 t+ g. \
中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。" X* v9 Z3 K* U& h1 V
( A* o% i7 |6 |; I# u# W7 G5 i これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。" ^+ l3 D$ k7 J/ E* M
$ l" m7 [! ?% E6 P S中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) 1 {& n9 p( z* B/ K- s
◇ ( u3 w5 f! i |9 j n' M0 m4 ]【用語解説】文化大革命2 I4 } ~/ m1 n# Y. `- I7 E
《邓小平秘录》背后的秘辛9 s. ]4 o& o7 W2 ^
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日右翼报纸《产经新闻》将从本月14日起连载长篇评传《邓小平秘录》,并从近一个月前就打出广告,在周知海内外“粉丝”、吸引方方面面目光的同时,自然也引起了北京的高度关注。8 _# j0 Q Y1 g$ Z' o
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日前,中国驻日使馆已发出非正式照会,并邀请相关记者,就内容安排等问题,非正式性地交换了意见;尤其是对于有关“天安门事件”的内容,表达了恐对4月温总理访日造成负面影响的担忧。- D) r h2 z, r3 x
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对此,评传的主要撰稿人、《产经新闻》中国总局局长伊藤正说:“恰逢邓小平去世10周年之际,检阅其人给中国和世界带来的影响乃策划之初衷,与温总理的访日无关。天安门事件,无论对邓个人还是中国来说,均是带有历史意味,并且与其后的经济腾飞等变化有关联的重大事件,所以将其作为开卷第一章的标题。” + k9 r3 P8 W& l8 @- \+ v; f3 s ; K- A: J8 c8 j! R/ E4 F+ d伊藤正(Tadashi Ito),著名政治记者、纪实文学作家,是日本公认的大众传媒知华派,以《30年后的林彪事件》、《天安门事件再思考》等重量级著作名世。此番担纲邓传的采访、写作,自然备受瞩目。' S5 c6 C5 V* ~1 O+ U% t. @
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邓小平,在日本是超级名人,是日文Windows系统中为数不多的只消键入日语罗马字拼写(Toushouhei),无需转换就能自动出现的“固有名词”之一。日人历来少慕虚名,推崇实力人物:1978年10月,第三次复出的邓公以副总理身份访问日本,出席《中日和平友好条约》“批准书”交换仪式。这位中国政坛的传奇人物,被当成中国政治的“执牛耳者”,受到了国家元首级的礼遇。事实上,邓公的访日,也间接促成了中国当代史上意义最为深远的转折:不到两个月后,十一届三中全会在京开幕,在清算“凡是派”,确立以邓为核心的新权威主义体制的同时,打出了“拨乱反正、改革开放”的政治路线,开始了一场已经吞噬掉整整一代人,至今难以望见出口的、被称为“改革”的惊天伟业。在日人眼里,在毛时代空前惨烈的政治斗争中被打倒,苟活而终于胜出——邓三上三下的经历本身,就是一部“波澜万丈”的中国当代史。更为重要的是,曾被邓两次以非常手段拉动的史上最大规模的经济改革,已然结出了起飞的硕果。然而,这个超过一万亿外汇储备的、正在“崛起”中的大国,既给日本带来“中国特需”的实惠,也正在成为日本的恐惧之源是不言而喻的——面对如此文化上令人怀旧,政治制度迥异的大块头邻国,日本总难掩复杂的表情。 , B8 ^' c e8 X- c$ ^; }0 Q2 y$ W( y9 C0 L8 d
此番连载的栏目,是《产经新闻》晨刊的看家金牌栏目,在主流社会拥有众多的读者和广泛的影响力,历史上连载的《蒋介石秘录》、《毛泽东秘录》等力作,无一不曾成为斯时的重要话题。正是其当仁不让的影响力及《产经新闻》本身的反华右翼倾向,成为中共当局提心吊胆的由头。虽说是在言论自由的民主国家,但可以想象,对传主的盖棺定论之“厚道”与否,无疑会对日本到底是“好孩子”,还是“坏孩子”的评价发生微妙的影响。作者: 日月光 时间: 2007-2-18 10:52
邓小平秘录:搜集反党证据展开新反右派斗争8 f H* {$ I0 A, T2 W
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: |$ E4 J% ^. y 日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」报导指出,邓小平认为专制手段的必要性,并经由搜集反党活动的证据而认为反右派斗争有其必要。& ?0 N* W1 k; _( o; A# k$ ^) Q, [. p" F
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文中指出,邓小平在一九八六年十二月三十日向当时的党总书记胡耀邦和总理赵紫阳等六名中共党领导人物指出,必要时非采取专制手段不可,这项谈话宛如邓小平针对一九八九年天安门事件决定武力镇压的状况而言。 % l) k! i1 A- L0 X$ S1 a% D6 L8 C: x6 q& c+ B6 l) M# E. O3 {; V
报导说,邓小平是针对中共领导阶层对安徽合肥学生示威的处理态度软弱加以批评,胡耀邦于一九八七年一月遭解职,方励之、王若望和刘宾雁三人遭开除党籍,当时包括方励之等三人在内,有约五十五万名右派份子遭迫害,斗争的指挥者是邓小平。: \% i. B; E5 S$ J
$ N, n( e6 h; \) e 一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。 . r* Y" h4 _, k: ^( h _ Q! h. L4 Z4 \ 根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。3 a% F3 U" h7 y u& V
* {+ j; ~3 K7 z% @' H! \9 M トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。1 k. {7 R8 M1 L% H
; b' z# [. P# i 党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。 ( C9 ?1 Y0 w5 N2 D% l1 w I& z, @, j4 Q" K& m
トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。$ N" y3 q, I6 H6 D5 }" W
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その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。 ( I1 a3 W: c+ s$ M. [5 x4 x8 ~, a% l% r+ C$ s' J& _
≪長老たちは引退せよ≫ + }2 i- S* [! v9 K! {0 l7 d0 C! i; n! @9 j0 D
胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。 " m5 K! h& F. [2 n b7 \, R9 [2 O) e. t6 d
トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。) Q% b+ R4 r2 J6 M4 u- ?! R8 I& p: C6 \
/ h3 R" U7 s" ^( z 「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」+ H3 O" C+ U3 K- { g' n
- Y6 O7 v1 U' _ 趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。 + H% N& r2 X* @ ?6 I7 G& C# H9 G' Z" i L6 I
「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」): K4 o# t# u* b9 s6 C9 Z: x! v
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13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。 ^9 p) D& m* K7 e
# Y2 n" m \0 G1 \+ u9 h; @ 新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。4 w$ r, n E% a) |/ h& Y6 v1 ]
) s# ^) z$ Z) N! E; M 「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。/ v$ h7 d7 ~* s& U( y
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これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。 # w, k3 x' t; t3 B$ r7 B! M) N3 z8 b; L ~ h @/ }8 U
「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」 - O8 M5 z5 l. [6 i- A 2 v2 }$ E- A( T S" B トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。9 I4 y* z; y# l2 v- H
邓小平改变了整个世界/ w6 z8 ~" t2 j' S
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英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》 s8 S8 Q2 {& B* C2 L2 s: w
