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【用語解説】魏京生事件* V) `4 ^! `( J5 e: d
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1978年秋、北京市西単を舞台にした民主運動の旗手、魏京生氏が79年3月に逮捕され、後に反革命扇動罪などで懲役15年の判決を受けた事件。壁新聞による極左攻撃が主流で、トウ小平派を援護したが、トウ氏が権力を握った後、魏氏は「毛沢東と同じ血にまみれた独裁者」と批判、トウ氏の怒りを買った。魏氏の逮捕で運動は下火になり、壁新聞もその後禁じられた。% l" F% V* W) B }+ C) l' M
邓小平秘录:搜集反党证据展开新反右派斗争 + ]: W/ V! A4 n( r3 m ! j7 X+ h+ [' u " P2 o' p `$ @ 日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」报导指出,邓小平认为专制手段的必要性,并经由搜集反党活动的证据而认为反右派斗争有其必要。& X# p- i# p& R. N% ?( Z v% R
9 c& u) J2 D3 ]0 j7 N7 s" e. \* ?2 f その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。5 _) C: m7 a) O
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天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。, [; e8 {# C) o, T3 l: a2 V& u0 t# s
4 H' o5 [; ]1 F 陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。$ f5 J, o/ I5 k/ a0 N) B! A
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「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」9 X; a: E5 r( J/ ?3 }' V$ r7 E# ]: t
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「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」 7 z& u* N: g3 m( e $ d4 r6 n) A3 u% U& {( \. K# F; { 「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」 % \" X: V5 u$ i5 Q/ A" e( S" s5 f
「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」 " v7 U S y" N% p 5 i# [% k5 y8 W6 y 言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。) ~6 M/ O P& l
' n- O5 I& \7 ?4 p1 a. I4 z それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。(伊藤正) . \7 e. ~3 {1 f: K$ ~5 K! j7 o. T6 Y. x7 N) I
■反右派闘争 56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。8 L' x6 X3 F, Y) e. a; I
/ V. {6 G5 N' h) y日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。. L! K, [" _. k7 A) j! A0 `9 t
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文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。9 Z8 ~ I8 l `
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文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。 ) ^0 M3 I1 B6 W2 J* _3 n+ V8 c+ E2 `- l D- P
拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。 . o8 a8 X$ Z( O0 u$ o3 a& B. F$ [# ~
胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。' l7 f/ n7 r3 h; C V# D% U' v$ C; w
$ a% E8 E% K: z0 k9 F 「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。% m/ H& | |) ]6 {/ h1 D5 Z
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根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社2 w& I# n9 G1 T' E4 j2 V5 e3 A
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【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ 7 Y0 f9 W! J+ W* w. p0 K/ V1 H; M1 Z3 V% r& J
中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。4 |3 ]$ m+ Z3 S* ?5 S0 }/ N
5 O4 m9 M$ X% {" u5 Y. d$ Q, v その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。 " i* U, a( t& }5 S) c* G$ U9 ]% U
国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。) t1 {8 V. i) e) g
1 u0 c' ~& G. M* N" L; ` 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。- ^& T/ G$ e8 Z; U: _( Z& o& V
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長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。) P% z7 x2 r/ o$ }
( T4 D* K; p) k {! @# k; u0 |# V ' v. a2 e9 L( W) s( H5 ? 根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。1 C" q6 e l( V W
/ B2 Y/ n+ W: e, s( P5 v- h 弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。( v2 h7 p0 k2 |9 C7 E I4 R
+ ^4 U( z' e: }9 t( W 胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。 4 D( B7 V5 p3 N- ?6 \9 \ 0 C5 ^/ {/ X6 m) [( T かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。 + X* P+ a8 J( c; v+ C9 H9 Z . \$ G8 m3 S# q- [3 O- ? 朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」2 b g! Z$ _ V" r. G! S/ `! H
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トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」 3 k1 Z3 D, N$ {9 n / C2 F4 \' ]. f* p3 T# s しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。: ~; D& e ]9 P+ R
+ [1 V2 R3 `3 d 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。 % @. f4 @) n0 S# F X7 W+ X" S2 c2 Q 「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」): f, A: { ^( y. G4 K4 t
B& g( M3 `+ v% B3 Q9 J 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。1 ^8 w0 J7 U9 D
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「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」' ?/ Y8 T" P, d/ ^8 W1 m
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それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。, S0 w* m/ P8 v8 ^' F. l3 b7 c) G
6 l6 ~9 A' Z/ x# w9 ^ 《ひっくり返った党人事》" z' Q5 y- ?' b' C+ ~( J5 t" q
1 d p' g3 i7 z) c0 h s 思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。 7 y3 q% {8 \5 ?9 }; S6 k e5 X* d; [* o Q5 }( a7 ^0 F 保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。 # o8 f9 ^+ [5 o+ M- K ( J9 E7 L! [' X7 A 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。 , R% n, `3 f$ l+ K: X8 l0 @' T! l. z
10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。: ]6 S4 h& m- C5 Y4 L4 g
4 c$ |2 ]- `3 \* Y5 [ 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 3 W: ?1 R' _7 B5 r$ B' v2 e7 O) N- c. Z. C2 }
その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。 ' R9 b3 y5 ~ _/ q* x6 a ( W- m& i' ]) [# _ a$ H 趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。 I. l0 O, G8 F( l+ {
( T- g! B1 W4 S a+ h このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。 ' y! b9 l3 H1 h5 C+ v! X6 j% m3 a; i. k; s9 o
陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正)2 \! J7 }9 B; w( Q/ C
! \! N1 F8 l/ K3 | ■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。8 Z' z) H, S, h
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■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。% g, N; |4 p t
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China honours man who reshaped world / b: ?0 w; B* w( A- y" rWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 5 }1 _5 H1 c# B3 s5 v0 R/ M" k: G, B2 y# j# s" B G
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. + |; k$ q% k! o1 C) |/ S, L ; j0 g" n1 R2 e( E$ j2 b% \; V$ \. ~" |But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. ) p# `9 ?% Y! {% M- Y& K5 O1 t' h& D! Q
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. " I+ x9 c/ V! r, B
5 @% ` N- k9 z9 J9 G4 A“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” ! I* s! ^7 V3 `/ i6 x8 L$ ?* W: m3 x0 d9 L$ j( L9 G6 z
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. / R0 K7 X& M/ c H% w A& ~, v
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Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. ' F( f1 o+ Y% g ]0 {# E4 q, m' R * d- `3 |. @; |3 Q2 G aShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” & G u; T: O _/ v) X3 v$ ~# U 2 K: x d5 B) O1 C- r9 ENicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 7 K: N D" ^7 n- u* ~& T, H3 K / S, l& k5 j- ADeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. # r E* M6 ~# B& c ! f6 X2 m: |% P- S! \David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 0 r' @9 m& h% C: y# ^! d9 c; I: r, N
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 6 e8 x2 ` Y! N/ h9 r6 n5 t7 [ _! | ; W( n% n B$ A7 u; h- u6 ZMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” . x( U( |3 i. Q8 j: B7 C# a * m( G; g% N& L. a3 H% D ?Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. , P* g4 C" k% K: x. f# i+ C4 B3 K4 |- K$ T! B& ^5 d
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. 7 Q# G2 E5 j& T. D3 H# I4 o
- @" [7 b$ l5 @* k x, g: `His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” $ H/ F5 H8 Z/ A$ ]0 y T" M; Z4 O' s A; b
Long road to riches2 [, o1 H7 Y0 Y4 t: } h/ B
& T: E8 P/ h6 q& m7 H: y- a4 c& A! |1 x
Now " R% U& {, a2 B
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Population in cities: 550 million ! q4 ~$ J* c8 U8 ?
) k2 T# ]0 |% S
Gross domestic product: $10 trillion 0 W7 R) m* K+ ?' r * w& n0 V5 U/ N0 m1 \! W$ eOil consumption: 6.5 million barrels a day . c9 L( i: V }% k! s
7 j2 U9 \) C! f; r1 Z. m$ wExports: $954 billion ; ]* A0 Q" L( V* A + u4 P7 X) I* W# |% I+ Z& q) kPopulation below the poverty line: 130 million / t& W, e& k$ R) l0 R 0 ?2 w: j; M+ j0 QTen years ago& ?! E8 S5 D' H- A/ y$ N
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Population in cities: 370 million " Z( u4 n% `9 s1 h' h; m! K
0 L; ?$ a# \+ ~Gross domestic product: $4 trillion # s$ k4 L# m6 m" ^
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Oil consumption: 3.9 million barrels a day 8 S* a$ y" Z( w" D/ u! \& S7 [4 \8 b3 w6 ]( ~ ?6 ?
