7 M1 P! u( G! @( r3 R! c一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。 ' i& i4 I. U7 T" u" B) ~- P, V2 F" {2 c; H* o M. Y
一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。 n5 E% V3 ~9 F1 V. I6 {$ a [+ _9 T ~2 J/ `- ^ p0 D
【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死/ I* l/ |) o& e; I+ d# p
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今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。/ t& A2 R6 g9 z0 V4 i9 A
5 S1 B3 B2 z; O w3 D$ r猛然とたばこを吸った 6 M3 B1 `1 \. \/ @( n9 M/ a " F i8 y. P5 f$ C4 `天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。$ {6 m( @5 O$ Q. v- j# @
- ~" f5 S& M" X7 U& u) Y 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。 / I# {+ N Y) `! h5 n5 k: z/ g4 b" q/ {& w1 @- z. r
当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。 ; [/ f o' i. g: m5 }& t* N5 P T% i. I
そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。7 A- N1 K+ E4 y# g
6 B7 A1 Z2 M0 E6 F, _1 f 89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。 f4 R$ T- \! u5 _
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予感通りに事態は展開していく。& y; M6 |8 H( e8 t9 r
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訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。 6 L% W$ B; b( X( S+ i8 a 3 H/ X2 @9 s, J0 c$ L4 M そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。 ( n+ F% }' M4 P" u , u, j \$ {! v( G 胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。7 W# x$ x. k7 L3 H7 Y1 q
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「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」' L% E8 ~! W- W
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胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。 . v3 w4 Q3 [8 I; z$ U, x0 Q1 j+ Q
胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。& s4 Y0 U3 X$ H. X K& ~3 e. ^
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半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。 # g( o0 F5 q0 a( ^* O( n) G' R x 0 Q$ [; n+ c7 R5 e5 M, k+ K むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。7 P4 h" C6 Z* X& v7 f/ ?" c
) `. e: Z: R) c, k5 N 「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。3 N1 m4 ] |! U
7 t, ~$ H5 P8 X, [3 f 天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。: F; V* N/ [1 V# s- q8 d' m4 {1 }1 \
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さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。8 n& ~- @. O* @. X U S% _
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その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。) y9 d7 ?8 J6 w
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(中国総局長 伊藤正)5 B7 D9 T( ^0 v) H! R- ^5 e4 z2 ^
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【用語解説】8大長老1 U1 _7 r7 m% B) t
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トウ小平・中央軍事委員会主席▽陳雲・中央顧問委員会主任▽楊尚昆・国家主席▽薄一波・中央顧委副主任▽彭真・前全人代常務委員長▽李先念・全国政治協商会議主席▽王震・国家副主席▽トウ穎超・前全国政治協商会議主席(周恩来元首相夫人)-の8人。いずれも革命第1世代の共産党幹部で、党内で大きな発言力をもっていた(肩書きは89年6月当時) ' U% C2 f* [9 G' @' L6 S. j - f% F2 ~% a: n6 {5 Q(2007/02/16 07:48) / V/ T9 w @ I4 V: m. E' ]/ P' |+ x
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1985年6月、中国共産党中央軍事委員会拡大会議に出席したトウ小平氏(左)と胡耀邦・党総書記(当時)
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭- I( f" P8 O, R
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日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。 * t" b6 U2 L! F0 U7 R8 l 7 [+ S5 Z. Q' Q! U* z 文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。 8 }: X+ b8 e0 i8 {% _ Q$ U, L3 u# R' Y 文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。 ( `6 J9 u, a5 j3 o& Z. u8 L - j6 Q( ?$ ^" ~ J 拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。 / U" V' Z0 L( C ) d0 \( t& l4 D1 G4 F; s 胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。( Y7 Y% x; _! i
2 D5 z [; S3 A) ] 「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。 - {3 P" K$ g- R- B1 i% O, M 5 f. Y9 w6 x" b5 H: S; I' P3 e8 H 根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社 . n- \7 X( k. t! g1 V9 q. a7 |; Q/ B ]& w6 b( ^& q【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ* g; p& B9 m: C/ |0 T+ v3 Q
- e" q+ r' r. X中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。 + \4 W6 M3 B) S. `2 w) `# Q( j* m7 x2 b" E0 K
その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。 + R5 L8 u o% |6 |5 x: c! K* Y- E N' N3 I9 k% |
国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。 Y7 b( D: ~; ^$ t0 t# s, V
! u" q% |# a& s- _' K1 M
前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。" F% n' t) S% l' n3 `4 t
; ?+ q1 \; t% [; b1 e 長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。' z2 x& D" v8 y! u6 X5 L
- O8 ?5 A' Y$ @2 y; p: R' N これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。 $ F: h& y8 H% h9 u, H" Y ! w c/ m2 L7 ?. e5 [- f& |- ?/ P 「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」 ( }0 l1 \* W0 G; P+ _5 N2 |9 V' W0 W4 n8 L
「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」3 W5 x" R, f3 e2 U) _
+ e4 b, `' @' K' d 同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。 V$ S" G& ~, \5 s4 z
* j4 D+ J7 _1 ^3 U- X 「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 . a5 m, P1 D' o$ }- v5 y: X/ E ) i7 i2 l% G6 f. U2 h' v 王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。) i+ ]% z6 z* o) j4 T
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≪胡耀邦は声上げ泣いた≫7 B* Z- _7 C: V$ q
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)7 F) y. c" O e- l
. U' g$ T V% k- T6 h 胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。 , C' A9 [5 u1 {! c5 g& _7 ? 9 H0 e/ U- c( A0 c& @ 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。+ O' U1 T5 J( F) \4 u
! t; [7 P* V/ X) M k
「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。 % }5 n3 `0 O0 r- z2 Q Q5 A/ |' H& r
その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。/ O0 b7 `3 M! ^- w
8 h2 T8 Z* ~, s 「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)& G: u. \0 _- I8 _! `. V
, @7 C! L N2 A/ s; n$ K 趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。! ~ l3 R' G# @" c6 w
; A2 N9 v9 J! \5 `" Y3 M
「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」) & `7 ?* N4 S8 Y0 E2 W/ h 6 \5 `3 b [7 ?2 @& g3 [# T 生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。 2 ]! X1 h. M6 A4 s2 u$ s3 n 4 m* I0 _4 a) o* \ それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。! B0 q& q+ S) |$ E1 ~
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「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」- H) ^- @7 s! W }5 E2 V
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採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正) ' m' \+ \. Y0 }( {; G0 ~( b& U! }# D
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■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。6 K- p" e4 j7 U/ p- V1 L
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7 o. M5 p, n; A7 s! s ~# ^$ N: o6 T" I" Q $ U3 w' u' Q+ V: f, ^8 Z. ^7 m外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市) ' {$ W0 c( R3 v7 D! F j ) h, e4 R( O- L$ M. o' L8 i2 U8 W) Y( e$ q' t. P
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1987年、北京・人民大会堂で行われた日中国交回復15周年記念レセプションで乾杯する左から竹入義勝・公明党最高顧問、王震・中日友好協会名誉会長、宇都宮徳馬・日中友好協会会長、田紀雲・中国副首相(共同)=肩書きは当時
' N5 o; i7 i. m, g9 C6 `9 T 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 % M+ L8 n) b9 Y1 t
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在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 4 c0 t2 d4 A- i % a% m' M) f, R 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 # S; e! g' b. c! I% J7 R. y! y6 a7 r. m0 I" u/ V
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China honours man who reshaped world# m4 w8 _% m/ x
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. ' M3 w; [0 ?% h& \ + J$ a! B; P" D8 ]# i( b qChina might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. ) w( r! @' k/ g% u
4 G5 d* B9 _. KBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. 3 D P/ @8 h5 n: X" Z! J
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His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. , ?& E! v1 }& F6 H' D. x* A& `( }$ @4 r: n
“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” ' l" c7 F/ `4 Z5 n: E) Z+ t3 J- x/ S! R# l* u2 a
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. . e& T* ?' v( k; W. }) ~. b/ J9 \1 ^
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Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 2 v7 ]/ g' l% W$ X7 \; z/ f
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” ! |5 H; i: J" V8 L* h+ L 6 a% ]2 x7 P$ r& ~9 WNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. ) B. E( ^- J+ ~, C7 r! C 1 ~9 n, r) {- O) q- jDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. 2 N) ?3 e; Z Y% h& E! R' G
+ _3 l/ J* {; GDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” ! W0 ]( G% O- e* Y5 E1 l
+ u; r4 o8 u, i o( DHe understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 7 \. H+ h* {4 `$ z* {8 j% ]1 h