上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。! \& F! s4 c! r n) X/ ]5 \+ c
" ?; |) z( b% R" s" O/ H 不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 / ]/ r3 p& o; c! L1 W+ z : I9 v& K; j! ?0 h8 | 她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 " m! u; u6 C9 ^8 b3 G# b) ]% W
8 b; m N: N: Y5 {. F2 J( Z. K6 A邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” ) R* I' |+ H. j; ?. H
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生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 2 }. u" Y0 t$ p# A# Y% a) j: J6 G7 @' J! W
邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 ' I& Q- _ L+ s
8 G `& ~3 Q" T, ~. C7 y9 ` 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 " z. p. A2 X" s7 c$ Y5 H7 \! d/ x G. V6 c" M
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” * l' Y9 h! `" p( a+ Q; k 6 E4 b& [$ u, ` 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 4 U5 K" q) I3 h+ `2 h/ a) u ) j" b" X0 |) y2 Y 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 % ] F& m$ x ] 0 _6 z# _2 m$ h; C" c& U& w 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” - K9 h7 F1 e- U. Z9 a, Q/ w, _( P% c7 |! B! }
' Q, \$ b& t( {2 N1 R2 L+ | 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 ) N, @2 k) u$ w; j d4 o F) Z0 V0 l5 b$ s
在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 7 G z% p/ s# }1 F
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邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 * `' ?3 ~. d6 M5 ^: J! ~ 8 Y# L4 m& N/ t2 @% u. U1 o$ D 9 C; S( b2 g3 k K" P# t) ?" G - X3 q7 L4 d& U/ p* S0 h- LChina honours man who reshaped world - \; r# O) n/ v3 g0 ^5 l! WWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. : n* t) Q4 _# z. r$ d
& d' e; [1 [ j" L1 B& X, }
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. ' M/ i+ |! _# G$ p- b" Y* L 2 x6 N" A: X3 B N- u( MBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. + y S- U8 D' G0 Y
& Z7 k2 J s: f9 d3 K" t: jHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. ; _% o7 y2 j8 x- ?& J0 R7 S& p+ @ ; j" u L5 r4 |# K“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” ) t1 E- u" K6 g& ~2 K$ H. K4 `' B% a6 |- i+ L' h4 {+ X
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 3 A/ v" x8 k6 w" S 6 Y3 e2 ]( x4 }; x# ~Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 9 {* D7 ?1 I& d! @8 x$ O k* l
' H4 \+ W: X0 b* [9 [8 q+ i+ aShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” ' d+ j- P- ] l2 Y. R" q& \ & R7 Y# X9 Q. HNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. ! m4 q, `4 R: E. |8 ?3 y: q7 T, I* h5 r8 d& E0 Q# Q& r
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. ) O9 X" Y2 @; G* e0 o
- A2 d; r! y' m; {" _
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 5 |/ X! @ @6 T; Y0 A. `( v; n+ R- H2 _' a
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 2 `* F; W% p' K6 R4 Q2 c/ o9 A( ?
& m+ w; F0 a8 X# o+ yMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” % R* F7 b9 H" X4 U' P t8 B& o
5 s9 V- r8 ?9 y2 @0 c3 Y: j, EMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. % @: `3 `+ T& [& A- V / v* Z7 h# q, Z" U5 ^ S7 x6 H9 `But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. . ^ |4 m# }& t6 a# x" l5 ^$ C2 t% ~9 e* q; H; ?* U
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” . I3 Z# U/ u: _% Q; e9 g8 ?' }
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Long road to riches % B* y) i5 A1 Y# a, @( c$ L- N6 f8 M' Z6 P2 E2 i
Now . ?8 G+ Z& c8 c8 z( Z' r' S+ B% u$ f) h9 B5 N8 x$ V7 ]! M
Population in cities: 550 million 5 [8 s+ W9 l( L r: | 0 \: P. k0 s! @. T' W8 Y4 rGross domestic product: $10 trillion * i+ V5 s/ E# i" p2 ?3 B
5 _+ n9 [* `; Q3 s; x* `5 v. f; A
Oil consumption: 6.5 million barrels a day u6 L1 F, O& ^- \) w# z$ r7 g6 }2 ~ " F; R' P9 J; f6 ^Exports: $954 billion 2 y# r% U" ~; [6 a8 j9 ^ - }' c7 N8 E* J2 ^Population below the poverty line: 130 million " W9 i: ]7 ]; C/ _) z, r1 B+ e0 H! m* P# i: R
Ten years ago + j: f% W3 Q8 D1 {5 L 6 H' T/ b: T/ I% [Population in cities: 370 million : X9 l, g1 g1 Q- Z, K; [* G 3 t! ]) H$ ]* q& ^2 k+ MGross domestic product: $4 trillion 5 E& r" ~2 h% H4 A- C0 g9 }/ p . S# R! o+ C W) x7 SOil consumption: 3.9 million barrels a day * }0 G; R8 ]' s# B% L2 R1 j * ^; V* v1 ^7 C9 S UExports: $182 billion / ]# u* z% v0 F9 o2 ?9 j& W 6 w. |2 f3 {9 ^" ~6 ePopulation below the poverty line: 120 million 4 j5 W) D$ X4 J- \7 v: U% m- r* J/ L$ H
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies1 t5 @& p4 g& h% }% e
改革风波造成赵紫阳地位动摇 ! ~* U. b8 l) ~0 p4 n, o D9 D5 D! V7 O$ _$ W