Exports: $182 billion 4 W. o9 o/ V8 I) k' \% ]- b% R # `/ |: v; l5 s* |$ U9 LPopulation below the poverty line: 120 million 2 U0 K- r- ?8 v5 t2 @% A/ ^% d! ] 0 n) `( k1 w# Z9 F& aSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies - o( [! C v$ B9 Q4 V0 U, m9 h$ U' n- R' p' y+ W8 v5 B , B) g2 V" b" b5 x
“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。1 K: y; B' t+ f: B! ^$ c
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
* x2 P# h4 W( ?0 `* U【用語解説】北戴河会議* h' O' K# c- Z/ E @! c
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北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。 3 Z- Z B& K7 V! B8 T1 c, }1 Q8 q# }( j$ v" r8 a
●=彫の周が丹+ O5 V. W; \4 _7 S' m
9 X0 J9 M$ j$ ^& _( ]8 P5 ?文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。/ g2 w j7 F6 B& v; P0 @
当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。 + M0 J* K' m! \4 d; h7 r' ^6 K' w3 P6 f0 O% |, L8 s6 l1 R
“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。1 R& `: V3 o# Q$ E
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赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。# C! b' a0 k" h4 ?( K
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“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。& B. X: n% C+ `5 H: H9 A
4 H6 z+ I) k9 G: G1 U6 s, m【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点0 H+ G5 h4 W: {/ D. `. g
% S7 V7 X" m- s: l' F3 t& d1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。 % l* h9 c9 X- Y4 N8 E) B m" k. @" Y4 Z$ U H 「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話) . L2 I5 T: `7 x; ^# Q9 A: r+ y: y( `2 U. C
「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で), Y: J2 H1 Z* i+ l6 Z1 L- _6 [
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「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に)8 g. x6 a: e* B8 J x% K3 W* A' ^
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価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。 7 r; i7 \1 u9 k 0 w3 B7 y/ S, ?+ U$ F8 ]$ Q それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。& d0 R3 k/ C9 u- p5 |
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「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。 + c5 s4 L! w1 D- x( s 2 u5 J& }) d: S 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。$ n0 u, x( n# H" K1 K6 q: ~
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「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」 6 [7 K/ i/ j9 X0 H0 k1 C3 R: a" B0 b9 J
陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。7 ]2 C! ^' s9 j5 h. M; y
# d- k2 J; g7 }7 `& u 88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。 * {2 v4 R8 T0 S 9 k, t, Z! G2 ~ 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」 & J: D3 g+ S0 E: Z: X $ {" [+ a' L( r9 G 10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。 - r; f' ?5 y$ T b; A) G% s % i9 K. V! y; p: a* }. u 「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。' K' R, p; e( w+ n( r
5 u1 H+ w1 r) ^0 f; j' F$ N$ w 改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。" u# _$ v1 m) V( W r7 z
/ }5 G0 ?8 e, J ≪空白の2カ月半に何が≫ 8 V; H: x5 b) P1 ?4 k: Q: _' U4 C1 G$ x: t1 x" }/ V$ O
「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。 , A6 [$ T# B; f0 Q8 L % Z; W' ]" c- J/ F+ T この間に何があったのか。& u9 _, e/ ~; H) d1 m& t
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トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。 5 S1 |1 t V ^# z, [0 J& ]1 D6 l# ?# L- E! f
趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。5 U5 v0 f- D$ i" J0 t
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新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。, ]7 j5 a3 `- k1 _1 E H5 L( {
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学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい)6 x: j& P, t' o2 x l: S6 x
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トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。0 ]$ i3 `. k/ f7 S I/ ^4 h
邓小平秘录:邓对赵紫阳发警语说中国不能乱 / J5 K R3 _6 p- T5 q(中央社记者杨明珠东京二十四日专电) 2 c. _. C. `2 N6 a& a# `& |( r8 f" O% o3 b: M- O, u3 E2 S# l
日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。 7 o6 V/ X0 x* P- n8 n% U0 K# N- I! _% H5 |/ ^( p" O" U
秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。 * H) p0 F8 s( ] V$ \/ J8 s! _# x* C
但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。 ( D' p$ @- `1 q K+ K! W ) c/ \, Y: E$ W M产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。 ( _+ X- v1 ^; V* p' J) e6 e- J% V% m* z; f, v3 d
秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。! p6 R- P* [3 Z V2 J
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秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。 6 ]7 p2 _. l2 c3 | J+ w " {" G( o P4 U9 ^' H秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。 5 M: p1 T/ z) L4 r; S8 k8 i- e! u; Y
秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。 ! `2 |( |1 s4 M7 l* n3 ]* N, K- y" ^% q& Y0 o5 B9 G6 P
秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。 ! n" Y S4 T& v6 ?" c 5 V* s5 ]1 N( \0 _【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。 - a' O! w! P1 y/ w" v& W' I . P! n# A. x' m その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。 / Z& ~* [+ v7 a' V: I; J ( a) [8 Q0 ^. x) A! h0 L ; b" p2 Q" ^% b; ~& ~3 ^& w「中国は乱を許さない」# ~# G6 E6 G9 I' e" i; h) U6 \
7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。 1 _- L# m. a1 f3 a0 n% { ) D/ b$ l& j* r0 p8 a6 z8 J 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」/ u1 p& H; ?( @ Q6 I: V3 Z
7 d: b9 A" C* ]6 C- {- L 「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。$ H2 L8 L7 z6 Q0 C
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88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。0 v( f* v6 C5 u. c
, W5 l# v2 r, e' } A 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。 1 V8 s3 `; C8 ?* p- o1 W: ~' e; q' |- [0 m6 L* r2 |& b% X
「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」 . a8 ~ m, s; v' k9 J8 s , N& y9 g: s" J/ ], d 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。# {! [1 R! c- k4 q/ F9 I
9 A8 {; f( v9 x I2 Z- Z- _ q それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。( Q& D% k. z2 Q9 D8 a
$ G$ F9 a" g$ z7 u b& R 当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。8 P& `2 j, j( i! j( N* a4 e' S
8 i# h* R# x9 I/ [6 I' K$ n トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。9 }# T; u" W: o$ ]$ c5 ~2 Y
7 C" L- S* E8 ^- o1 j% g ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 / C7 k& s7 h' p+ E: R8 i1 Y* x, U- P8 E& C) S! R0 T5 b0 X5 l
「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。+ V+ N X7 g2 f& U* E" F; O
7 `8 L& \7 v" U0 i9 T 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。4 l( n! B5 v, x( g
7 e4 c2 |# ^+ `, t; e% g' ? 夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。 7 Z/ w5 z5 d3 x3 X) z% j, P% o ) C, H" g: V4 m その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。6 G" X! k- R: G4 [6 _ o0 \/ P7 k
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それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。 / @1 c' _$ F: E; g( c# D; @. g9 q2 }( H% m