) X ^- C t. a: n! z! J. g" bMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” , a/ K% I! C) F1 a% c) t
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Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. , F3 \: }$ h) P% ^1 R
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But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. 9 k/ d; O# H# {$ p/ c: b2 P" y- V' k9 b9 p5 T- ~8 Z1 r
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” / m+ \: G6 v% T' [9 A6 a) W" I4 J b7 _% x& t
Long road to riches * u) x3 W e8 o - o" X) a- C: RNow % m7 N. d, K6 Z: U# l8 E( Z R( S& W& z; C$ s# A
Population in cities: 550 million |1 R1 _3 } Q' Z $ K( R7 g7 w8 Y; IGross domestic product: $10 trillion $ I" A3 N: A C
/ @7 ]4 q# M0 i% z8 |% ?Oil consumption: 6.5 million barrels a day % i9 Q! [ S& [2 Q0 L- @* |- S1 k6 z% N0 d) _2 I9 j9 d
Exports: $954 billion 2 x8 o3 @: n' j0 a5 h. K j
) }" v9 w; m9 CPopulation below the poverty line: 130 million 8 F: ~2 Y' _! f& M l$ j& H
# Y* \, ?" V$ z% f& J
Ten years ago % G) B8 x- ~" n: } 3 i" s! \* d! j0 C! rPopulation in cities: 370 million - b) X# C4 g; i# E; [- C: a8 `6 j4 m; |/ _
Gross domestic product: $4 trillion 8 [% j" I, D% y" ^. X+ S6 w
, q8 J! C+ S, B. Q' j
Oil consumption: 3.9 million barrels a day + h9 e- q3 c$ Q ; E3 r' D; D/ M1 EExports: $182 billion 5 R9 W4 \& e: C; F3 i
, M0 N! X! K3 _, t; E4 Y
Population below the poverty line: 120 million 4 d* ]( L9 C) Q" X1 q
8 t% o0 v9 ^# t8 H- Z7 `
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies4 v+ o1 B& j2 F* P+ `" y( ^
0 y' i5 x/ _; S2 `: i' z J/ {0 U/ J# T/ ] s: ?( x. T“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 % J8 |1 @: [3 Y. `7 ?! w; m: x) P6 v9 K; Q! a
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
$ i) X% @$ ^8 S# d1 V r, y+ p- f 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)- |" x3 K: O w
) {* e6 k4 U: |+ U- G この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。 L# ?4 M. T3 p9 n: m 9 A5 _* [/ Q; y0 g$ C 趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。 ! @5 F2 T6 H5 b! h- J+ E5 \: ^# M. J: x2 X u
中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。: _$ A q3 J! ]; Z
8 g( y8 k8 R" J2 n1 }! l5 W しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。( H8 `) \- d' U( z
3 @. ^: L& c! J# Z0 D この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。 6 N: Z1 p, U2 Z; }: Q& _, j7 \1 N+ S0 ?/ r. m( \
しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 ~& V* O" W0 @2 E, r/ a; m
. S& W/ h1 h- R% V! E# h 趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。+ s! Z9 y6 x" ~* n
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「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏) . [4 k2 Q6 a' |$ Y ! `/ T" q" o2 z6 ~2 ` トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。 + g- X$ ^9 S9 e% f& g; p* h. S" w& W
当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。 / e* j0 R( \+ F0 Q4 W, g2 c% o2 G' A) ]3 `: d
5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。 & z! f: s8 p; i8 H# u8 a2 q ) d% ~, w. _' V) t 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。0 B, K) }6 f* |/ x% v; K
( V/ e3 s4 E @ その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。( }0 m0 J0 g$ k2 F- E; @
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ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 ! F8 V1 R! Q* a( A / V1 I; ?' G" D c 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正) * e" w2 E; K' r/ x2 g# e# {: d/ A+ b; x- F _3 h& q# B
◇ / J% f3 V g* v9 a: X; M/ i& W # R3 `) Z H& m8 ~6 b/ t【用語解説】3自1包 . K) d; O" u+ f0 [# E1 y6 o# @; E. ^' k( @- M
自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。 9 c; ~2 I7 I* T) V. |7 p6 ^: P7 h1 P/ Q- z
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【用語解説】北戴河会議9 e4 d: o; }0 T% T) w# v7 D
; k5 V. I, x9 U4 D4 o' E0 e 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。# s+ {7 T) W* S5 w
6 d" v {, `6 Y3 L; j5 v 改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。9 T9 N1 k) F/ n) K, n/ h
/ h9 `$ W" o; } [! t4 N/ Y) ? ≪空白の2カ月半に何が≫ ) S2 L/ m. B A7 b: n v6 O% L: F F8 P$ N0 m1 E* W7 u5 L1 X# Y+ R! E' o! L) G2 K
「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。 + c. }# b5 c' r, X : x- _4 L: I, X n W# z. Z この間に何があったのか。% L+ V5 o( g0 x7 k$ j9 C7 _7 q% j
( K6 r8 C6 h I- t% N9 Z' s トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。 ], @% l. N/ E8 A' B $ K: L" O9 _. U0 Q+ s" H: g, s 趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。 l& \3 C: w) K" x2 \* i$ k/ F8 k
/ q; x' v( v' ^' I- ^; y$ x
新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。" D/ y3 I2 s# C' u8 x' F- r
, q+ p. c0 R$ m' j; K* A( n0 L5 w
学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい) / C) T9 m% R" x: o- M- a' l$ P' u) P* I9 U! r# h. ^/ b* G
トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。' O0 b; g6 }7 X" M/ V
: p: P9 @ C+ r0 [ このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正)5 X/ c; {7 S2 c$ u! ~$ A
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■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。/ B3 u3 ^% T# W/ D
邓小平秘录:邓对赵紫阳发警语说中国不能乱' F- v- f% S8 l5 V
(中央社记者杨明珠东京二十四日专电) ) h0 l6 C; m( k" u- J. l - \0 q3 a1 p A* a' }' ]0 }日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。 ) z; @- C- W6 p# H5 e( A- b ?5 t, {) r) W, c i, C. I
秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。 5 P+ W4 W3 r* V5 o% o5 j% s% P/ m/ {) k$ N& b
但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。 : R. F: w5 \; k$ @- K, S8 m : a& ^/ Y" x- P$ x$ T产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。 + [+ q0 J, x- G, X 9 h. y9 b8 a# s: J/ v) P秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。/ ~% s1 x7 o$ V( g$ [1 X8 \( A
. f" ]* k- O8 j秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。+ q8 a4 P" R. z1 l' z: N0 m
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秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。 0 g/ M0 h' `/ ^- C. d5 ~ o & F0 b% h, W6 Q# s# K3 I秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。' V" o, W8 b. o! Z
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秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。 % |' F( D3 B/ G2 q5 n% c 4 u# n$ t E$ x' o. m' b' F ?- D【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。: R, R/ M6 w- b! p
: ~" } W# d2 [& c9 G# F. y
その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。" J0 [/ y3 \7 s4 B* O. N3 c
0 S# c! D6 G# c) I5 l0 `$ \ 6 {! P1 @( F; U' p( e6 ]「中国は乱を許さない」0 |0 `/ f) A9 d! C: H' I9 k
7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。8 n; z$ m# O8 T" I1 ?- i( p8 E& ?$ S
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「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」 1 t5 s0 J2 s; v. L% a) U5 y( z, v+ O3 q8 Z# U- T p9 J# q
「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。& M( M; u" }* P8 e4 h, w' o# z7 x
h2 @- q, j; y2 i; p: F 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。 2 }2 o2 Y+ ^/ q+ }) Q4 D9 T 4 L) E, A0 k R0 V- O! i; W 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。 % [$ d5 C9 B, V2 \# |6 g ; X4 c- }) w5 I. g. x( g! K" {+ l; p 「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」) r: K' ^% `, a
N7 S6 H+ n ^. d4 P 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。4 a* X n& a7 g
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それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。! [- l, y1 u6 n5 G6 W
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当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。2 P# h4 n. F/ e; k$ F' P
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トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。 . l# @! |7 Y4 X$ z& G, S8 e2 h 2 M. m# M/ t7 ~. L! m0 I& g; h ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 , e8 U/ `+ g/ p! |: E& x" k* t7 b9 j/ n7 M6 y( h, y
「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。/ o/ C/ Y6 k: e# P' w2 N f6 h
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89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。 & h. X g% t; k0 S1 q 9 Z& }6 @ W) |* T" ?& y j5 |2 } 夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。 ! N$ m3 u/ |0 N T+ D- o, Z7 ] # t$ h, S" t+ K: S5 ~7 G* R その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。 + F+ q! S1 T% |( c# w B& {- }4 D: g1 R' S, `5 n
それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。; [8 R( S2 b& M: @. t: [8 ^3 t
( Z4 d8 b& v6 m% r4 O- Y 3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。+ p- p2 l/ }" p6 a
D# b9 R4 t* F' o3 Y2 V; }
「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」 " R. o, f. b0 P' x" l! C3 ` ) ?$ q4 b4 a2 H3 [: n: v* F& e8 o! l 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」. d" i7 \, r& Y; F
4 \7 y* M0 r/ I1 c( h それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。 / J" I6 s: j5 W2 _, z4 l' A& b* T+ }( w. y! U+ z6 ?