(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。; K4 O( p' m5 M" g
% u) \" N# s+ ]0 |
文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。9 L1 E) V, `: A
当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。1 ?- m0 ?) W w9 L& y. {
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“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。 d% Z+ O% Y( u
8 O0 _, J3 I& a) Y赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。 " T9 {7 W( w) X: L. B( T p2 |! Z5 w) Z5 I
“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。% h/ r; @& [3 k+ M8 J
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【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点. R7 A) y6 q) Y0 {/ e4 `/ ~( x, z) {
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1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。 1 K& F) [. c# v" a+ G8 J/ H; {2 w2 c. [: o
「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話) E' I" {4 ~% r) ]0 X 4 t* y$ j9 l; {/ U0 Y 「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で)8 O7 k! M2 l! V G2 m8 z9 O
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「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に)1 }& ~* B' v0 T+ f& H% V4 e+ m
U+ g4 U+ Z4 y' ?( H( j ]* w( y 価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。# A r5 u. X+ P. J- O. H
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それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。- x6 `. A8 [9 K& H' j3 }1 W
2 M1 A( d9 L, q: `) n U 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。& d3 n: C. c- y" p! O4 M
3 C4 s7 M5 Q7 N3 k/ G" d' F' {1 ]" r3 _$ W 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。 . F( ?# x# i T$ j ; }5 c1 M: |( M. o0 V- n& v+ A 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」" g( u/ |0 h1 b8 G" D
2 w# z8 l1 U, l6 p" @ 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 x2 _ U$ ` w# s5 I2 l4 e, q) S3 V$ r
88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。3 w& w2 G9 K1 w% M6 J
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「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」 ; ~8 e5 f5 j$ j$ _( i3 s , V. v$ {( @+ {* i) H7 n7 w2 T 10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。 . E" A* B' \2 R$ u y3 r 2 a, ]' H5 ]0 c) G3 y 「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。7 p ~) K/ n2 o$ R3 W9 R
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改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。 9 k9 g9 H0 `# A, M! H K 8 q9 W3 G8 r9 h1 k8 P+ @) f ≪空白の2カ月半に何が≫ ' { P( L* A0 ~& \& o7 L 0 z' F4 S& F% ^0 U$ }) e6 U6 o- ` 「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。3 h3 K& q( }. g$ p! f
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この間に何があったのか。0 M% J: Z C! ?9 y: g5 y$ m
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トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。9 z! {0 X |/ M" H* W$ @$ G
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趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。( A* Q/ X% P; O
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新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。+ x x$ L' q9 v# w7 O
5 _6 a# s8 i* C% O- J 学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい) 0 V; }. v2 a: \: J4 m- j! T' r; m5 h! C
トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。6 n- C- x3 p. k/ Y7 u) v% x, Q; R7 h
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このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正) 0 k3 o7 W% {3 N0 i 6 I- J- [- J1 ^' n, t; Z5 g ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。 7 ?, q0 R" D3 L - Q( M/ v, H. w9 A1 K' K(2007/02/23 07:54)
( K( e& y2 R m3 |9 `! _4 ` 这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。4 B* ~+ K$ \7 n, ^ X8 u/ |0 d
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由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 & K6 K- L/ P( _) \6 v
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2 Q0 _) v, D8 r; d- _# X2 P& G【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件 " Z! N$ Z+ m+ @# c7 F: `3 `" D$ z2 b2 B
■下心ある者を警戒せよ2 ]7 }6 D+ d& i- L) G0 c3 n/ e& Q6 U
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異変は、新華門事件から始まった。 J) U# U# B: V/ R z
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1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。 ; k9 A* u9 E9 {' R + d U9 G. H& G$ D6 v. O' t それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。" x6 K) M7 u0 q$ z/ |
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いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。 " [. u8 l4 h% r7 y! ]! {) s* _% k/ o: c% B! s9 M( Y
どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。- H" |1 e x4 c3 v2 e% Y' k
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当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。- g9 s/ g/ l& L3 E
, a/ O& A% w8 u9 [* @
楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。 4 R0 x) w" y5 @$ Z$ n ) r5 M) ~& ^, I まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。 h) n# r, u" z) `6 w " V7 l2 x( D1 @! ~) r8 ^, g 党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。 ( y' j& r, \9 b) D% p. Q4 W* A" R( {" B" v) G
89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。 4 K: q0 M+ j& f% F) A$ i& O/ b5 k! K8 n: z' V5 z7 \2 D
4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。 / H: E0 k( d) |$ {( V- f& `% T3 r8 @0 O. N, c$ v9 A5 z
4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。 ( ^: `/ c7 l4 ]9 A9 r4 p' j $ ~/ n5 \# L& t: h0 J* i# ^, c; [! P この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。 7 Y& ~5 X8 K. G4 F+ \' Z: p 1 Q! b4 `4 v) C 「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。: S0 |5 E1 b1 {( @" g# a J
' Y4 ?, \# f+ ^- A 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。9 B o _" y% y# V
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全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。8 e/ w2 P2 s+ Y/ I
9 Q7 P; Q/ c# `0 a B" s(中央社记者张芳明东京二十八日专电)日本产经新闻今天在连载中的“邓小平秘录”报导,赵紫阳对一九八九年天安门事件前学生运动的看法和保守派形成对立,他认为学运发展有利自己夺回实权,未料到保守派对学运采取强硬对策,他的误算造成了后来自己的下台。 k! @& s! n. Z! T$ L8 Q * X0 S# f- q* g3 }文中引述张良编著的“中国六四真相”指出,一九八九年四月二十二日胡耀邦的追悼大会结束后,赵紫阳总书记在人民大会堂和邓小平站着谈话,他表示将于次日访问北韩,询问邓氏的指示,后者要他好好向金日成问候。 # B1 R% y9 y+ |6 q" b4 F# t赵紫阳随后指出,已向政治局提出三项建议,追悼会结束后要断然阻止学生示威,严惩破坏行为,以及对学生主要以指导为主进行各层次对话,邓小平表示同意。赵氏接着表示,访问北韩期间,党中央事务交给李鹏总理负责向邓氏提出报告。 / V; k. v5 f. G0 }( B 4 q$ R! }6 p! |随后,李鹏问赵紫阳是否在出访前夕的二十二日下午召开政治局会议,一旁的北京市党书记李锡铭也指出,党中央有必要作出明确决定,赶快阻止学生示威运动的发展。赵紫阳回答表示,已无时间,学生示威问题应无须召开政治局会议,并指出他已向邓小平说明三项对策并获得同意。! l3 P( j7 X+ X- _
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赵紫阳对李鹏等重覆三项对策,并加上一句,强调无论如何必须避免流血事件,一旁的国家主席杨尚昆表示赞成赵紫阳的意见。李鹏表示赞成赵紫阳的三项意见,并指出若有重大情况会随时通报。表示没有时间召开会议的赵紫阳却于二十三日下午启程前往北韩之前,前往北京郊外的高球场打球。+ y9 V* C Z5 V9 V
" ^- V6 F3 F0 Y赵氏在天安门事件后的六月二十三日召开的党十三届中央委员会第四次大会针对李鹏指控他容忍放纵学生示威辩解指出,学生要求拥护宪法、推动民主及反对腐败等与党和政府的主张基本上一致,学生的热情贵重,社会各界的支持很高,他个人认为要平息骚动有必要回应学生的声音。 - x% r2 k; B' ]. Q1 n7 d& d& |: U, e( Y
“秘录”指出,在针对学生示威运动是采取“无产阶级自由化”份子用来颠覆社会主义政权阴谋的看法抑或是学生只是为改革开放造成社会矛盾提出异议的看法,赵紫阳是立于后者的观点,和一九八七年一月被解职的胡耀邦是同一立场。7 Z# G; l, h" C4 B4 u
_8 p' o0 \5 ~' K渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。 # v/ ?% @2 j2 D% z& W+ \ ) ]0 Y+ U. H7 r- p% E“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。+ ?. X' S' J6 c, d6 \& A3 R
8 {! a$ W( A4 v0 g赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。; c+ E, W: N* B, o
8 L" j4 J* R0 ^9 b3 a- |【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択 $ M8 X t: o4 l' k; @1 J" `& w2 W! ^! ` M
見通しが甘かった " g4 A9 A& w6 @& i( Z- Q+ v3 X$ R A2 [+ J+ w
「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」8 x6 P0 R' @) D$ V8 y# l: L0 s
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天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。8 z5 W1 J0 S4 h; H1 H5 K
" Z" ^" B9 w U5 t t4 B, C/ b1 H% c 「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。 W! D" ~% T) G a( K( P
7 t) K3 ]0 H/ w. d! c" k 数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。 + i; `0 I5 P. Y! P' d+ |+ N f* W3 x q' y8 h0 l2 V8 h0 Y
「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」* r5 [# f. c7 z& l0 ]7 A
: j1 r4 W' f0 H1 x/ v 李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。 6 v" [, P! y% m$ m! ~7 n9 o ; ~4 ^" m0 U j4 L I/ v! i 趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正) r& m3 Z! j& h) g \
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■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。 & f6 C8 B+ _7 V: I. E/ I2 ]) V; T' i+ y. j* L. e
●=くさかんむりに内; i- S' P4 J9 [& \* K) }
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(2007/02/28 ) ) t5 Z0 c- \0 Q# H! e$ P8 g. o1 V 2 U. d$ \- X9 w9 W, T4 q$ f* e& j- a
+ J8 Y+ H' U ~/ d ' C7 P2 b ]4 b) E6 w天安門事件3カ月前の1989年3月16日、北京市郊外でタイのチャチャイ首相(左=当時)とゴルフを楽しむ趙紫陽氏
# Y( o. R- |! U8 U( E, e8 u造成问题的是“中国社会科学院”前政治研究所所长严家其和“光明日报”记者戴晴等发言批评党在一九八七年一月解除胡耀邦的职务,要求恢复胡氏的名誉。上海市党宣传部在特刊发行前一天下午获知内容,当时的市党书记江泽民指示将问题部份删除,但钦本立拒绝,上海市决定禁止这份周刊发行,但已印好的一部份则已对外发送,江泽民于人民日报问题社论同一天的二十六日将钦本立解职。9 n! |0 m2 Z( s
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江泽民由于这项表现赢得邓小平等元老的信赖,是使得他在天安门事件后被提拔为党总书记的重要理由,但是,这项事件也引起知识份子和媒体界人士的强烈反弹。严家其等三十三名知识份子和北京的媒体界人士数百人连署对上海市党委的抗议文于二十八日发表,知识份子的危机感和学生要求报导自由结合在一起。 : J+ F" D! r C2 s8 X 7 B$ Z) u1 q. k$ H M' F中共党中央意图以人民日报的社论和世界经济导报事件来收拾学运,未料反而造成事态的扩大,对邓小平来说是一大误算。赵紫阳在二零零零年接受新华社记者访问时指出,在一九八九年五月十七日决定发布戒严令和他本人事实上下台的政治局常委会会议上,邓小平向李鹏表示,不要再度出现造成他发动戒严令的事态。4 W- e( r% m$ W