3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。 # k& o v3 j) Y$ \- ^# E ; B' B; \) e- T7 N1 e 「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」 2 o0 H _' S: v8 w& I8 }$ }2 b ; a8 P( Z, `8 |3 x6 P- ` 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」 8 W. ~' K9 P0 U% L( f8 n0 M& z! h# x: j& \: K7 \
それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。* C& }0 a1 f, U
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その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正) 5 Z8 _ ~( @6 Z, ]) y1 b% g& M' i! h' \* t
+ R. w8 G( `" F1 t1 w, L◇ : [3 K& ]2 t: E' g/ d3 L1 j ! e) G4 D3 N. |, ~$ k! d【用語解説】抗米援朝 + E8 z. M+ ~- ^; |, A" t6 i + V: s3 V; j. f: x7 t8 h 1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。8 y; _8 u* t8 N. ^& |/ Y! R
茅台酒瓶问题成反革命开端8 R, U2 W4 ?/ @5 N
(中央社记者张芳明东京二十五日专电)日本产经新闻今天连载中的“邓小平秘录”透露,一九八九年四月十七日由中国法政大学主导,为追悼胡耀邦而进行献花行动中的茅台酒瓶问题,被中共当局作为“反革命煽动”的开端;十八日晚上前往中南海要求与李鹏总理见面的学生和警卫发生冲突,成为天安门事件悲剧的序曲。 ' D5 U2 h. N% }( G% }) O3 {0 T. L @) p8 X& s
文中指出,一九八九年四月十五日,前中共党总书记胡耀邦的死亡升高中国国内政治社会情势的不安,造成许多人预感可能引起某种骚动;但是,想必没有人会预测到后来会发展成为那么大规模的运动。/ j9 L! E9 v, A4 o: f4 P8 ~& h
胡耀邦去世第二天的十六日,北京大学出现大量的大字报,不过学生很少;但是,十七日中国法政大学职员学生发动追悼大会后情况为之一变。十七日下午,先是六、七百人迈向天安门广场,沿途市民加入行列;傍晚时广场上出现了四、五千人,大学生对人民英雄纪念碑献花并合唱革命歌后解散。 9 q: w+ l% t5 t; H$ d: S( D P' j; k( i2 _5 E! U+ v6 l
这项示威行动后来被作为“反革命煽动”的开端,原因和当时在挂在祭祀英灵花圈下的茅台酒小瓶有关。中共有关当局指出,“小瓶”与“小平”同音,示威份子的行动是侮辱攻击最高领导人邓小平。 : n( w+ V$ M% Q* H7 v' i$ ]$ V' H, p" N; b% h1 |7 @* l/ e/ f) N
十七日深夜,集合在北京大学“三角地”的近千名学生出发前往天安门广场,十八日凌晨四时左右抵达广场,途中,人民大学及清华大学的学生也加入而增至数千名;其中大多数在有关当局劝导后搭车回校,但是有近两百人留下,热烈讨论今后的对策。 . b6 p4 d' |6 b" i % o) c; Q W: B3 r0 k5 Q这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。& I+ B3 a" o) U' d
7 j0 A g+ @7 N; O' C! W" p当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。 ; ~& i p8 b9 O. x* A% A. d : g6 C% v0 C L. Z1 L4 Y6 c十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。 ; f( G# W" p0 ]7 I: Y" e2 Y/ R9 p/ ?1 t, `& \/ d
【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に # {1 B" I! g: b/ n$ [, n7 c2 `/ X& e; k( `: a+ w( l5 A0 l1 m7 R0 c" |% c2 m
1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。% \4 l2 K1 D4 D: R
6 |3 G3 o3 m& F2 p 胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。3 X" f0 E5 S" ?7 e2 c
8 E9 D# p9 M- f( F5 O+ E; D* T 「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」 6 A/ T4 ]9 X i9 ^ 0 J, h& k1 \6 e. b3 [; u) k2 S 当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいないエリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。 + F. l1 T" }! a; G5 k* U ) B9 b- B% G2 |+ F2 z トウ小平(しょうへい)氏がこの年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが、「トウ小平年譜」では削除されている)) |# X3 W" W) W) O8 ^- k
7 Z9 U3 B7 A7 t6 o それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。 9 s1 F1 p8 T Q& p( C | - \ v# U- O( X+ u: O 「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん)(哀悼の対句を書いた掛け物)に『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との無記名の張り紙を出した」 ! U5 P6 u2 z; h; G. r2 M4 W2 L- }8 l1 T. v8 c# H ]
六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。' E8 Z+ W- O6 H. i. t
y& A' t3 M/ H* p 呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。 3 w2 v8 F/ [, N! o8 ?) Z4 U2 b. s
「その夜遅く、北京大学構内28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」7 n- g2 a9 l8 e$ V- Z6 @
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当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に同大のデモ開始時の模様をこう書いている。" U" _# l4 w' B4 P2 g. s
% h+ B2 Q$ i6 C1 f; a; G 北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。 3 A C! x4 G! e$ W0 O* U: C 4 y& q+ f* f& N! f' V6 ], a しかし200人ほどの学生や研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など7項目の要求がまとまる。; o# z7 }! P. s( {; a) w3 q R
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そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。( |- ~+ o8 \7 J" ]$ j( Y7 G7 X
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面会が実現したのは18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。- X& X1 y6 U1 B9 F: h" S+ m
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「それで一段落したと思った」と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。# b: j/ F y# Y. D6 W
% W8 `/ ?& E" l+ J+ M) \: S/ v 天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。 3 Y# W! e* C1 B" O& F% N1 d+ Z1 w3 U+ h y
北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。* ~$ l9 K9 s: A0 U' v0 \& j6 E, m
' W2 _ C t U6 e0 s- \ それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。(伊藤正)/ K( z4 r# o' y2 A; G4 b6 }
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■7項目要求 (1)胡耀邦の政治成績の公正な評価(2)「反精神汚染」「反自由化」運動の否定(3)国家指導者とその子女の資産公開(4)民間新聞の発行許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(5)教育予算増と知識分子の待遇改善(6)デモ規制を定めた北京市条例の廃止(7)今回の活動の公開報道(要旨)$ t8 ~$ R- m( g8 X
- W( v1 A: `' O8 j(2007/02/25 ) 0 Q2 G7 l5 f5 {3 h$ R/ N+ `2 G, m; M- r. m( K4 Z" R
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邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」) t, H' b" @( i- N& O* I# d
中央社6 X; s. K5 k0 J& I/ [, O9 r
! r+ G# T* h: l' Z/ M 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。* w2 d' M/ O: m, ]* Q9 y& z; \
& ]! ~" X" b/ O$ E 连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。" @) { P) q% t& z% Y
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中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。 - u+ W' i1 q( Y, }3 m0 H( B) m/ V5 c - W" I& K+ G7 M5 w) S/ c3 } 秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。* w( G4 V( |' E, g7 r. X9 U% N
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文中接著指出,当天为止,方励之并未有与学生示威直接关联的行动,公安当局掌握的是方励之夫人、北京大学副教校李淑娴和北大历史系学生王丹「谋议」。2 {/ L( c% y# t) k
8 I9 b( e2 A; b- i* y' G 北京市党委会在天安门事件后发表的「制止动乱纪要」中指出,胡耀邦死后两天的十七日,李淑娴在北大和学生讨论,呼吁发动示威,示威组织的中心人物是王丹。王丹于十八日上午在天安门广场演说,拟订包括恢复胡耀邦名誉等七项要求交给中国人民代表大会事务局,这些要求是事前和李淑娴商量后才决定,且事后王丹和李淑娴还相互联络。 5 P* L j; q$ `5 w. j3 Z6 Y( V" P1 p/ j* X5 ~6 u
秘录指出,王丹和方励之夫妇的交情很深,包括一九八八年设立「民主沙龙」等,王丹受到方励之夫妇很强的影响。由「纪事」可看出,王丹受到有关当局很严厉的监视,但是,他并不在乎,继续发表演说呼吁示威、罢课和成立北京各大学的联合组织奔走,而成为学生运动的领袖。特别是二十日以后,随著大学之间的合作而提高保守派的警戒。 y2 K8 o; K, R( N4 i K9 K; r6 N+ p' T. O. q7 y
赵紫阳和保守派相比则显得乐观。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳的改革同志田纪云副总理在二十日上午和赵氏见面,指出不仅北京,连地方都有不稳定的情势,建议将预定二十三日的北韩访问加以延期。 ! U- z( `/ E8 F7 V3 o; g! @6 L 4 V9 u+ [8 p4 P& z C) {: c. R 赵紫阳回答表示,他虽曾考虑延期,但若改变日程,将会让外国怀疑国内政局不安定,因此决定照原定计画访问。赵氏于二十三日下午如期搭乘专用列车启程前往平壤,到三十日返国期间,中国国内情势已出现重大的变化。 : ?6 z f) Z! l4 [2 y+ d* o! G4 c9 B4 y$ h/ w- l# L' K0 {/ A
【トウ小平秘録】(14)第1部 天安門事件 追悼大会; A( t( N+ v4 b* B+ z8 @
7 o$ W3 j. o( b k6 z/ R 報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。0 r8 N# ?/ l: i7 D* h6 Q/ b
~* n) h: S7 w' G 天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。% T7 W0 M1 O* h5 q
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そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。5 G8 }: U) t' a5 B( V3 E5 S
% r4 W( x6 x {' b$ W) p 楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。 / Q; R$ e, ^, C D1 G 3 N. H5 U4 ]% ~8 N/ l0 c 25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。# ^+ q6 C/ A1 p& }' t0 q
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「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」) ~8 w" \0 _' m
4 n0 ^7 u5 P' o9 F$ b* K 「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」! U% [/ q1 h# X8 S! m) M5 J/ K! N