その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正) 9 C5 G( e( }$ o0 K! V$ c% W7 H6 ]7 y( m" f7 O: F5 e. T- D
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2 s, m. c0 E" X8 ~9 {! Q: _3 Z【用語解説】抗米援朝 7 _& k$ d" A+ f% t* _ " c; w: V g# c, u, W% a 1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。 3 h& N+ e( a# j" a; O) { . I; k4 R" C$ G1 f" N( u7 m" ^9 j$ k/ m7 \& A6 Z
~2 v6 B( v! l
0 D. b ]- i% y% v1 \# U! t: O4 g: G Z( n6 i5 D" I! J
( ^, M- i2 K* h; t- f/ q6 @. {- M# C' i6 E4 X* X! e# G
1988年12月、モスクワで会談する中国外相(当時)の銭其シン氏(左端)とソ連外相(同)のシェワルナゼ氏(右端)。中ソ関係正常化はトウ小平氏の長年の懸案だった
邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派 / Q" x U, [" f4 ~% G Y$ B: j9 b$ V: O% _+ D+ J9 ~% W/ \
日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。# P5 j3 x3 X4 |$ H* a/ `1 G, M$ E
9 b, u+ U# `! d! S4 K 文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。! b9 `- G3 U5 W5 m. x
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根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。 / \/ D) s; C$ f( z7 Z$ P. t) ` + E, P3 B$ h" {& R 两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。 / k3 \& n3 t1 a# V1 P, _$ K" i / R2 C' }. ?( ~( H 十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。+ K$ p4 B" e# h+ M" {5 U) f
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十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。 ) q* N4 y9 Q6 B" F' T 2 l: o M1 H) E/ Q' Z2 C 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。 5 q2 I( t" s6 K' P& c& t0 } " |& Y8 Z4 p# u# y1 r 这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。 T0 L& ?. a7 h) \3 x9 w/ {% l 0 A. ?$ o# i, y! C N4 O# m 由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 ! q8 |: g9 V5 {5 G5 Q) R
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【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件: G9 B! Z, A3 s+ x
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■下心ある者を警戒せよ' a6 l- O( e6 O2 L- |6 f
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異変は、新華門事件から始まった。 " ]) U3 a$ _5 f/ P! P1 {" e! j3 J2 D, }+ i2 e
1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。 ' K: L$ d$ e" T) |" B5 H" H% ~& l
それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。 ; S* F$ i$ e) ~7 ^1 Z7 U$ l+ g0 ?7 a. k4 ^$ T+ m0 n. v( v" g3 \
いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。3 W c2 h; ?% `3 F# D
P& l7 C" M" [" b K どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。 2 V+ b) c) B$ d9 h + v. ~8 U, r+ w v6 s# p9 _, D1 K# O 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。 3 k R9 n( n' ~2 u1 {% G0 g5 c) w+ ]" d. }4 o( b! m
楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。) q9 z* t. E8 M- }. `( c
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まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。 + W( f8 R0 G( O6 ~; w : R, m0 c% u I) u 党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。 * Q" w5 W2 x& s/ i # i' x6 O. }5 X' K7 m- a 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。# ]3 l9 a, m# l- k
- Q0 h) B9 g7 S7 S) M* a/ E 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。 5 _# y M3 t* Z; x0 Y: ?# { r" f# C. e8 Z/ _3 ~* X9 \9 n. {5 M 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。 ; R* k; r/ k+ j4 B% B- O9 B1 t, Z9 Y! Q+ {6 ]6 E. D# W6 E
この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。 0 J; f( f" O, E7 c( P4 P- _7 ?* E8 m& d5 B - i' y/ |# o6 l8 [ 「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。: b- ?2 h, W2 B
6 O i% y. C# Q. X. ?( _ 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。2 Y H1 Z& w- M, P
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全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。( W7 ?8 Y& r. P L( X- Y
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この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。 9 Z6 \* u) M1 B4 v8 E : C. b& x9 H2 |1 ~: }5 Q0 y0 c" O: m 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。3 d( ~2 u0 e& O
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保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正)+ d( y* f& r0 h7 o0 g( ?) J* `
' s# Z5 U3 l, [, p5 V赵紫阳对李鹏等重覆三项对策,并加上一句,强调无论如何必须避免流血事件,一旁的国家主席杨尚昆表示赞成赵紫阳的意见。李鹏表示赞成赵紫阳的三项意见,并指出若有重大情况会随时通报。表示没有时间召开会议的赵紫阳却于二十三日下午启程前往北韩之前,前往北京郊外的高球场打球。 U4 Y" _- a* E( ]" e3 S. Y* Q% L! w9 g1 y2 N: X5 x2 T( {* G( v
赵氏在天安门事件后的六月二十三日召开的党十三届中央委员会第四次大会针对李鹏指控他容忍放纵学生示威辩解指出,学生要求拥护宪法、推动民主及反对腐败等与党和政府的主张基本上一致,学生的热情贵重,社会各界的支持很高,他个人认为要平息骚动有必要回应学生的声音。9 w2 Z0 M M6 R5 M( h
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“秘录”指出,在针对学生示威运动是采取“无产阶级自由化”份子用来颠覆社会主义政权阴谋的看法抑或是学生只是为改革开放造成社会矛盾提出异议的看法,赵紫阳是立于后者的观点,和一九八七年一月被解职的胡耀邦是同一立场。 - ]4 M+ e$ l! S3 I _, G% F1 S0 F- g5 \. e6 h
渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。 u1 [) m5 C0 b/ h! c- q: o( K X0 W* i) r1 J! c
“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。 ) K) T0 {) t: X- |* o: x! r8 ]* ^( M+ E( U" J0 y
赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。 - {1 c) B4 Q1 C$ P% O% D7 Q, ~6 |. J& A7 f& o
【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択 1 U, N; h; q$ N( j" |7 I" x4 y, D1 O4 e( R0 W3 l* h* b
見通しが甘かった) a2 q; U8 D: F5 N+ k( q
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「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」( [' {0 y1 U, d3 ?9 v: M5 F$ V: D
3 {0 c' _7 w' l6 e% w9 c) |1 E 天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。5 l" B7 G6 z8 J2 _8 T: F
7 }+ |- G) j: M+ X1 _ 「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。 / N7 J1 D$ J! k" n # w* ?! z+ a0 v1 C 張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。 8 y: F1 I1 _: V4 R ( b' G* G2 X, `, T7 n 趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」: O* E' I0 x; P4 C, D# ?0 G- W
# J0 `4 J' b3 e- o9 K トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」' P9 z G) N$ Y6 d4 W
* E" s2 R$ u$ q) u- |" G1 t" r 趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」 2 T4 Q& C: f" \$ t: `+ w, Z6 I 0 S7 g' ^; R; p$ S トウ氏「結構だ」* W3 x$ J9 j4 B5 h1 i8 P: S