9 C# i! K' `/ g0 `! M* q人民日报刊出问题社论后的情势令元老们感到不安,前全人代常务委员长彭真电话指示党中央办公室(当时的主任是温家宝),要求党中央自制,不要扩大矛盾。中共当局于二十八日改变态度,同意和学生对话,但是,二十九日,国务院发言人袁木的作法对学生造成刺激,因为获准参加对话的四十五名学生之中,有四十三名是与政府息息相通的官派学生会的成员。2 O* u4 {- @( U. b4 Y. K. _
: Z# ?+ y) P) Y- [' H8 R' u正当李鹏等保守派被迫处于守势之际,赵紫阳结束了访问北韩之行于四月三十日返回北京,揭开了保守派和改革派激烈斗争的序幕。5 X* W6 D5 I" j% U0 `! t$ t
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【トウ小平秘録】(18)第1部 天安門事件 発行禁止# m# g( i! A! B/ h
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故胡耀邦氏に対する学生の追悼活動を「動乱」と決めつけた人民日報社説(1989年4月26日)は、学生側の反発を招き、27日の数万人の大デモになった。デモを取材した記者たちは学生たちの掲げたスローガンに戸惑う。「共産党を擁護せよ」「社会主義を守ろう」が前面に出ていたからだ。: N+ O& J: H! D! ]# d7 U
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これは、自分たちの活動は腐敗や不正をただし、民主的政治と法制の確立を求めているのであって、反体制運動ではないと訴え、「反党・反社会主義の陰謀」とした社説の逆手を取る高等戦術だった。そのスローガンは、ノンポリ学生の動員と一般市民の共鳴を得るのである。$ C8 \% X# U' g& K" b
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後に「反革命陰謀の黒い手先」とされた独立系改革派シンクタンク「北京社会経済科学研究所」の中心メンバーだった王軍濤(おうぐんとう)氏(天安門事件後、懲役13年)は2004年に刊行された「浴火重生」(明鏡出版社)への寄稿文で、こう回想している。 7 n! y' a& A9 b- e, P3 H& ~! R3 E% d N8 }
「当局側が強硬措置に出、政治的粛清になった86年のデモのときと同じ事態は防止しなければならないと思っていた。胡氏追悼デモには、直接関与を避けていたが、27日のデモの前、北京大の学生リーダーから求められ、アドバイスした」: l! `. g! `/ @& B9 l0 r0 p! ^
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王氏は「運動の秩序を保持して鎮圧を避ける」必要を指摘、「スローガンに注意し、ピケ隊を設けデモ行進の秩序を守るよう」忠告したという。それを機に王氏ら研究所のメンバーは学生運動に対し、「観察」から「支援」へと転じていく。 6 V) K- B/ H9 \ u7 K: p: l3 M: T" g+ o
その背景には、上海の週刊紙「世界経済導報」弾圧事件があった。) W- \' s$ l) R) D1 ?/ t N' M
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老ジャーナリスト、欽本立(きんほんりつ)氏(故人)が総編集長(社長)を務めていた同紙は、当時最も進歩的な新聞として知られ、北京の中心部にあった支局には、改革派知識人や外国人記者が自由に出入りしていた。北京社会経済科学研究所との交流も深かった。 # W0 h2 d' S( G6 }- }/ W, X 1 N5 \* F- B% }- f0 S 同紙は、4月24日付紙面で胡耀邦氏追悼の特集を企画、その柱として19日に月刊誌「新観察」と共催で、胡耀邦氏追悼の座談会を開いた。著名な知識人20人以上のほか、胡氏の長男、胡徳平(ことくへい)氏(現党中央統一戦線工作部副部長)も参加して故人をしのんだ。 v. v4 X; g4 a/ U! F1 m6 D
0 f8 [4 s+ O( y9 L! k+ ?: n! s Q 問題になったのは、中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏や「光明日報」紙の戴晴(たいせい)記者らが、87年1月の胡氏解任決定を批判、名誉回復を要求する発言をしたことだった。 & G4 v' q7 E0 H. M5 F1 b # ^/ z3 R9 [9 K, @2 S0 Y それを上海市党宣伝部は23日午後、校正刷りで知る。陳至立(ちんしりつ)宣伝部長(現国務委員)から報告を受けた江沢民(こうたくみん)同市党書記(前国家主席)は、宣伝担当の曾慶紅(そうけいこう)副書記(現政治局常務委員)に、問題部分を削除させるよう指示する。3 F, u* `# o2 |+ x! q' s1 R
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しかし、欽本立氏は拒否する。輪転機が回る中で、やりとりが続いた末、市側は24日付同紙の発行禁止を決定したが、既に一部は発送済みだった。江沢民書記が欽総編集長を解任したのは、人民日報の強硬社説と同じ4月26日だった。 8 F L- U) m: c; r# V5 h0 V9 @0 b+ E0 O% E" ], d1 r7 w! n3 C
この事件は、江沢民氏が天安門事件後に総書記に抜擢(ばってき)される重要な理由になる。トウ小平氏ら長老が解任した胡耀邦氏の名誉回復を決然と拒否する措置を取ったとして信頼を得るのである。" Y/ ~: s/ v9 F6 d) i) a
* N: b) i M5 J! M; ] しかし欽氏解任当時はそうではなかった。知識人とジャーナリストの強い反発を招いたのだ。厳家其氏ら知識人33人、北京のジャーナリスト数百人がそれぞれ署名した上海市党委あての抗議文が28日に発表される。 2 x! Y+ h5 t. J. ^/ y( ]+ d# }; q; ~8 W6 [. Y
そうした知識人層の危機感は、追悼デモ報道に不満だった学生たちの「報道の自由」要求と結びついていく。人民日報社説も世界経済導報事件も、事態を収拾する意図に反し拡大させてしまったのだった。 8 l+ U! T% o2 J( K$ n7 p i% O+ P* t8 s& \+ E
それはトウ小平氏にとって大きな誤算だったに違いない。 6 v j/ J; Z! f; r1 g8 b 1 q' X* s( D. E o 趙紫陽氏が2000年5月に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者に語ったところによると、戒厳令発令と趙氏の事実上の失脚が決まった89年5月17日の政治局常務委員会で、トウ氏は李鵬首相にこう話したという(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。. \% _4 U; Z, w/ p- I& s# R: B
& s0 y {5 j4 j 「わしに戒厳令を発動させるようなことは、二度とするなよ」, ^& b$ S( m# [' C) i, I
6 r1 O+ k7 J: U1 ~; a 人民日報社説後の情勢は、長老たちをも動揺させた。趙氏によると、彭真(ほうしん)・前全国人民代表大会常務委員長は党中央弁公庁(主任は温家宝現首相)に、「党中央は自制し、矛盾を拡大することはするな」と電話したという。0 F" }, T- U4 t% l' y( _) O* \" Z
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当局側は28日、学生との対話に応じる姿勢に転じる。しかし29日に袁木(えんぼく)国務院スポークスマンが行った対話は、デモの主体となった学生側を刺激しただけだった。参加した45人の学生中、43人は政府の息がかかった官製学生会のメンバーだったからだ(陸超祺(りくちょうき))著「六四内部日記」) . y, V3 J1 s W, M' _; | - p' k8 {5 h# p4 ~( m& K' t% { 李鵬首相ら保守派が守勢に追い込まれる中で、趙紫陽氏が北朝鮮訪問を終え、4月30日、北京に帰着する。そこから激闘のドラマが始まる。(伊藤正)! E. L- E: d1 Z
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" R7 ^% i( A/ I/ u【用語解説】世界経済導報) e) @' [4 v) w! p* ]% e1 \
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上海社会科学院世界経済研究所が中心になり1980年に創刊したタブロイド判の週刊紙。当初は経済専門紙だったが、欽本立氏が総編集長になった85年ごろから、政治改革主張を強め、中国の知識人層や海外メディアが最も重視する新聞になった。88年の平均発行部数は18万部。天安門事件後、「上海における動乱の拠点」と非難され廃刊。, }) |7 L% `' @1 g9 M* v' M; D# r
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(2007/03/03)
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口* E& v8 c; w4 X- A& h
中央社 ( R( n7 x6 | b9 i' W ( {6 b- Z6 n$ z* B/ s/ g( E 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。 V( K9 a, d7 p1 a& W5 c" p. d/ U1 A/ F( Z
「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。 ; _1 K" a/ L' M( n) Z2 T, W+ b' q% {$ n6 ?