: T4 Q& y" X2 U e: u$ u 「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」 : w4 h5 Y- B( a V/ E 0 g1 h6 ~) z- |1 M) _ トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。+ c- \1 w4 p- G ^& O9 j: w) A7 s
. [( @" P8 S$ G F これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。: t. C6 Z, p' k4 @) Z
邓小平秘录:邓氏曾为民运对策态度犹豫: h2 a$ Z& I, r# F* [( D: |1 M
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(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。 2 p3 B; F9 T# n0 j, m! j9 A1 }9 Q; y+ p) Z0 k
“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。 . R9 l. @3 w* `9 t3 B/ N/ \$ ]+ O6 h
中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。$ Y8 c& Z/ V0 r' Q0 e5 g
: S5 o4 P! x7 @, ~$ n! X$ t+ D, G五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。8 f5 _1 N9 L! r
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张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。- H1 m2 s. F' `% b; ^8 C2 r
j: X5 \5 f/ g! n杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。- o! w y) G' B' y D3 _
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当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。 ! C" o3 [; ?5 L $ m$ ?* |' [7 K2 E就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。 9 @" v7 q; I! w' a! w, X6 O( ]. a" b7 N% {5 {# H
【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂/ a- i+ I7 T2 J9 A9 U
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中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。* f; A5 Q8 c4 R j4 m& m$ }" `+ j
# f3 c# D: \- v2 S 89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。 1 c+ J. |# q" z `, Y 5 U' R3 b. p$ V; G7 r 5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。7 k+ e8 { ~6 s- x: |1 } u8 c
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これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。7 a, _( _2 ?" x$ @4 _5 B
! c- b. u W3 x* F6 m 柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。; A. f2 y [! H( r$ O6 i+ ]
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「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」# g2 r( a+ S9 x7 Q; l: c
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張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。' i. f6 K* |% R6 T) e9 d
/ w. q, H1 ^5 R+ s9 p; j) M. D e 党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。 6 p' s8 d- g! Q. f+ J1 V: e2 n9 U( ]" @2 u& u4 [( w. g
最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。 6 a; C1 n8 ~. P" E; D! S- B6 v) A/ O; Y, H0 }
9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。 0 a* W( G# E; u( `. M+ I % }* ^+ [7 s3 W' _: B- ~ 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。. ?8 O: L/ m5 U' h8 L4 c, U3 J. x
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しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。( u# h: x8 e2 `% A+ P) Q
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陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。3 n+ I1 V5 B5 p
9 @6 ?& ^3 l% g' b; y1 U- B そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。 2 [" ~7 w& n1 _2 N - s, E. ~$ W" p9 G9 b6 Y それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。 / _# N$ B* J: j, d% }6 {- ^ / ?# g0 n/ x. q" f 「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」 & s1 } z( Z- I% u0 E' g8 k" ]0 R2 q
そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」 3 T: f: G5 q7 f% N4 \ 8 x7 W d2 v& m8 T トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。 / U2 J1 }# X6 X. ^ ' W4 x j0 T+ x トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。 3 S" n9 j1 D" x0 M7 O% N: ^ 5 ^% l$ d, g7 ~ P 《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 $ y: R- r+ i; d4 c4 k. Z 6 w7 `' _- i* G4 O6 J& f: Z6 H トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。( {5 s" B: v$ w8 Z, K7 o/ D) G
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彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正); s) M" g' A) U$ ^
8 S. f/ |4 ]+ @' _0 u6 @9 l4 z
◇ d q3 X Z; O' {: d* A C* I) m# N9 \
【用語解説】中国青年報1 Q3 X/ m/ ]$ V5 }
0 m; [% p8 ^' b
共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。 0 y/ h& o6 S: H6 E' B/ C% F* l7 X" O' n, O! j: J: L6 H
(2007/03/06 )% b9 i6 B% r }: f, f4 g' I
9 A. e; b1 O$ S作者: 日月光 时间: 2007-3-7 10:31
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口 - Q p. d8 p8 k3 Z; g$ }$ {% v中央社 8 g) k0 O; s3 K1 i- i$ Q/ g# \1 \" k' V% y& ^: u; u0 i
日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。$ e6 f2 y: y3 p
1 Z1 M5 P5 B# ` O7 W7 e+ N 「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。 / j, z7 n I$ b& x4 M) v. ^% b4 |5 r1 `7 E4 J; v9 N
「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。 8 N$ T. K4 m2 b; K1 j6 c( T% p' f# e0 I! k& Z9 I
王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。3 }5 L) }% E0 t
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& V& A; R* D/ a; J! M" o* ]
但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。: D+ a2 a y' L3 v) [0 V
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王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。$ ]' `. a6 ^2 o
0 A X* n! Q' M {8 k( ^- h9 c. i 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。 * e5 t+ {! f. n2 q3 l, N9 B- e % A+ l7 L7 p( w* q 就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。 & g9 X- d4 u7 B8 o- p Q0 q0 R% |0 Z
邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。( l8 Z" L& }$ V7 q6 r8 v4 r
1 @$ M3 G; v: q$ g& ~. S 对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。 ) ]+ y: q2 }4 e. I ) h ?) [1 Q% R' Q, K 学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。 8 B7 O% B# B8 X0 [. v4 @( c( [3 K% v, Z6 s
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【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言 9 Z/ _0 z# q4 `7 s! A ' D# W( J, ?3 f$ a$ E( b! D# {; b: s■急進派が押し切った . N5 Y) ]$ l9 v) q ) t3 T0 z* }2 ?) u2 w1 {! B3 \ 1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。, ?+ `# T1 P. y+ c2 e
- L) D" |. q( L0 Q: ~" h 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。4 f- M! N- F) u4 m
* O. P- Z, v; A/ o, _7 l' G) f$ t 同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。2 i- s' R; m" Q. Q7 b0 i8 r
/ H2 B; d" G* K しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。4 ^8 r$ l6 h1 U, T1 _
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絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。 * z2 e7 D5 Q; Q, o' U : v: F+ ^2 n; a" Q) D0 B5 t4 i: _$ w% c それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。. Y2 \ U" w- ]0 g* d8 C
% @/ h; c/ e7 L 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。 ) F. Y5 N" q' o$ Y7 X( n, {* z0 K1 P5 t
王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。 u- n* s& J7 e) e/ R5 g
6 a; \3 I& W1 O) v5 h% C$ e% d; P' R 在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。# j# ?. u9 e9 R* ^" x& Z# X9 D
) I, G% V, C1 Z: D( t& h7 @6 d3 Z3 v1 d" X 李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。 6 C; Q( |" B% v) D/ q4 V # {+ |3 R3 P4 ]* X 14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。% A- ^* s) S5 N- U3 D7 v