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趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」 : B) t l! `$ B4 W5 w: H9 F5 M9 @' u1 E) }# r; r* i
その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。 2 @! b+ c9 T! b' }, j 8 }* D3 U* f$ z& }$ ]9 | 「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」 # j( q* c' @7 _: Q) \& {9 Z6 f. I/ Q: R/ \
北京市の李書記が続ける。* {* f6 s& _* w
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「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」! b: p, J) X/ ^) a
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それに対し趙紫陽氏は言う。 # @# M. Z I: Q6 Q! N " u% d+ w9 z- Z1 ? 「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」 h; ]4 V$ K/ m% G6 z
9 ^& P; `) s% I8 Z2 O6 _( t 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。 6 I) f/ T: Z, `% M" n # s2 {( k! _% x4 R" l0 x& l 趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。, P5 Q6 p3 ~/ S/ s
; e6 p' B# c$ t* { 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。 * P* n4 C, t8 z- a; Q* G0 o1 |3 \5 i. p0 q6 q. T
4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。9 S; b F" o9 y9 q) u
: w+ H8 g; N6 W0 ?, L 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」1 A4 M1 m% Q2 o) u+ w5 t$ }
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学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。 4 g* M9 N* }+ v& I, k! u# S9 v4 `# Y/ t/ K
数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。 0 [8 P( V t& C G - s% r& P8 h( \ 「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」 ! B6 U; i. k3 Z1 }! F : p! K3 {6 T c. J0 p 李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。5 L+ H. ~+ H5 D1 R; M; `
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趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正)8 S0 c0 {# d" Y4 Q# n
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■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。9 F, h3 }! }! t, F# T7 y$ ?
7 p. y2 g& l0 o) \) g●=くさかんむりに内 ' o- Y. |3 S8 | 8 k4 ^8 R; d0 e! ?: d% t(2007/02/28 ): d- u. L5 ~" E. w- M3 @
: E; P2 }& Y! I' N; z8 L4 ~江泽民由于这项表现赢得邓小平等元老的信赖,是使得他在天安门事件后被提拔为党总书记的重要理由,但是,这项事件也引起知识份子和媒体界人士的强烈反弹。严家其等三十三名知识份子和北京的媒体界人士数百人连署对上海市党委的抗议文于二十八日发表,知识份子的危机感和学生要求报导自由结合在一起。 F: _$ B: z3 P4 N- u
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中共党中央意图以人民日报的社论和世界经济导报事件来收拾学运,未料反而造成事态的扩大,对邓小平来说是一大误算。赵紫阳在二零零零年接受新华社记者访问时指出,在一九八九年五月十七日决定发布戒严令和他本人事实上下台的政治局常委会会议上,邓小平向李鹏表示,不要再度出现造成他发动戒严令的事态。3 v6 c% X# r: Z" ^ N q- n' X
3 ]' l0 V/ q5 D0 k5 _4 N人民日报刊出问题社论后的情势令元老们感到不安,前全人代常务委员长彭真电话指示党中央办公室(当时的主任是温家宝),要求党中央自制,不要扩大矛盾。中共当局于二十八日改变态度,同意和学生对话,但是,二十九日,国务院发言人袁木的作法对学生造成刺激,因为获准参加对话的四十五名学生之中,有四十三名是与政府息息相通的官派学生会的成员。1 z. s, E/ T$ [
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正当李鹏等保守派被迫处于守势之际,赵紫阳结束了访问北韩之行于四月三十日返回北京,揭开了保守派和改革派激烈斗争的序幕。 : R" e9 O8 R4 V& r, v8 \, S1 V & c8 V, X u: w: X【トウ小平秘録】(18)第1部 天安門事件 発行禁止 ) z4 l) Z0 m# E5 n. \! `0 F; q" d, A7 o- V. q6 ^
故胡耀邦氏に対する学生の追悼活動を「動乱」と決めつけた人民日報社説(1989年4月26日)は、学生側の反発を招き、27日の数万人の大デモになった。デモを取材した記者たちは学生たちの掲げたスローガンに戸惑う。「共産党を擁護せよ」「社会主義を守ろう」が前面に出ていたからだ。, H0 |* C. D9 y$ M
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これは、自分たちの活動は腐敗や不正をただし、民主的政治と法制の確立を求めているのであって、反体制運動ではないと訴え、「反党・反社会主義の陰謀」とした社説の逆手を取る高等戦術だった。そのスローガンは、ノンポリ学生の動員と一般市民の共鳴を得るのである。 9 H) q. ]) ?2 L8 G. L3 ~, z- v6 l4 u
後に「反革命陰謀の黒い手先」とされた独立系改革派シンクタンク「北京社会経済科学研究所」の中心メンバーだった王軍濤(おうぐんとう)氏(天安門事件後、懲役13年)は2004年に刊行された「浴火重生」(明鏡出版社)への寄稿文で、こう回想している。' k8 v5 a/ W+ C* O$ H* H
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「当局側が強硬措置に出、政治的粛清になった86年のデモのときと同じ事態は防止しなければならないと思っていた。胡氏追悼デモには、直接関与を避けていたが、27日のデモの前、北京大の学生リーダーから求められ、アドバイスした」% @ q5 j7 N6 @) H6 c2 V; M- p
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王氏は「運動の秩序を保持して鎮圧を避ける」必要を指摘、「スローガンに注意し、ピケ隊を設けデモ行進の秩序を守るよう」忠告したという。それを機に王氏ら研究所のメンバーは学生運動に対し、「観察」から「支援」へと転じていく。 " T& Z6 Y, R5 Q3 O* [9 s7 D/ ~. _: ?- Z$ v4 ^: E0 e& R# y
その背景には、上海の週刊紙「世界経済導報」弾圧事件があった。 8 l! H7 B! ]4 n+ l! s $ A. Q0 v) k. H6 @' e 老ジャーナリスト、欽本立(きんほんりつ)氏(故人)が総編集長(社長)を務めていた同紙は、当時最も進歩的な新聞として知られ、北京の中心部にあった支局には、改革派知識人や外国人記者が自由に出入りしていた。北京社会経済科学研究所との交流も深かった。* u! _8 l5 @+ P+ X9 }8 C" x% w: ]
8 c" Z. \7 ^" p1 U/ I. w 同紙は、4月24日付紙面で胡耀邦氏追悼の特集を企画、その柱として19日に月刊誌「新観察」と共催で、胡耀邦氏追悼の座談会を開いた。著名な知識人20人以上のほか、胡氏の長男、胡徳平(ことくへい)氏(現党中央統一戦線工作部副部長)も参加して故人をしのんだ。0 h4 t/ L9 V* x2 y/ E4 H
; |1 U7 l! b/ H z9 ~ D- [% ~6 w 問題になったのは、中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏や「光明日報」紙の戴晴(たいせい)記者らが、87年1月の胡氏解任決定を批判、名誉回復を要求する発言をしたことだった。 8 Y( e) x! U, n. o4 `# o ) c/ K, p! A8 Y7 @ それを上海市党宣伝部は23日午後、校正刷りで知る。陳至立(ちんしりつ)宣伝部長(現国務委員)から報告を受けた江沢民(こうたくみん)同市党書記(前国家主席)は、宣伝担当の曾慶紅(そうけいこう)副書記(現政治局常務委員)に、問題部分を削除させるよう指示する。- a; |; F% O+ w3 c% S0 f
% {2 z% I9 V _$ T しかし、欽本立氏は拒否する。輪転機が回る中で、やりとりが続いた末、市側は24日付同紙の発行禁止を決定したが、既に一部は発送済みだった。江沢民書記が欽総編集長を解任したのは、人民日報の強硬社説と同じ4月26日だった。6 B! n. Q+ F+ l2 Z# B3 F$ c
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この事件は、江沢民氏が天安門事件後に総書記に抜擢(ばってき)される重要な理由になる。トウ小平氏ら長老が解任した胡耀邦氏の名誉回復を決然と拒否する措置を取ったとして信頼を得るのである。 5 U, i' d$ c1 M8 `4 f9 K D" s+ s3 h, q1 f9 L& M
しかし欽氏解任当時はそうではなかった。知識人とジャーナリストの強い反発を招いたのだ。厳家其氏ら知識人33人、北京のジャーナリスト数百人がそれぞれ署名した上海市党委あての抗議文が28日に発表される。4 f! I3 b- W F2 u& X
7 Y# [2 L9 ~) n) } そうした知識人層の危機感は、追悼デモ報道に不満だった学生たちの「報道の自由」要求と結びついていく。人民日報社説も世界経済導報事件も、事態を収拾する意図に反し拡大させてしまったのだった。% \ ~8 A. l% T
m) s) v8 a- T- L* n$ Q; @, s" e それはトウ小平氏にとって大きな誤算だったに違いない。: ` o/ ~% `5 j/ c2 g/ m
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趙紫陽氏が2000年5月に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者に語ったところによると、戒厳令発令と趙氏の事実上の失脚が決まった89年5月17日の政治局常務委員会で、トウ氏は李鵬首相にこう話したという(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。0 `6 A" J0 Z/ v' Q* s- n r7 i* _& q
3 m' B) T. G1 T$ R" s& ` 「わしに戒厳令を発動させるようなことは、二度とするなよ」 , O2 K' l0 \4 i( s$ y" a. B; t/ m5 x' p9 |' H6 w8 p4 }
人民日報社説後の情勢は、長老たちをも動揺させた。趙氏によると、彭真(ほうしん)・前全国人民代表大会常務委員長は党中央弁公庁(主任は温家宝現首相)に、「党中央は自制し、矛盾を拡大することはするな」と電話したという。4 A4 S$ v8 V# R, N7 s+ V' S2 y