「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。) U1 K w2 @2 r
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王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。' _, p; I+ {+ z3 g+ y" J
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但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。 2 F- d3 G. R& m; d) w b& x2 T7 t; ~& ? }; ]6 [- ?6 } 王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。. j8 p9 e \% q' ^( s
! _ f/ m/ L# C" A9 G 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。 ( [ n" T9 N& U# c. ^) F) k/ \0 o9 ?, `9 m
就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。/ m7 k& Q; [4 ?: p& a9 f
, z5 J& M( \5 m/ S 邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。 , z1 i5 g; l ?5 h, j' a ) i7 O: [$ [4 O( i j 对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。1 S/ B2 l) q' L
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学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。 5 n* I9 f' R L9 j% o- l- O" {, s3 o8 L0 a9 O% f
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【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言 ! z* V3 ~* ? r/ X' q5 d, P: L( Z/ ~( ~* v
■急進派が押し切った# b0 S; W5 q8 u! b
6 P- T5 V o3 c! \- v0 b' | 1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。( E; l+ c( p. q- O9 a4 ^
- a7 ~$ x1 Y: N! {. D6 t ~0 p 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。0 m$ F2 x) I: w' T$ C, J8 `+ B4 f
" R+ P- D1 k; }& u" ]2 k 同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。8 i9 o+ m. U) E- s' P
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しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。$ i" N$ b4 Y6 ]4 ?% [- O7 H& n; s
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絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。0 ]# M4 N1 q, D. D
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それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。0 A# m) F$ B8 ^% h1 l2 j
' {: G7 F6 V m, E& ] 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。+ H3 ^4 F$ n- q
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王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。2 E* A* q+ L; A
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在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。6 q, y e) j* p8 @4 g$ E
+ M( k' J6 E, r: _1 R/ `8 ?9 G 李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。 0 o) \; {! N% y& |" e/ T/ ? # P* x; X$ }5 G2 \) \ 14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。 . }4 z9 r, w+ ]% x: D B1 e0 h! z4 |$ C6 Y5 {7 a- U
政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。( `' G- }0 \/ K. v& E4 p
7 _& C) |* m% W2 n$ T A; y 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。+ X x, u L7 e4 `5 @
( v! j" ] h: n: H7 ` それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。 3 V0 z* f" Q0 c4 n' s/ O \- J8 ~" E2 P; n/ l0 y5 k2 b6 k% x
趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 4 t+ h' t( ]: l8 C$ @( X- M' M9 x* U3 _: O5 s
14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。 # Y5 o: M; Z1 I) W: D7 S* h; o; b9 C% v3 P: M5 Y
絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正)! K! R2 m9 q6 H8 E7 W8 @
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●=彫の周が丹2 z6 g2 i# a' W! L& x
# ~6 F+ p9 a9 A
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【用語解説】中国社会科学院! @6 ~' `" U( T+ B6 ^+ d; r
6 e+ \' R0 }: z" t3 A 中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。 , ?% b1 A. U+ |( h0 F0 ^ 0 l* |" c1 ^% o5 q(2007/03/07 )
& c; }. `$ u6 |! J p k# X 宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。: z$ F) i4 b+ n8 T$ s3 N# a6 X- l- A7 M
7 }- n* B) C H. i( j5 E x+ i ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。. x; k6 n$ y3 |: ?' ?6 B6 M
) C C2 ~) K# b" p 「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」 4 H3 F5 _. V" A" k) W. N% A# @, Q6 g* U! M% B) U
重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。 ( t3 h U0 J: [8 g' L! T6 r 8 s+ W2 j& {3 f! I1 F6 ? 趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。 u1 z' M* G( L
1 v6 @5 n9 z; L( h: g 「席上、多数が当面の情勢は極めて重大であり、決して譲歩できないと認識し、譲歩を主張する趙紫陽の意見に反対した。会議は北京の一部地区で戒厳令を実施することを決定した。トウ小平が講話を発表し、常務委員多数の意見を支持した」1 M: J L$ {% T# [1 d
) D6 T/ T) `# V3 Q/ u" p
文中の「譲歩」とは、学生運動を動乱と定義した4月26日の人民日報社説の撤回ないし修正を指す(以下のやりとりは各種資料による)。 ' s" |6 `- M, A6 v( i 0 @; T4 K, y$ @% `2 A/ d3 L 会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。 * H4 b% f2 q. I W - V" L+ @4 P4 A 「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」0 S. _/ G4 \8 Y- z6 F' ?