/ P7 C4 I. S) _ 政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 % M; S! J$ X5 J% j+ G6 M+ O( E : I4 X8 ?5 l8 J! h# ~7 r4 E 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。6 O: W$ {# ]1 z. `, D1 d' K
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それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。. y& z1 |+ e- S$ Q6 i1 G
邓小平秘录:赵紫阳透露中国仍由邓掌舵 7 j7 q: H1 g+ q& h. U K; d( f( K& Y, c. ~% B* o/ Y6 n6 u" _: |1 A( n, t
(中央社记者张芳明东京八日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳于一九八九年五月十六日,在和访中的前苏联共产党书记长戈巴契夫举行的高峰会谈上透露,邓小平虽退出党中央委员会,但中国的重要问题仍由他掌舵,这项发言后来成为保守派攻击他的罪状,也造成他和邓小平关系的破裂。) W6 u f3 _$ p2 {6 q% M( Q, D
* e K- I q0 s9 i5 y1 B 天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。 7 {9 v/ |* H2 ~; t" F% Q % G* ]& f- D1 t! n6 J7 g2 Q# a 学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。; r1 F$ p% M7 g' Q
& P- T6 D2 }! y/ j 「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。 8 _3 E8 R5 k# g4 r $ z% N. L+ Z, p 担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。 2 q; @$ C# ]' H7 v9 ` ) Y( `; O. C' [9 `+ } i【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令 ( V* A1 C- K! z : {& }* c2 F" W: ]1 L: s1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。 9 \( Y1 v$ D5 U% _0 b* Q 1 J' K8 q/ a8 t「来るのが遅すぎた」0 j7 ^7 U0 L' P
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四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。9 T. {" p5 z% S' @9 E) p' L
6 d; `% l4 @$ m 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。 / L" \3 A* i' W 9 j. ^" `' J% Z9 b+ @ 長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。 9 A% S# |, X! X" y $ S- U5 C( O, x6 D 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」 & r; Q U5 ]& D4 V* v+ y. {$ A, G! x) `- g
数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。 9 d- e: }$ U: s: p% D) }; e' s+ A3 Q3 R9 H8 C7 ^
「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。 5 U, x1 @6 n) D # g2 L2 y7 F9 ]5 C( N- \& u8 t 文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。: @7 z) O3 C9 N' a: |
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「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。 6 v, ]2 ^% \- A # R" l( K( y, C0 e) }$ }( ^5 o トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。 * A4 W+ b, @7 F+ g/ I8 w! P , E# z2 X' a* T: `9 h4 b2 o3 H 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。 : ]: K) z( s& E% J4 R , @, }& G7 {$ i1 F) @. j' O9 A 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。, Q& a8 F9 k$ N" s) s
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「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」- U0 A4 G3 h) X r
3 t! A) s9 V9 |4 e6 D 学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。 : m* A2 K2 `; g' b- ~0 Y0 s) p+ G7 n6 j8 P
朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。 / U) F) `1 r) ^! e. i8 _/ ?" `5 [
「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」 1 d4 F j1 J% i: B Y! O+ h. e
楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。4 ~2 m4 c& g8 O( ?0 w
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李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。 - y# {( C( J) T( G' m; ?5 u1 ` y
趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。 f2 k% }! j! Y7 ~* \0 u# V$ p' i$ Y$ n' l, L0 L
絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。" p# K- q6 n0 I7 F5 [- E
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新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正)5 u/ [) ^# E" g' o: y
& L i, x g* W7 [0 h: ]1 F ◇ & B @ l; u. m) L5 r # }% t& p7 }) Z4 W5 e【用語解説】中央軍事委員会 ; T& W8 \% I& H; j1 r 1 a% Q( e) Y& j* A: l 最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。$ ] g' U7 s% u* U
邓小平秘录:民运对万里的期待遭到出卖! b7 u, R y; W4 `# u. P
中央社. Q# J7 Z' S1 _, q: A: P# Y
7 F6 Y( [! n' ~* e 日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,中国大陆民运人士曾对全国人民代表大会常务委员长万里表示期待,结果遭到出卖而落空,一九八九年五月二十日,中共宣布戒严令后,全无同意学运要求的气氛,使用武力的可能性日益增高。 " r, U @) a* b, t M * p! R N" E/ i6 O( x: z. ~ 「秘录」报导,新华社当年五月十七日报导在加拿大访问的万里发言肯定学运升高了社会对他的期待。万里谈话被报导的当天,北京有一百万人示威,谴责邓小平和李鹏的强硬态度,声援绝食学生达到高潮,中共宣布戒严令之后,民运对政府的抵抗色彩更趋浓厚。 ; q* g) m2 w& S# B 4 O6 O& O& X, E: _) ~ 张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳于五月二十一日经由秘书鲍彤要求万里早日返国,社会各阶层和学生对万里的期待升高,学生计画二十五日热烈欢迎万里返国,但是,这项期待遭到出卖。5 l: C h. }- F. d& E
1 ^0 V7 f( N% ~ 万里虽提早于二十五日凌晨返国,但是并非回到北京而是上海。没有人相信新华社所报导的,万里是为治病,两天后万里表明支持党中央的决定。万里的返国问题显示元老主导下的强硬派正在控制局势,加强对各方面的取缔,并着手准备对天安门广场进行清场。3 L( a* q: ~* Q/ ]
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五月二十三日,北京出现戒严令之后最大规模的数十万人的示威后,中共有关当局下令各部门和工作场所禁止示威,二十四日以后,参加示威者急速减少,中共元老们的动向也逐渐明显化。大陆知识份子预感党中央行使武力的行动已接近,继续说服学生撤出广场,学生也曾决定撤出广场,但是悲剧仍然发生。 2 H/ C. l9 w2 Y8 f0 E9 I1 b3 T1 `+ E; q y z- w
【トウ小平秘録】(27)第1部 天安門事件 緊急帰国 2 |" e' g( [4 Z) b6 R & C7 l' y! C6 I+ Z/ P9 V7 O) w |天安門広場での座り込みは続いていた。1989年5月20日の戒厳令布告後、学生側は北京市民とともに軍の市内進駐を阻止していたものの、政府が学生の要求に応じる気配は全くなかった。むしろ政府が武力行使に出る可能性が日々増していった。 / L6 z7 B& |, ? `2 V# b' O% E$ b& i$ Q; W7 z$ j7 j: U0 V
! v5 m% |: L' F" _7 a3 E期待は裏切られた ; u3 T) L4 i7 @ F% f& z 3 m" K2 f$ Q! t1 y8 f1 ] そうした中で、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長(肩書は当時、以下同)への社会の期待が高まる。きっかけは5月17日の新華社電が、万氏が訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国行動」と肯定する発言をしたと伝えたことだった。 + T ^5 C8 a* I1 t6 |: @' J9 t: i$ r+ j9 L. V. y
万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。 R$ F! M- o4 I4 o$ \; p+ c9 I3 u5 j
万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。0 u9 M: ^- U3 X
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しかし戒厳令後には、政府への対抗色が強まる。例えば21日に胡績偉(こせきい)・元人民日報社長ら40数人の全人代常務委員が署名、発表した緊急会議提案書は「法的手段を通じ人民の意思を反映させる」と述べていた。某常務委員は「李鵬をクビにする」と語ったものだ。 0 S( k' n% f+ y2 ~0 j " F9 Z6 T7 T+ _/ A 党中央の指導下にある全人代が党の決定を覆すことはあり得ない。が、万氏が帰国して全人代常務委を招集すれば、戒厳令反対の声がさらに強まり、形勢を逆転できるとの淡い期待が趙紫陽(ちょうしよう)総書記周辺にあった。 2 m- @! o8 k; s' M9 F* A0 b. S' ~% q# E$ q, z6 [$ H3 ^
趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。' J( }* p/ {& S
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また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。 }/ }& _3 I) D- X+ c6 t, D; N# N+ _
6 ?* \8 f6 f( S% S* G& J5 N6 F3 L 万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。 - n. I: @$ x; ?/ e2 G7 w: M& K; P* @6 e9 {4 K
しかし期待は裏切られる。万里氏は5月25日未明、日程を繰り上げ帰国したものの、帰着先は北京ではなく、上海だった。「病気療養のため」との新華社電を信じる人はいなかった。2日後、万氏は、党中央の決定への支持表明をする。1 h: }" h: o& X8 M) |, B4 `* H
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「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。/ d4 L- u* E5 _. i& K* s/ B
' ` E7 B$ ~0 [! [; n/ F r 《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》 ) D# G: P! H! \8 D- g- Y$ |) b 7 G. V8 i1 A" t e 万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。4 [* C) k$ e+ j8 X" i- k3 E
* E7 R. r8 Z( e 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。 , ^( B4 S7 J1 }) G( j0 ~ $ c1 s$ K' K2 P e( O Z) { その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。 . X0 U0 ]5 `$ B 6 g8 Y1 r8 f2 `' N+ [ 楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。 $ L6 W8 K# d! r7 X- `# ~6 _, C( N8 H, Y2 K9 s: w
長老らの動きも顕在化した。陳雲(ちんうん)中央顧問委主任は、23、24両日、李先念(りせんねん)政治協商会議主席、彭真(ほうしん)・前全人代常務委員長、王震(おうしん)国家副主席、薄一波(はくいっぱ)顧問委副主任氏ら長老のほか軍長老と会談、薄氏にこう話す(「陳雲伝」「陳雲年譜」)。 7 p: \1 D2 f9 ]% c5 o2 b9 R9 Q! v- e6 s; B% x5 [# g