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对 + Y" u0 ]2 n4 p8 v6 S6 a% E7 V1 h; i, E' W
(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。% n/ z7 f% r4 J3 z
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由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。* U2 y8 Q/ s& r: U5 |2 ~5 U/ Q, @
“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。 ( j2 k# ]( O' C+ \; v) R0 y( N- k3 l$ e6 N" ]* R
“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。 & E4 f( m* `' I# `( I' ?, ^$ w, t1 {4 z. f
另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。' `% B* Z/ f& `. Y' |# v
" z9 d- c" x* r4 c“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。 % e% N+ P" _2 P. h O3 z; l$ [ 4 N% S1 ~+ F6 s' K) M j“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。; o" d$ U1 m5 O+ m) H, z+ d
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于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。 8 p) O% R% C, Q5 U7 k2 ` C4 t z, F+ [不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。+ I( {8 ]+ t3 R% d5 \" e
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“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。 ; M5 _* U. |# S d" ]' m5 c( K$ }* r+ _7 M
【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 9 u+ r4 P* Q; U/ N) h 6 N2 G& _9 R2 K V
■指導力 試される4 |2 P2 f3 ?1 ?1 c" a; O' S! ?
- P) J5 R- @* d9 F- o1 ] 1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。 % P* J9 j9 v5 B4 a b; r3 Q! Y$ _, N, ?; }0 S
23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。 # B/ i; S8 P! H; C ! M8 O6 e7 l, T. R- p 「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 % X/ A# k5 x! f+ ?
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「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」 8 J% |- t2 a' _% X* x& t, i/ k' e2 F T8 B: R
5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。) b& [; t+ j% I" @ [2 ~
! e# G2 b3 b( b4 F5 E2 O 趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。; {: Z5 V3 {" R6 j! Z
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会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。 H9 P9 ? _& P( J, Q
& d0 t- F2 j' a2 ?6 x% U, x4 R 一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。3 A$ Z$ a' X( C
* K+ G) H% }( V( K% p" N; y3 h 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 5 Q2 m' Z) Q) G; ?+ c! j3 w8 C ~ ( J# ~5 k* P7 K$ _ 趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。+ n: M$ X' `& V. b( k3 x
6 K# H+ r- Z7 J( ?$ g9 i 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。 + f9 C0 ^2 t/ _* y& C T7 ?, B( b) R" N( L: Y1 D
「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」 ; n# _, ?9 Z- J2 H$ k 9 ? m; J+ F/ r8 a. ]. R 中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 Z7 x) u6 Q% d; e $ k( j. L; X# S 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。8 G! N, c' Q4 p* C/ B
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「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」( _- {; ]* D* A9 O5 b# p- ]
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学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。. S- c1 Q) ]7 Y( p4 O% M; q* j) `
1 |6 g- d! z3 i 趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。- o. e5 p/ x; E$ @
* q0 ]7 L6 C6 |6 o& q, V 会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正)" q# Y2 z; w( R
5 d" v c1 M' X! u- h ◇ ; J, U1 U% O, }2 b/ q; M m 9 B. D+ `; H+ B& q& c$ l【用語解説】五四運動& s Q+ R" H; Y
, f) d! O9 K9 { 1919年5月4日に北京の学生らが起こした反日愛国運動。第1次大戦後のパリ講和条約で、山東省の旧ドイツ利権を日本に引き渡すことに政府が同意したことに抗議し、学生3000人が天安門に集結してデモ行進、親日派官僚罷免や日貨排斥を要求した。これを機に各地に運動が拡大、学生や労働者がストに入り、政府は講和条約拒否の声明を出した。; P0 H& m4 z( \7 n6 N& A Z) F1 n
, x: e' \8 S7 \4 O. M赵紫阳为改变社论将学运定位为反党动乱的定义,打电话给友人、新华社香港分社主任许家屯,请他来北京一趟。许家屯后来发表的回忆录中指出,五月三日和赵紫阳见面,两人对情势的分析和意见近乎一致。赵接着提出四二六社论问题指出,常委中,乔石和胡启立赞成他的看法,问题出在李鹏和姚依林,拜托许家屯协助拉拢与邓小平有深交的国家主席杨尚昆。 ! e9 T- i: g$ t/ ]$ E 7 b4 S q% m. \6 u ^* k; Q五月四日,许家屯前往杨尚昆家,杨完全同意许转达的有关赵的看法,并称赞赵紫阳对亚银代表的发言,但是对要求邓小平改变四二六社论的主张表示有困难,指出他可试着向邓小平说,但以邓小平的性格恐不会接受。: N: z* W( W$ k2 N" z
/ O$ s. D! d, V* @# |人民日报副总编辑陆超祺的“六四内部日记”指出,五月四日,社长钱李仁通知编辑部,赵紫阳的秘书鲍彤两度来电话,指出赵对亚银代表的谈话极为重要,要求在版面上大加报导。人民日报在五日以头版头条报导这则消息。 & |+ [$ X$ Z! J- @% r K5 Z% P2 e6 P
赵紫阳在五月三日的演讲,四日对亚银代表的发言内容都是鲍彤起草,反映出赵让学生运动迈向结束的强烈决心,若是成功的话,赵将可重回权力中心,出现全面推动改革的可能性。赵紫阳掌握趋势是事实,但是,挡在前面的四二六社论是道很厚的墙壁。; }* T A! E6 P* _0 b
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前年秋天前往杭州别墅静养的保守派大老,党中央顾问委员会主任陈云于五月七日回到北京,不久,保守派开始对改革派进行反击。- a! X2 l8 @% Z( x
0 t+ m% ?1 p3 \1 I; p. X8 f/ A【トウ小平秘録】(20)第1部 天安門事件 幻の柔軟路線 : [# u" L, b8 C. F5 ]# H 4 N5 f& {1 Q& ~, ~2 `! E$ G8 j ■厚い壁、立ちはだかった ; d8 g0 G6 j9 r' ?4 c$ Y / J9 {" t: K) t, q 北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。 & `& p/ D: @, _$ J% B 0 X. D) T/ f/ w4 n/ J" s この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。9 j2 D: U4 F' e# ? M
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趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。 0 t6 G$ N; w# p) y2 j$ R$ E ~* X t: a- Z5 ?& g" i
学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。 R* ?' n( K' K" W5 X6 j 8 m" p* i3 J2 D, t- D 学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。 8 H% U, E. |- D) _/ w: R( ?- _2 b) L6 F9 z! ~! F3 r( q/ w
「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」 $ f4 Y3 t; A; L' J9 Z1 i% G3 d2 S8 J & I8 D3 g& |. i- [# G 天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。; N3 {& ^: L: j
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口1 z' Y. @: d6 v3 z1 b3 r
中央社 , O' q8 n. P' S% F7 E* W F1 r 1 H) @0 P) j }, @/ C) E( | 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。4 m6 i8 q& G; C7 ^4 N# w( l7 i
- c8 d9 V' ?9 T' R9 {/ u+ V 「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。 3 t/ Z9 o1 A, W6 a1 i ]( U" N: l- S9 r- B- M( S
「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。& e- V7 R! K, Z5 q