( J. J5 k! U' g# s9 @) r それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。 2 J8 }% j; U K- a8 B" y" d, i& L& G' H t) V8 ~3 {- n
トウ氏が言う。& [# v# _5 t8 u* i$ J9 [- b
/ x) t. Z6 c4 \5 H9 o$ Y 「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」 9 R3 K% D3 [' ]* i+ Y & h' K; u9 S5 U 沈黙していた趙氏が発言する。 3 i" L5 g( t9 U* B/ a$ ~ ! c7 o7 ~$ C# ?& L 「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」$ \ x: ?0 L+ m- G# K+ c$ L0 e
2 D5 ^, D5 ^) S$ ?, v 「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。1 V. z% n, F$ z9 _/ t0 @
' M/ g E# q* I2 N8 Y2 H. Z その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。% }, ]' u' \, Q& L. M& ]- c) d, v
" g7 o. @# Q8 g! e, H トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。- j" Y4 f+ L# o- R( B
9 z0 b; q d+ y! j/ B1 [3 g
オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。 0 L& a8 Y+ k* x" t. l & ^/ O6 }3 B' Y g 賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。 1 D0 @6 j) N, F" u: v# r , Q/ _5 g; a3 H* Z, }7 j6 J 趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」# T" z' N5 |' Y W' R! l. V
5 W0 N8 {! n& o' N. V3 b
薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。 9 B$ y. \1 E; y( }5 f Z- z) p1 B1 E$ T' h, N" p
趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。! p8 e# B+ o, o3 K" Q3 a
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趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。 1 \. [& G& _! B( {- D 1 ^! D) l' y1 y1 J h% a4 `& E( j 「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」% u5 }+ g I$ \9 `$ y
# k5 e. @( m m# @! C
戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。( F2 O+ E, r( X6 t
* q4 ? n8 w5 h, A
さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。 1 k3 `& X9 n- P% L! L ( a0 @. J7 Y; |1 Y5 o 権力者の通弊として、トウ氏も自分の評判には神経質だった。趙氏によると、84年10月の建国35周年に、行進する人々の掲げる「小平、ニーハオ(ご機嫌よう)!」のスローガンを見て、トウ氏は非常に喜んだという。トウ氏の人気絶頂期だった。: S, T9 _5 t8 {8 P' {
: X. B6 i( w* p) F, z: e
秘密決議暴露後、トウ氏攻撃が始まり、日々激しさを増す。特に17日昼に発表された知識人グループの「5・17宣言」は強烈だった。中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏が起草した宣言はこう述べている。 / a! M* z) w- w1 v9 k; h0 Z 8 ~( n2 r' [- Y4 v2 T 「清朝滅亡から76年、中国にはまだ皇帝の肩書のない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる。趙紫陽総書記は昨日午後、中国のすべての重大決定は、この独裁者を経なければならないと公表した。老人政治は終わらせねばならない。独裁者は引退せよ」' y0 S, ~, N( R* d6 {# W! C" U( O
4 E" K+ d- G# f! r
トウ氏には文革中に紅衛兵につるし上げられた悪夢がよみがえったに違いない。趙氏によると、文革で身体障害者になったトウ氏愛息のトウ樸方(とうぼくほう)氏は「われわれは外出できない。学生にミンチにされる」と話していたという(「中国改革年代的政治闘争」)。6 ]7 E5 g5 X n' N2 U
0 j0 w6 W# d6 ?0 I; Y 「政権は銃口から生まる」(毛沢東)7 o. W% a+ V8 L
! l1 V0 C% G5 R8 |: r, R 政権を守るのも銃口であることをトウ氏は示そうとしていた。(伊藤正)( T& U8 _3 s4 F) {8 H0 K2 J$ b
9 x/ u# M6 n+ g( s8 J+ h1 b◇0 N) I5 h% h. \" U p7 _
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【用語解説】政治局常務委員会 $ F% c3 H* X7 {% i, i) V9 F4 `- t" s8 g0 k1 g
中国共産党中央政治局のトップ5人(現在は9人)で構成する最高指導機関(筆頭は総書記)。拡大会議は正規メンバー以外の指導者も参加する会議をいう。「トウ小平年譜」は89年5月17日のトウ氏宅での会議を政治局常務委拡大会議としているが、これは参加資格のないトウ氏が戒厳令決定を主導したためとみられる。87年の党中央委決議により、楊尚昆、薄一波両氏は常務委にオブザーバー参加できた。/ {. ] d! D8 b: \/ V. K
) a2 u0 v2 D5 t! y% m6 c5 C
(2007/03/09 ) + K; G G q) w u6 H3 N% C( ^. s) S! U' H6 Q+ @5 u' D- U! A
8 L, G( X9 I, M% A
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6 G2 P3 O3 U5 W. X" d9 B
3 [" p) o! X2 X8 w5 t- F4 U ! t l. J3 U# Q1 s9 ?; v/ K; }, ~* E6 d3 ^7 @( _" L
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北京に戒厳令が敷かれた1989年5月21日、最高実力者のトウ小平氏を皮肉るプラカードを持って上海市内をデモする学生たち
邓小平秘录:邓南巡讲话 警告保守派9 O0 ^/ [% g9 ^6 }* r
) u6 A1 {% q6 H0 z! q9 t% D: `
日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,已故中共领导人邓小平于一九九二年初的南方视察,名义上虽是休息,实则是经过深思熟虑的一项行动,而南巡讲话的主要目的是对抗拒改革的保守派提出警告。 ! { ?/ g7 f9 f$ J% m( ]" v" l7 n3 \7 H9 B" t+ F
报导指出,邓小平于一九九二年一月九日进入深圳,采访此行的中国媒体指出,由邓小平的谈话可看出他的广东之行是有备而来,是对北京、中国全境乃至全世界的发话。 1 i- O$ U* K& R1 t" @( ~) [4 T" [" h- t
邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。 - p! L3 h3 p z2 }7 H1 @" R/ i C$ e0 n$ }9 U0 g( a/ H b
报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 % |- V. f5 u# j) I C6 ?) j. Z 0 H. R& q: e' X0 U0 R- Z( v【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告5 S+ Q' n+ h6 v f2 I
( K* K. i: W3 j0 {2 [1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。 + x8 J8 l" K3 @/ m7 |4 \+ b/ _# B
手法は毛沢東に似る ) `5 v* W& t/ e; V 4 L+ s: [* x: _+ c5 l( T- B8 u しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。 8 i' q% c& s- M" P. s0 ?7 G- q3 ?9 g0 X& A. P/ \9 C9 n7 C( ?- l
「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」 * e) {( P* U0 s0 ` u& p: A/ Q, o( Z" O8 }, f* s
牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。8 d: o* E- W8 E' |3 L9 f
5 t+ z/ D8 D/ S1 t$ O; l( t8 S8 x
陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。 6 Y- f) E2 c/ m0 Z" T; ]3 w4 W8 B7 T% h% m8 @/ x
講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。; c; o- Q, o! j* u
! v: E! A4 b) |- O! g6 X7 x トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。6 q+ S( G5 y* y/ D; x: F
7 y4 \- ?# k v$ A
このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。7 g! c ^( e& m6 |) O o) }4 Q6 ]' z
7 p$ I2 x! x! H# @2 ], B 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。 ' ^9 B. q, z: z7 O6 [# [" L: H$ ~2 \3 G+ u
毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。 - _! {' @0 J! G4 Y7 c+ B& _' E% d" w# |5 N" F; s6 _