「この局面で、引く余地はない。(デモを動乱とした)人民日報社説は、もう少しブルジョア自由化反対を言うべきだった。今やわれわれ老同志が発言しなきゃいかん」3 x" k* Y9 S+ b+ b7 m1 I
邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场 4 U/ p n4 }% K' ](中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。; g( q+ v" {" w
9 u# ]; _3 d# o! ~秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。 ' ]4 \! B" k* q$ D( L" w Y元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。0 _, J( D; N' T6 ?/ N
* b0 `/ G+ D5 ]$ O“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。9 n" R* u* \9 Z; z
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五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战,8 B. [. Q9 w9 v; I3 ^0 c
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包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。4 G$ f+ ?7 e6 c* V' C. M0 s
; I# d% d0 m* u, J; Y# v% o“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。” - S y( s3 m" B6 Z9 J: h0 e* |% A& I& a/ h
【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦 $ X" Z. W6 Z4 c4 F+ G7 V
■既に退路はない . g& T8 E, T2 s b6 c
/ u" D9 d: A6 f* ~3 l2 L, K! V" U トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。; I) n3 Q9 i `7 i! F
6 r( q% S- j0 g/ T" L 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。 / r1 I* o( k' J- F+ P( A) e4 f; _" S# y# r9 r h/ ^% a
そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。 % R& v/ V {4 S$ Q/ A' g W# ^; y8 Z2 J7 o6 q6 h
政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。 : ^, w' Z4 i9 ^2 I. c $ h6 U; F0 K0 V6 m! `' } この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。 : V3 @0 {( Y8 Y+ X4 ~9 l3 T / p5 ~* v* [3 k8 d# u8 s, K 「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」. [3 x9 j- U4 n K7 c. z3 i% s
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トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。" ^+ ^! ~' x/ V2 B# q
7 g% M9 W4 R. J" |9 |- Q- u 江沢民氏は5月30日に北京に呼ばれ、31日、トウ小平氏から次期総書記を命じられる。トウ氏は続いて、李鵬、姚依林両氏と会い、改革・開放を徹底、腐敗を撲滅し人民の信頼を得るよう話した後、次期総書記に江氏を決めたと告げ、一致協力するよう指示した。 / r1 W5 C/ x+ z) p% {# ^ M# H, {# h# E* p. k3 a! [: K- S
《「トウ小平年譜」は、李、姚両氏への講話を掲載しているが、江沢民氏との面談の記述はない》7 l( f( j+ T) i- n1 C& \
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長老会議2日前の25日、新華社香港支社長の許家屯(きょかとん)氏は中南海で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と会う(「許家屯回憶録」)。' W" j% E8 T, e' k
6 O! H7 o" f8 G( j; D* a 楊氏は趙紫陽氏の停職を告げ、後継者は未定だが、「李鵬はありえない」と断言した後、言う。 7 B7 g* i- w- _# ]% d- _/ V' @ m, |$ z6 Y9 q1 L9 I9 k
「トウ小平同志は、既に退路はないと話し、戒厳令を選択、軍を動員して動乱を平定することになった。党中央の決定を支持してほしい」2 L- |# E6 B" q6 V: o9 _- F; N
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許氏はしばらく言葉を失った後、言う。 ( m) i( j2 G8 A5 g! K+ {, P2 z4 z. P! W( J9 C) g6 l- C
「軍を動員しても、万が一にも流血はだめですよ!」# e7 H: r7 u9 l: L
1 \9 H& m" _. s* A# Y" M 楊氏は即座に「それはない、それはないよ」と言い、こう続けた。 l4 b8 T2 }1 C) k+ f! i( |+ {" i
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「徐向前(じょこうぜん)、聶栄臻(じょうえいしん)両元帥も同じ意見だ。彼らは既に中央に(流血回避の)意見を出している」 $ N0 f9 w1 r% C2 x 0 T: o5 j1 G6 Y' B 《55年制定の軍階級制で最高位の元帥に選ばれた10人中、徐、聶両氏のみ健在だった。両氏は武力行使に反対と伝えられたが、当局はデマと否定していた》7 ^# L4 j0 i# H
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「真相」によると、5月27日の長老会議で、「動乱」の平定作戦の実施時期が話し合われた際も、楊尚昆氏は「いつまでも引き延ばせないが、流血は絶対に避けるべきだ」と主張した。 ' W5 X2 [1 c0 }! ^$ @5 B6 P2 l) f6 M: Z* j* A& k
陳雲氏は「流血は極力回避すべきだが、5月末には解決するよう」主張、トウ小平氏も「これ以上引き延ばせない」と述べ、政治局常務委員会に迅速な秩序回復を要求した。 ) j; l9 u' U4 m# M - _! ]8 y, \6 Z- u& L+ H 天安門広場では5月30日、中央美術学院の学生が作った「民主の女神」像が立てられ、市民の目を奪った。しかし座り込み学生は5000人に減り、大学が授業を再開する中で、学生運動は内部分裂し、消えかかっていた。. _" }9 g; c9 R+ B& a
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それを立て直し持久戦をやろうと考えた知識人がいた。北京師範大講師の劉暁波(りゅうぎょうは)氏らだ。劉氏は社会科学院副研究員の包遵信(ほうじゅんしん)氏や北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)氏らに、リレー式で絶食をやる計画を持ちかける。* K5 I! R3 A. q. a/ A4 V+ ?3 b
3 }! R( R+ h9 t) X" ?& z& d- U 包氏の著書「六四的内情」によると、包氏自身は、この計画に反対だったが、王軍濤氏は賛成した。そして6月2日夕、劉暁波氏、台湾の歌手、侯徳健(こうとくけん)氏ら4人が絶食に入り、広場は久しぶりに熱気に包まれた。 9 n! b8 I) w% q' z. c / `5 }, K2 V1 _0 y8 z4 `9 ] その日の午前、トウ小平氏ら長老6人と李鵬氏ら3人の政治局常務委員が会議を開く。李氏の状況説明に長老らは激怒する。第一声を放ったのは王震氏だった(「真相」)。8 t! B: d( J4 \
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「くそ餓鬼どもめ。神聖な天安門広場をなんだと思ってるんだ。解放軍は何をしてる。反革命どもをとっ捕まえろ」 ( y' k/ O. {- _1 Y+ N; Z0 l# S) D5 L! _" w) i' N v( G8 W
李先念氏が一刻も猶予ならないと強調、「今晩から『清場(チンチャン)』(天安門広場からの学生一掃)を開始しよう」と提案。最後にトウ小平氏が言った。 9 f7 U. |. t: G% v( E" b9 P * ]- m, z4 Z0 o 「みんなの意見に賛成だ。戒厳部隊指揮部は今晩、清場実施計画を開始、2日間で完了するよう提案する」(伊藤正) * w8 _+ U4 z! q5 Q, u8 u+ m* x% z
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邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态; k, B. @* [: u+ M9 L. y
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(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。$ Y( F" l/ i$ s$ D3 J8 m
邓小平秘录:六四悲剧是学运卷入权力斗争 1 z/ Z! P0 N) a$ G0 y2 a. @% D9 E9 K7 `7 C/ I) Z$ E# f
(中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。 # ]8 p7 M& C" B: z2 z: e+ z% T
「秘录」指出,一九八九年六月的天安门事件今年将届满十八年,中国不知道「六四事件」的世代增加,北京市民也将当时的体验关闭在记忆的抽屉里,中国媒体在上个月刊登邓小平去世十周年的特别报导都未提「六四」,有关人士指出这是中国报导管制的结果。 4 F, N, w- ]& k! J+ J( U# t1 w ( o: P: H+ g: Z' F7 g8 A; I邓小平在天安门事件后的一九八九年六月九日接见戒严部队干部致词时指出,这次的风波迟早要来,那是由国际的大气候和中国本身的小气候来决定,不是人的意思可以改变。# f( n6 k3 ]. ?
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邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。 * K% h3 K0 S e2 R' @% M' y5 O9 Y$ C
一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。 7 V1 n0 X$ j& Z9 P; S( [ ; |- ?2 `$ H- Q$ s; L邓小平推动的改革开放政策是以市场经济化和国际化为基本的经济建设,与毛泽东路线是不相容,但是,他坚持的四原则就是毛路线,特别是核心的「共产党领导」的一党独裁是毛遗训,成为保守和改革斗争的种子。$ F( c$ b" L/ ?' R0 q$ ?7 l
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一九八零年代,中国的经济和社会出现激烈的变化,人民意识思想倾向欧美,但是一旦发展成为对党的批评,邓小平和保守派联手以四原则为盾牌展开镇压,为的是坚持政治权力和生活特权的金字塔型党统治制度。 + y% L$ g2 l6 U. O( q " c7 B- b2 t- ]2 R在一党独裁的制度下,一九八零年代官僚腐败大增,一九八九年四月胡耀邦去世后引发的学生运动除要求民主化,也反对腐败,邓小平等元老和李鹏的保守派将之视为企图颠覆党领导体制的挑战。' K* T( M" G8 F3 o2 @! Z
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天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败的运动被卷入保守派和改革派之间的权力斗争,不少人认为邓小平是被保守派的谋略所利用。邓小平为何对民运决定使用武力?尚有值得检验查证之处。" O& ~+ r# ^1 Z% t. Y
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【トウ小平秘録】(32)第1部 天安門事件 独裁堅持 & a m6 W: H& p* D+ Y! N+ ~- E* o9 }, z
1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。 ) u( i( i9 B" f& O& i 7 U1 n8 ^5 Y' H: }" z, S* A 胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。. N m* w& |, R
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トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。$ V3 v4 K) q" C4 a
& Z+ F) ?8 `, T. ^+ s/ x 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻)/ _0 O' d0 f" p/ z: k# Z7 J1 H
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その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。 ! B% U) t$ \0 p( i& {9 {* ~7 u" H7 Z- x1 B5 A# U2 o+ A
トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。- E; a: Y# z* D
. L2 I8 v7 h& ?0 a& b9 X 「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」- j& H9 O/ F- i9 P+ l
" `, X5 G' N( f; { 「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。6 \5 o' E' A) X. D
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89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。 , {' ^* E$ {7 q: Q+ A- j2 ~ ; j" }. q& X+ l4 a トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。) Z; y1 W0 L! F7 O8 T3 ?