3 a# F! Z, B7 [. o 王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。5 V8 e2 w, s/ R- {% Y9 |
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; B6 ?3 i. ?0 v- ? 但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。4 }( j4 N/ x" f5 O; f, {* y8 e
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王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。' w& D" g% T2 o# S7 O
7 I7 I" W& B7 e) {! n 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。4 k7 S4 x. G* M. m
' X- x; f; V- a2 M; A1 U4 |+ C 就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。 . p, T; Q3 Q- m4 _/ k& R) } 7 z/ r) i2 k, _- F 邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。% O% b, F0 {/ x# G b& N, q' G
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对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。 , J6 k1 E Q m* a9 ]! @ W7 x$ `7 r+ K0 i
学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。& d9 z1 Q5 }) b* i- q
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# B1 O% s6 U3 t# W! @【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言0 T! q8 a" S$ k/ j2 W; m! I
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■急進派が押し切った" k# U7 Q+ `4 a8 ^
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1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。 % B8 {1 A, E0 V! v$ d9 a 7 @. V: R! W$ v7 ^% h3 T 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。 ( V. u% L$ D) Y" h m/ y- b 4 U. ^) U. S, b# ?2 G 同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。; a' L9 K$ z4 P
( a1 V: U3 `( R9 B& n しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 . N( i* N7 x) j$ Y* X& ? * k, y: A- }- {' r 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。 4 @- v% o" X9 y! J; x e0 ~& \ - O5 ]1 W+ i# ?0 V2 B7 E5 |8 F それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。8 L$ l1 G8 a8 {$ C& r
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宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。 : B) g: H, I8 d- D: `1 q- C 4 K m6 E3 ~! s6 b$ U3 C0 ^( }: b 王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。 1 T- e1 Z( V2 J0 ~+ f/ [/ s0 h2 F# a& L
在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。 ! x# y$ |" t4 H8 x1 \* d% h) b # s# q* p& y7 h2 E! t* F* i V 李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。. w0 \4 W) d4 M$ J4 `% v! I
K9 R" D4 u H+ `# U; q( h 14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。, X# x; C3 N7 D5 I6 }$ ]* I
0 P$ ], @7 G+ v) V5 h$ A$ d 政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 % U: z7 y% _6 U. [- O( S , A2 M* v9 l- [- z+ @, r 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。8 E; @6 F1 x& D1 W! S* }1 q: [( k
9 c: C0 M# @2 g1 b それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。 : g( W6 k5 J: @* Z; T8 g' R% g5 r) ~9 W( A( v5 i
趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。* h: @( L3 z2 \$ a; E& f. o4 l
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14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。 n, k9 X6 R: A# m
2 ]! O# G z. ~- D& B; I 絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正): N/ i5 [5 c5 i4 N2 z) k% A, z
3 F" t3 w9 q% m5 O(中央社记者张芳明东京九日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月十七日下午在邓小平家召开的党政治局常务委员会扩大会议,事实上决定了北京宣布戒严令和党总书记赵紫阳的下台,赵紫阳在会上反对戒严令而表达辞意,显示他看清戒严令将导至动武。" T1 s' m; H+ G3 T6 u
邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了# f o( \2 |' o1 {0 c+ j
中央社 , J4 \8 |9 G/ p8 I& s. Z6 F4 D+ n1 A! o' U8 X
日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。 2 e3 w/ j, J1 @/ z+ w8 }% C# [! J9 U4 [ _5 H# u
「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。 % Y$ A0 _& s% ^% u0 c1 D/ D, V m5 T ! X0 x3 S" m% t Y 张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。; D8 T9 N9 R- U0 a M
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天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。6 H! ~' t) W; W3 |; y
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学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。$ ]: {3 L! _* r% C/ F1 D
* A8 b2 t3 w+ g8 o1 H# {# M 「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。: n) ~* T7 n% I4 h6 P7 u/ E
1 \* W2 y" M I$ z: ?4 ]1 E: h, {; _ 担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。. G4 ^$ d' D$ p h/ c- H, X& ~/ i# {
/ N9 b. o. x r9 Y: O【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令 $ l0 R! f6 i4 L& U2 f& _: b/ A & s7 |% P' a7 a3 I7 e5 \7 l u1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。1 S' Q( t& ~- q8 i
/ N! ]. @/ e/ K. x6 A" K 「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」5 Q6 q) C& {$ `% w& C/ T8 Z: e; |! s2 g
9 k; G# ^* Y, {2 q 1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。5 k+ `! N) p- j3 Z6 |/ b+ m# d
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この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。6 D: y2 z. e0 j- _+ [1 d3 ?+ J U
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李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。 2 G; A% z6 Q! \* D D# d. J! C0 h0 A5 @* ^) \" m* d, G5 R
≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫ . h+ P4 Q. ]# G4 F, `9 X$ Z7 v/ k; S4 O7 ]2 |0 ]) C& A0 l
その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。 * [( M+ s! [* A! O5 P8 v: ~5 O& Z9 p7 i8 k) ]: t
若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。, @' p' ?9 h) C/ m
6 L8 J: N) A! p5 V6 M 動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。2 E0 h' D' d1 U! B3 T
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楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。 8 m) I |$ f) w; Q: g/ Y. U4 O2 V! b D: b) |
戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。 9 j H! l! k. T# F3 a _9 ?- C0 x6 \! R9 d3 x8 \2 L
「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」3 {6 \% D9 s- H& I
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人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。, g! ^# [ c* P2 l3 w: R5 k