林彪事件である。 9 y( H, G" B$ U X) _& g% l7 b; _- C+ l1 ]8 r3 ^
s5 g' P4 t8 L6 [. E% U! g1 Y$ u
冒険せず何もできぬ. ]9 c. S6 R9 J/ J
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トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。 0 x5 Q& H- u3 ]& p( K" {. D* m$ ?+ n3 j- K! U- M
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。 ( Q0 Z9 Z$ U) U8 l/ a. j; f5 b4 p8 F& M/ g3 L
トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。3 Q' m4 H2 Y W/ j% Y- j: I/ m
: [3 B, b4 N1 n- x 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。) k$ A2 b1 s# i% k" u
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トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 e, [" f) c: j& ?- @ & N$ ?3 P0 z* Z: s トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。9 J- O% p! `" ^! _6 w* C1 _
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劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 u/ C- }* Z8 S, l6 ?7 ~* b7 A
3 A7 v% q' o2 ] 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。6 E* j1 r* M! l5 Q" M7 t; N8 v
2 M1 L" q9 g: Y$ y. S& F. H5 V
しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。* k" r% V6 c0 R9 P( P2 O2 t K9 ]
# B5 p1 s5 H! s3 y, h3 z トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。 ) n. a+ t, r; @" U; m, d' @* C( V5 a1 ]6 M. J) F7 B! V
それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正)% Y5 Q; @( R- m0 B$ N! B
a# u6 g `/ r3 m+ [6 A
■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 0 m. V* S5 [1 q" W5 a0 E$ W6 l3 H% G& G& v K& o
1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。3 m) S7 W# B0 x
6 c3 a) q1 S& Q1 }( V8 y; ^7 i+ I- W 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。0 ~/ k8 U# r0 S6 ]. T
1 M' V- b$ e: Y! r$ S/ u
本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。 # \3 \7 s- u& v7 O% ]& F4 g u$ g- ]2 g' E7 f
しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。; [0 c( ]7 H& X1 [- D
5 P: F7 h. [( f7 O8 W
6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。 3 d) Z) q E K1 s$ w1 ?9 ?* U2 ?& P9 [2 N5 K* U. Y4 |' _: C
私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。$ ^- S" p5 d; o
! P& E1 C1 |" h1989年7月1日、米大統領特使スコウクロフト補佐官(肩書は当時、以下同)とイーグルバーガー国務次官は、極秘裏に北京入りし、翌2日、トウ小平(しょうへい)氏と会談、李鵬(りほう)首相らとも会った後、同日夕には帰途に就いた。 ! t4 V5 a8 L. H' K o5 H+ P3 m3 G" q) R 軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。, y, S. b7 T% w/ x, N
: C) T; ]5 p& R4 C5 R 8 J' D, G' t) _. c3 R& F0 v米中関係の危機だった 4 Z8 [; ~- _5 x& C 1 W8 _3 D3 C6 @ 前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。9 C+ X3 I9 P! F) z' G( F- ~, L
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「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」 $ S$ c( x7 R9 w/ p* U$ W- J- t v4 s6 s. @( S5 ?: d. W7 N 「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載); v5 L S1 p' T- b5 E6 i+ i$ S
7 Q U) l1 H+ f6 J) X4 Q- T! R* q, x
天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。 4 v' e s" W1 q6 h$ w* U" N& C
雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。 R9 i: m( F8 ~ 8 u, s4 W$ K3 A" G# \ しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。& Z8 _* w: d% t, {$ x
, \" ]2 ^4 Z6 H8 p' o9 F+ ]+ v6 i
その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。 " R- w a% S' g! j! ]! | v+ g {, j' H. B& E w
米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。- x! `9 f: t3 q+ E
# h f8 ^& R9 V3 E2 U1 q" a7 t6 }7 s 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。 3 M* H0 i v) m) o7 I 2 W' d* g5 ~+ T- C 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。* \& G6 b1 b5 _9 Z# p
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79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。( H! R7 S9 Z8 r% c% M" v8 g
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弾圧も正当化される* [# Z: s9 T+ a8 z D w" B
q! w" x! P3 c) x# @9 i
外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。( z* u) L. Q( c& |
+ O+ a$ _' X/ }) O$ C7 j 後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。, t1 x8 ]/ |# H+ A" ~) O* X
7 W1 O. d! K6 z- z' F$ V6 S2 n
理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。2 @# ]8 q8 B% S+ V
2 i) n# U! M4 K R5 e( s: i5 _" P) h3 l
「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。 ! Z0 m$ |0 s6 O! |& X9 ^ ! x# [# E/ j( \6 ?! B% i- X そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。 , [" x7 S- B% m+ z+ C' ?4 b ' p/ p8 t0 J& D, P2 x) j7 n (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。 * a. I0 q8 q9 b2 d' n4 E, q; {! E3 G& I
これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。' a( Z( L. z4 V. m
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理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。 3 H( v% z' w2 Z. V+ ~ M J+ c' c0 v# L 天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正)2 T0 Z+ l. f6 X3 {4 P) |9 H
, j/ \& H+ w) `■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。 7 b* G; i" |/ q! K/ R6 X. t% X ( O" z% A7 N8 {3 L/ c 0 D; h) I, h. `●=深のさんずいを王へんに, O1 \4 A4 y$ X( P" @
2 R8 y* o' G0 [( n天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時) * |& d/ t; h5 [) y; g1 W* F. U2 d5 p, b$ V( B4 u7 g) |' A- C( N
: T2 e' ]" D; z. j4 n: M1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した