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「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」 # g4 J4 Z6 N( z: ?3 {; c( Q3 _+ m# }2 u6 n: v" p) ?! H
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毛沢東遺制は守った v2 O5 m) A6 [7 g* ~
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トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。! K$ e& ]6 Z0 Z4 P/ ~6 A
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改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。 + l- n3 B5 @" j2 \ : }) O' n+ Z. P 張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。, b+ @ f3 F( B1 i3 `0 j4 Z
1 P8 t3 C" N6 n1 \4 {: b4 i 「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」 / d9 k- n3 u( q" a* U* v" x' h0 L& ` V; E 8 Y3 B8 c* t) S5 U 今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。 & N/ Z) b7 O B$ D 9 r9 {8 n: F1 t0 U& n7 _ しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。) C( u2 m1 I. D# }
) f" R: W: {. E5 l4 {! Q; d その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。 ! P: D- H6 J) }0 f 7 B+ z4 i( e5 L8 `# t) L 89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。 % J+ Y4 O0 a3 C' a O2 ^- B6 J% o2 j8 ^; c" c0 \) k T5 D
天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。( T4 M8 S8 K2 z( _8 Z7 q2 O. h
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トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。 . i7 n, Y5 l+ q- `7 C1 l5 b% j# g5 U5 y
(伊藤正); v) Z4 p' i- C) ^1 [3 K; _8 h
. S; S: E7 q1 R& I [ =第1部おわり 5 l/ z5 }& _, x* x# }4 A7 l c* B
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+ K' J( Y! o9 Z/ `■伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。 2 r: z4 D- x) Z* s P $ q, h8 o+ [' ]1 G* c) s(2007/03/18)
3 p1 Z& c! x9 Y7 S/ i7 S春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。 * @* V' U8 D. x& S" Y9 r# {! J/ F- ` C8 H5 A
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期するものがあった: B5 x) S' e0 t# J8 J+ u- r4 I
4 h' m* K. a" h4 S O+ s; h5 H8 z 普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。; ]: d: N- h# V
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午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。( w4 d. Z1 i: F* \- n
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緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。5 x) w( [8 X+ m$ Z$ I) z
: X# o1 H+ R. \+ h/ e6 } 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。 / g3 \( u8 ?# ~( x% z6 L Z( f, X! x8 G# g) S F9 g
「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」# @% u6 e' N% P1 P8 S6 t
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トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。 # i& E( Y% y/ P2 B' F' K9 m3 L. ?( A& E$ x
引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。 3 a: J9 \4 u. X, o; e$ H8 p8 _& n) ]) f& G) [1 t K
トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。/ t8 z2 `( }; U; `) |
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≪天安門のツケがきた≫8 o( ~/ y5 d6 U& w% T
& O$ t; X& ~5 N9 C 元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。5 z) \! V" O3 i* r# t! z4 f1 p
% f5 g& ]# x* S2 d 「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」) R# M7 y# W! B' g& ?
6 {1 q! Q, w4 O7 A4 Y% P 広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。 9 f' N+ W% J$ r6 N* d( ^/ H) d# r6 }. s6 z/ j1 y
「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」" E* p- O: }; Y' Y8 w
$ ?# L* F% ^6 q% o- p 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。: p4 p: D$ i. `3 d: a
* b& i4 [: C9 c$ V: d 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。 # m3 e% |+ }- _ c7 z4 Y/ V0 U) R1 A7 M% f1 B- o5 @9 w
しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。% t' N# `$ a) ^1 G1 `8 S
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トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。' _3 ^ A1 Y) N2 `3 j
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天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。 % H5 p3 i+ l, v% T) X9 [' t( t1 X' K8 }. y, G
計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。 ) [0 L# q5 ?2 {+ J" _0 g5 }! u
その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。3 z* p8 L. U' @1 m" V
+ R% d4 P5 s( T, a, z トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正)2 w. O1 \# O1 S( c* Y
, q1 d$ b( D; k; q+ Y
■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。0 C- n5 @2 k* Z {& J0 _! Y3 `8 c9 a' d
- K! S1 x- U, l& l# H报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 / s/ L* ^4 O1 `2 r( u
) t0 B6 z3 d/ h/ I* E0 W# u【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告9 }" Q8 _% t8 P. W. m$ D
0 S7 u2 I& r1 Q5 t- m- [9 @- y
1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。" U: _+ j% R3 T3 }6 O9 F* o
1 d" e+ e! A1 M2 i手法は毛沢東に似る ; o- }" H) K5 O& b( a; Z \: }9 j8 J7 t
しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。 " }0 {! i% ~, V A# \ , y d9 |* L8 Y/ ~; H 「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」 R. g ?. z; H
" n& {) {* K* j8 J* ? 牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。7 m4 b( y" _5 o* L0 W. r
* {9 G" r! q1 {
陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。% n: L" D$ r( }% ?) n# k9 ?# ?5 s. F \ `
$ u2 j! C5 @6 [* a
講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。 m1 `2 t1 S) q s
4 q0 D* Y1 F4 T7 N
トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。( I+ C' i0 h$ @- F( \; m
" t7 z' p1 h* M& `8 e このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 9 z9 u3 {6 M1 w7 E; i' ?) n7 q [2 X 9 Q5 l% | a; U5 V 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。3 T6 v! g+ [. J9 N" g q
3 b+ @1 n6 ]- x, {# y 毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。 ; c! m) ^; |8 H, [1 w: {6 U & P2 T" U- B1 h6 z# X9 C) u J, ` 林彪事件である。 $ J7 U7 [) a( E3 w1 b( {: q Z) `3 v' \; y3 M. V. S- @ H; A9 l `
冒険せず何もできぬ # A4 r8 X9 D' q# T$ R- g$ J, ~8 H7 K6 h
トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。" b9 t# A% `- x2 Y
- Q8 O, }; N8 U7 u2 @ v2 `6 V9 ^% }
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。 % w' c! P2 E. K- Q* V# i ! n: v1 a8 R& n: p4 p$ w' f トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。 6 N! F% J! m3 i! Z7 E3 p8 R# v ) E1 }- H8 p% Z 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」 ( k. P9 Y4 ^3 W: Q! E& ?) ~$ L+ ]' Y$ I _. h/ r
後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。$ b/ n- _4 e# D' f2 e4 ~ B- j" x
* `/ a' G' N4 Z6 F7 P! ~3 x トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。1 N$ R% f" ^: h6 \
2 A3 z3 x, e- E, A" p& C2 }+ p9 e
トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。 7 g; I9 e, R; z7 B' P! n0 f( H2 a6 G; d' V
劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 # O/ P- n( ]" P# E' B& u' t5 J- r/ b/ \3 c m" I" N: \
天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。! X* \* M; w) p2 {
& y& d. ^+ A. z! I! y しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。5 w( q" Z; u' C3 E
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トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。5 J7 i% L+ |1 ^5 V# I( f6 h
: j/ ?+ i+ c8 m4 B% @. F3 x それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正)' n. X2 { H" I. p1 A9 n
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■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 * e- t# \% P6 _3 s. M9 o9 u( \. D+ |. V
1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。4 P3 r1 }& Y7 C, E- r
) \2 Z3 z5 e/ u. m% z 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。+ h7 E2 w! K7 I+ y( a% Y
4 X# u5 d- F6 a3 w: X$ g# T, j 本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。6 ~# {* [- H) r$ _. }
% W* d+ E: V$ X+ \- @7 w2 H
しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。 5 d6 S, [2 s8 N3 [) W( |+ y 9 Q7 k; }+ w7 z- S$ X9 M 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。 / w( c" N( }* I8 u5 [ ( u1 t* L4 e5 \ i4 C 私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。 6 ^7 v0 C* A! B) o! t1 R' ]( a/ H. r9 w/ Z