7 h. g3 q: V6 J' K 8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。3 u) L1 P2 h) X) D0 K
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掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。/ G( P. v- i, m0 t) ~
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同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。 2 J& w2 w, Y; W+ D. J * s# z7 {- @8 O/ y! S その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。 # S2 |1 s5 w- S* ]7 ~! A% Q 7 O+ W- B! {* U4 J: u 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。6 h4 |5 z& Z! L# F+ M
: m/ [0 Q2 R0 N8 w/ ^2 K 「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。 3 F6 t) K' U2 ^4 A ]2 X 4 J* P% t- Q# D& K* e 「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。; Q4 C& {+ O8 X4 y
8 X+ t6 `2 L; L$ V; e# ]# r3 d( b 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。 / ]& F8 Q4 j. u - K8 s1 m' Q: _, p2 n 「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」- _' B0 Y O5 S8 ~
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党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。: M+ T: j* O- ~. w6 o
0 X, P9 p3 D) E* N 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。* E+ {+ q% h: E4 D6 ]8 W/ X: i
4 T$ s2 c9 B0 p そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正) 5 R8 X# P) h! K1 Y$ u& p: G, l+ j
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【用語解説】戒厳令 ; D( f& `- N6 `5 C- p. J3 q$ a2 }! Y " L9 j1 }0 v7 |0 d A; I8 u9 e' b& G 暴動などの緊急事態発生時にとられる非常措置で中華人民共和国憲法に規定。全国または省・自治区・直轄市への戒厳令は全国人民代表大会常務委員会が、その一部地区の戒厳令は国務院(内閣)が決定する。89年3月にチベット自治区のラサで騒乱が発生した際にも発令された。96年に戒厳法が公布され、国家に危害を及ぼす集会・デモ、ストの禁止や報道管制など具体的に規定した。 : q& Q. O0 H% ^7 f6 G5 n5 a, b% p5 ^3 r8 v9 C
(2007/03/11)
邓小平秘录:民运对万里的期待遭到出卖# ]! Y5 }, u% X
中央社2 K; o' Z; W; A, g; e% t M
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日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,中国大陆民运人士曾对全国人民代表大会常务委员长万里表示期待,结果遭到出卖而落空,一九八九年五月二十日,中共宣布戒严令后,全无同意学运要求的气氛,使用武力的可能性日益增高。9 {! e1 r- ^# F, c4 D9 R
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「秘录」报导,新华社当年五月十七日报导在加拿大访问的万里发言肯定学运升高了社会对他的期待。万里谈话被报导的当天,北京有一百万人示威,谴责邓小平和李鹏的强硬态度,声援绝食学生达到高潮,中共宣布戒严令之后,民运对政府的抵抗色彩更趋浓厚。+ l" D8 Z U( p6 Y t1 \ n
& ^9 b) e8 A8 I$ \6 l7 f# R# C 张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳于五月二十一日经由秘书鲍彤要求万里早日返国,社会各阶层和学生对万里的期待升高,学生计画二十五日热烈欢迎万里返国,但是,这项期待遭到出卖。 0 [( a, R' u, P! ]+ Q 8 B- M/ F8 H0 k+ H% O3 c* g 万里虽提早于二十五日凌晨返国,但是并非回到北京而是上海。没有人相信新华社所报导的,万里是为治病,两天后万里表明支持党中央的决定。万里的返国问题显示元老主导下的强硬派正在控制局势,加强对各方面的取缔,并着手准备对天安门广场进行清场。6 W1 r6 V8 q; l- A
3 ] x8 A) ^2 y$ @2 S% m. T$ V$ v【トウ小平秘録】(27)第1部 天安門事件 緊急帰国& @& q7 W/ {1 q% s- D- P
2 R9 V, ~0 e8 ]. |8 z- _- V天安門広場での座り込みは続いていた。1989年5月20日の戒厳令布告後、学生側は北京市民とともに軍の市内進駐を阻止していたものの、政府が学生の要求に応じる気配は全くなかった。むしろ政府が武力行使に出る可能性が日々増していった。 , \" d* ^) q( c, G# m( H: l ! ^1 ^$ G2 `% Y7 Z3 C0 w $ f# d2 K5 w/ w
期待は裏切られた : n2 q1 [# a2 h& o3 J/ g8 H Z2 @0 _; s# R. }) s% Y. I
そうした中で、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長(肩書は当時、以下同)への社会の期待が高まる。きっかけは5月17日の新華社電が、万氏が訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国行動」と肯定する発言をしたと伝えたことだった。/ V7 o: W% v2 e+ ~% X, p$ Z; v z
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万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。 ! F1 } h" ~5 ] 4 n+ ]/ W5 a5 @; k8 x! {( ]/ z0 h+ d 万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。; `2 i; O: R5 \2 a w
* W9 A( N2 f% {% x しかし戒厳令後には、政府への対抗色が強まる。例えば21日に胡績偉(こせきい)・元人民日報社長ら40数人の全人代常務委員が署名、発表した緊急会議提案書は「法的手段を通じ人民の意思を反映させる」と述べていた。某常務委員は「李鵬をクビにする」と語ったものだ。 & x9 M- x. Q- F( h' v. S' b3 M9 D# k$ ~* b, O3 E6 ?( s
党中央の指導下にある全人代が党の決定を覆すことはあり得ない。が、万氏が帰国して全人代常務委を招集すれば、戒厳令反対の声がさらに強まり、形勢を逆転できるとの淡い期待が趙紫陽(ちょうしよう)総書記周辺にあった。8 K X7 r0 N7 F
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趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。( r: o+ L3 R4 g0 E1 e
) o& I/ w2 r! u: O$ ~& v また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。+ d, \( x& R, y8 M4 b" f
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万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。 3 D. z* n, u4 G8 E( M , L* H# o* |( T2 p7 c+ h& z: `; ~ しかし期待は裏切られる。万里氏は5月25日未明、日程を繰り上げ帰国したものの、帰着先は北京ではなく、上海だった。「病気療養のため」との新華社電を信じる人はいなかった。2日後、万氏は、党中央の決定への支持表明をする。7 y2 O! `( V# E1 O
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「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。' N2 W& o- j8 O7 \
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《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》 3 ?6 t+ {0 a% @5 f / U) ^' Z% U) C3 t8 Z% k 万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。1 h8 d- j6 x+ g5 ~
# ~! t/ M" s- M0 Z3 A1 e 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。 5 ~. o! P* Z9 D' T ( a" U q8 N$ G) G* a/ b その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。' m& c$ R6 a) V& C8 d
' `. v. f, w5 p0 V) U 楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。 ' Q. w. @ [1 O) g: V0 g% J0 {* Z4 z
長老らの動きも顕在化した。陳雲(ちんうん)中央顧問委主任は、23、24両日、李先念(りせんねん)政治協商会議主席、彭真(ほうしん)・前全人代常務委員長、王震(おうしん)国家副主席、薄一波(はくいっぱ)顧問委副主任氏ら長老のほか軍長老と会談、薄氏にこう話す(「陳雲伝」「陳雲年譜」)。 1 |9 c3 @/ o; h# D- ?3 M ! f: b8 X2 p$ E. S' O5 U P) I 「この局面で、引く余地はない。(デモを動乱とした)人民日報社説は、もう少しブルジョア自由化反対を言うべきだった。今やわれわれ老同志が発言しなきゃいかん」 ' p! ~3 N/ q5 \1 T6 {# F * F. a b) p. t$ k K$ ^ 陳雲氏は26日、顧問委員会常務委会議、李先念氏は27日、政協会議主席団会議をそれぞれ招集して演説、彭真氏も26日、全人代副委員長7人と座談会を開き、戒厳令支持で意思統一を図った。6 N' _3 r1 r5 v* D/ r4 j+ q
8 m* q4 C+ R+ }0 C* R2 [; l 知識人たちは、武力行使が近いと予感し、学生たちに広場撤収を説得し続けた。; m% K/ X0 l9 K, u
' Z2 a: l1 A! E1 L, c いったんは撤収方針が決まるのだが…。(伊藤正) & A+ c1 Z; {. P5 c4 E& O, J& ^9 w) w1 N6 |
■全人代常務委員会 国家の最高権力機関とされる全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の常設機関。委員長、副委員長、秘書長、委員で構成され任期は5年。年1回開催する全人代の閉会中、憲法の解釈・実施、法律の制定・改正、経済計画案や予算案の修正、戒厳の決定などを行う。 + i, j' A+ c/ M j2 e$ {) S , L' n1 f/ f- ^●=彫の周が丹5 q# j, e* T0 C" j) Z1 v
邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场3 h7 x2 j5 }6 B7 ?