その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。 ( `+ p6 h2 S: [- C" { ) R+ t5 j$ [( a: e( h そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。; M, _7 J! g& A/ I. X
) p# n0 F: ^1 ~# I8 D9 u 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。 ; } f5 x+ G b" _. p7 F # j2 e& \. \3 e" i& q べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。) F% Y; \5 J/ K6 G, H
' {. H$ P3 \, Q+ f トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。0 K& S1 v$ n! d1 r
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米特使が秘密訪中した ' b! o5 b" c" M5 Q 0 e" R9 G+ C; C6 ^! m" p. F/ |3 @. O 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。 & A2 s* T, c1 | N! b9 z- T 0 E7 y1 I6 z% m; ]8 K+ g4 r" b しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。, L2 ]& _# S, y/ I: e. _
# P0 N/ J, I" u# d ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。 7 i* p' W D- [1 m ' r+ T, A: K- f ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。! }- s7 [+ n: [6 ?! [8 d
& f7 G# y* c3 G6 _ } 「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」 7 M. N- H% f. G4 x7 U4 @) g5 q1 b$ u; E) [5 |( W3 T, U
中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。% R& r. L0 s1 Q
7 k) d% b6 Q, l) N トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。 9 O/ e9 ^) @; E# N r7 x" \ ; W3 f; f% B; P. b E 「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」 1 P/ _3 \6 Y( X# P9 v0 r) ]2 q 7 T5 C7 p0 P& [+ v7 C1 S 米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。 * Q2 ?4 ~3 x7 b9 x: t" W8 R& Z# J, x5 d/ x1 A
北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正) H1 C+ R. m) q( ~8 I* J0 d) ~ L0 _$ F U- s
& G$ ^; g* o0 V+ Q◇ 2 A9 P+ |7 q) ]7 g( p1 ]- O l/ ?+ I6 c+ o " T/ s& a) e9 \- m. H【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。- c# d; c% W; e" r! J e: S
【トウ小平秘録】(36)第2部「南巡講話」 瀬戸際の改革 9 A+ v, [* T3 P5 ~7 R* Q9 T
6 Q: c& r% @ {( l4 E4 h) K$ O
1989年7月1日、米大統領特使スコウクロフト補佐官(肩書は当時、以下同)とイーグルバーガー国務次官は、極秘裏に北京入りし、翌2日、トウ小平(しょうへい)氏と会談、李鵬(りほう)首相らとも会った後、同日夕には帰途に就いた。; A) z+ e7 f$ [1 C7 ]$ a( j6 x
6 j7 |% L, Q3 b G' f x
軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。 , n8 B) S% D6 N! a 6 C+ j0 A. [ k2 K( ?, a ! x! ^, A9 ~ y" m h/ S& z米中関係の危機だった g1 l& c8 e) y% Z# u2 S ( J, b7 J! S( z6 H8 c! D" n& ` 前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。$ W# j5 m* i* N" O! n
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「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」5 w) S' ~. ]* T
7 p% L p& z% K% O' N9 K7 ^+ w 「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載)7 _* y) @- h7 @' }: z
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天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。 - J: x4 Z, n" h9 ^8 ^8 U9 ~, Z! G) u, o( n5 x
雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。9 t6 ?$ t( M5 P! P7 i: H! q
, w+ `3 L" N4 ~) X& K v: y. n しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。' \2 g$ e. G9 t& L
" E, L5 ?- D2 b0 d その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。8 O& ?. s& _" _) ~# l: F0 P
' y; g, \% A% `5 ~1 t0 Q4 u
米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。 ( l$ _. c% i/ N/ u; ~ ; k ?0 ~; z' M) K) }0 Q 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。: `7 r$ k# ?3 V, Y" b
" w3 G" T" \% J5 R, k- L# D/ L- o8 H
米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。( `* U2 d% ]9 \* t% s7 a8 C
5 j, y# Z5 e: F) X0 I9 }& X9 | 79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。 1 S1 L: ~$ c8 \# B. O 4 g7 R0 A2 ^/ H* w( Y0 q4 B& L & x! z3 ], p1 e! J' _1 p弾圧も正当化される% {+ J7 b& [, U
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外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。8 `% e" z+ G, z" u% r
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後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。 ; E" T* T0 n( @; q2 g- b, Y5 A1 X. L y; w! s
理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。% m& z) a& n& q" B7 t
6 v( q5 m. J+ B! S: M' p) \/ N( o (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。) u, D1 @& C# J1 b
; N' h# ]1 F, h z8 [天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時) / a6 B. |! H# | S4 t. ?2 H ( E8 L) V7 c$ P% N, t8 V - R7 m! T% e% Q4 f' U0 Y1 n: s/ [5 R1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した
【トウ小平秘録】(37)第2部「南巡講話」 米中秘密外交- B1 N1 w% _( W! Z
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■へたな妥協はできない9 N) Q. P8 c$ [* i' d O' s
3 J+ A4 {8 ?6 }, g# h" a/ U* e 米国の対中政策は、ダブルスタンダード(二重基準)とよくいわれる。1989年6月4日の天安門事件後、ブッシュ米大統領(現大統領の父親=肩書は当時、以下同)による対中秘密外交も例外ではなかった。共産党政権による最悪の人権蹂躙(じゅうりん)を声高に非難しながら、その政権と陰で手を結ぼうとしたのだから。 9 G# k' B0 I2 n; p, V; ` 5 N5 v7 W2 g5 L* C4 j 当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。 d7 X* G0 [7 s5 o V+ K
4 T2 {, p& U, X 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。7 Q" Y6 d6 @ d# f" @! h+ j' f
1 C) V I- Z1 D0 j1 P8 V スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。4 {1 v D- B1 ]* ]% h: A
5 `/ G; N: H0 y- p" t+ \& z+ q 銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。 6 V3 I3 O$ X1 T! K/ W: | 6 }8 J9 `' D5 ?( P. c# b+ Z4 y 「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」. S- D; p9 x# _0 ^5 `) @
* V G. F4 \/ `) M
トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。 , j3 j, t' x5 s6 d; c0 U* m% X. @" k4 t, l; Z; k) M0 m
トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。, e7 i0 L' s2 b9 S; p6 T& e
, S; M/ s2 m5 Z$ B2 ^$ q% C) D- [ トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。 . c! s' d8 O6 _4 p& Q$ S H/ O0 @ ^+ b1 x2 N. a- U. U; u( S* U 「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」" `. { Z9 @! Q4 |
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「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。 2 P) e" ^; n% Y1 r ) r$ E4 q/ f7 ]. H- { P 中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。 ( V( @9 X* |9 c5 ?; a# c) ^& o # _& D/ h W6 K- {' a 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」1 V& F( t- @" p. a I1 U
4 A6 Q& Z5 R" y8 | トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。 3 V% t& Q$ B$ \' L$ [7 Z) ]9 ^ 0 J, v/ _* r: g ≪3度密書を送った≫3 ]0 d& B0 a) U4 j" i
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1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。/ h( k' z$ E0 K9 n0 p. T. \2 g
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「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」 , x& P- X9 V. f; Y. ?/ M ; y1 x( R+ R9 B) z! J- e; P 関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。 + @# }6 S9 S, Q$ a" n% V% Z2 _+ l- f: _! ~! @+ O
「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」 ) s# H; P5 y, J! l/ [! u, F. c: e" |; P
大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。 ( b+ x" y1 _( X$ j' [# i0 U* `$ _4 t: _+ e2 v; B
それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。 " F; m/ G% s0 ?% k2 Y$ I2 c + w8 [& R/ w( z: F4 \4 H この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。 4 g, c$ R9 ~' \; @5 r) ?+ D, K+ e) Z" k6 I+ Q
その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。 ! ^" P3 t `/ p6 n+ }( p % g* B% r$ L! } 「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」0 y. O8 N1 ~0 [
- }1 t* Q5 u7 V ●=深のさんずいを王へんに 5 ^) x i! r Y' q: i5 D1 j; o B3 w% c/ O. n" t& v- b
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【用語解説】アルシュ・サミット% C6 ~% j3 x, a7 e
' Y9 F( G( V; ~" k, p 89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。 T) o2 Q( }% S9 Z0 z
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天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月 / w* `7 u% `) q4 r) t g U! L/ n6 V4 A* m y
# i. c. S/ r" g / U- Y: U, x) ]( J1989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相. G6 _) w' o, a+ [1 n) o% g1 j
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-21 11:00 编辑 ]