(中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。 0 n/ J; N' M. x' n' o+ j- ~3 s. E
秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。 * m8 Y; {+ C0 R; w/ ^元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。6 ]1 q: b4 C5 y) ]- q5 [
! F6 d+ _5 z6 X# N) \“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。 " d/ r) P# M1 |2 C( D- v3 A& u } ! N# O* S" M( ?9 u. _4 }4 h五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战,2 j7 C2 l- m% ]
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包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。 . f& ]& f1 N2 L) K- P/ {2 l 9 B' Z- g* A7 @) d ?/ L“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。”6 \9 s) L4 |# ^
7 B" H. R! P0 w s4 G【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦 3 }7 s# b6 ]0 ?( o■既に退路はない & J q+ \* g. _" n( Y& V$ B2 P# C4 N& _
トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。 % M/ i5 b H& A. O- V* i5 R% g( S6 j $ @: E# h8 [# v+ c5 I 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。 " P: [5 x7 F4 R0 }& |# Z g9 |" s3 S' R( o& Y1 H
そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。! `" ~! c/ J+ L6 P" } T3 H
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政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。 N! Q8 z; o, A' W. q, G! f
. m6 l, {) G5 j! n x& H この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。: j4 w E1 {6 }. w# _
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「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」2 }& s% c7 t/ F# _' h3 R/ e
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トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。 9 k/ A j7 B6 D( p; W9 a: D' D 7 d9 U8 H9 j, ~/ E* e/ a 江沢民氏は5月30日に北京に呼ばれ、31日、トウ小平氏から次期総書記を命じられる。トウ氏は続いて、李鵬、姚依林両氏と会い、改革・開放を徹底、腐敗を撲滅し人民の信頼を得るよう話した後、次期総書記に江氏を決めたと告げ、一致協力するよう指示した。( o% d* j, t- _: c( Y- R
; d! V E% p( z; D( S 《「トウ小平年譜」は、李、姚両氏への講話を掲載しているが、江沢民氏との面談の記述はない》 . y8 Z G5 ^( [: g8 ^- `+ k/ ~$ m 4 x0 h- U; W. U3 Q 長老会議2日前の25日、新華社香港支社長の許家屯(きょかとん)氏は中南海で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と会う(「許家屯回憶録」)。 : W! P1 [: \6 P4 B) E6 F# g5 y) H E$ r% F, M* j9 a5 o
楊氏は趙紫陽氏の停職を告げ、後継者は未定だが、「李鵬はありえない」と断言した後、言う。8 p7 d+ x* p! H3 v
2 o0 W8 \9 k, c. E @ 「トウ小平同志は、既に退路はないと話し、戒厳令を選択、軍を動員して動乱を平定することになった。党中央の決定を支持してほしい」+ \' ~( w' l" W3 T( F. I
' J$ D) Z& w, v6 V. ? `: q
許氏はしばらく言葉を失った後、言う。* ]3 A; [) B7 R9 p! g4 k. z& N
" [& a5 g. z- H+ S4 p0 b 「軍を動員しても、万が一にも流血はだめですよ!」: Q8 L7 W" ^) M& {2 f
0 j' \3 R; p: s; ?4 b- X+ l. U" D 楊氏は即座に「それはない、それはないよ」と言い、こう続けた。 # D6 F. S4 e* g$ S# d6 y+ A' v7 i. ]2 l/ R
「徐向前(じょこうぜん)、聶栄臻(じょうえいしん)両元帥も同じ意見だ。彼らは既に中央に(流血回避の)意見を出している」; w3 N+ J% e9 N# {5 X5 q* U
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《55年制定の軍階級制で最高位の元帥に選ばれた10人中、徐、聶両氏のみ健在だった。両氏は武力行使に反対と伝えられたが、当局はデマと否定していた》* c" T* u7 n M1 n' H
* f' {2 v' c) I5 E! x3 ^
「真相」によると、5月27日の長老会議で、「動乱」の平定作戦の実施時期が話し合われた際も、楊尚昆氏は「いつまでも引き延ばせないが、流血は絶対に避けるべきだ」と主張した。. M7 [$ h5 d: u
+ o4 c7 x, ]" N) J" [ 陳雲氏は「流血は極力回避すべきだが、5月末には解決するよう」主張、トウ小平氏も「これ以上引き延ばせない」と述べ、政治局常務委員会に迅速な秩序回復を要求した。 x4 D8 d% d6 h5 o; ~# T ; J! n% y# o2 R 天安門広場では5月30日、中央美術学院の学生が作った「民主の女神」像が立てられ、市民の目を奪った。しかし座り込み学生は5000人に減り、大学が授業を再開する中で、学生運動は内部分裂し、消えかかっていた。! F2 L; d( A, O( ~* g" O x' D
. Z; t1 A3 J% V5 w5 o1 C, l0 p それを立て直し持久戦をやろうと考えた知識人がいた。北京師範大講師の劉暁波(りゅうぎょうは)氏らだ。劉氏は社会科学院副研究員の包遵信(ほうじゅんしん)氏や北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)氏らに、リレー式で絶食をやる計画を持ちかける。 ) c5 L; k. g. Q: S B' s & F8 d# z0 l# D2 b3 G5 y* }6 ` 包氏の著書「六四的内情」によると、包氏自身は、この計画に反対だったが、王軍濤氏は賛成した。そして6月2日夕、劉暁波氏、台湾の歌手、侯徳健(こうとくけん)氏ら4人が絶食に入り、広場は久しぶりに熱気に包まれた。. S% A/ C3 q, o
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その日の午前、トウ小平氏ら長老6人と李鵬氏ら3人の政治局常務委員が会議を開く。李氏の状況説明に長老らは激怒する。第一声を放ったのは王震氏だった(「真相」)。* N4 z" b# I1 d. z
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「くそ餓鬼どもめ。神聖な天安門広場をなんだと思ってるんだ。解放軍は何をしてる。反革命どもをとっ捕まえろ」3 b1 R" G6 B+ j9 p& j
5 C% }5 K) j7 k" d2 w& y: c- E0 ^ 李先念氏が一刻も猶予ならないと強調、「今晩から『清場(チンチャン)』(天安門広場からの学生一掃)を開始しよう」と提案。最後にトウ小平氏が言った。, p2 O! q: _6 P, T1 ^2 a$ H0 X+ H9 E
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「みんなの意見に賛成だ。戒厳部隊指揮部は今晩、清場実施計画を開始、2日間で完了するよう提案する」(伊藤正) 4 A3 D7 q$ x; M( @& @$ V $ o! u9 }, z$ ^% H+ S+ r5 l' [ ◇ $ V, L& D* o5 H9 V6 ^" V) u * P8 R. ~ a3 Z! j) B【用語解説】軍階級制" D0 s! m( Q% R5 j, S8 a0 U
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1955年に導入されたソ連式の階級制度。革命の功労度により、元帥、大将各10人、上将57人、中将177人、少将1360人以下、全軍人が階級付けされた。66年に廃止されたが、88年に復活。新制度では元帥、大将はなくなり、上将が最高位に。徐、聶氏以外の元帥は、朱徳、彭徳懐、林彪、劉伯承、賀竜、陳毅、羅栄桓、葉剣英の8人。 - V) e$ \+ O t $ i- k) W( j- f3 ]! r: u(2007/03/15 ) & J c% y/ h- j: i5 M4 G 2 d$ c) N9 ^* N* p# ?5 W6 u ' s3 e, k' ]" k5 |, d) [4 b1 |$ ?7 K0 {* x/ s
1989年5月30日、天安門広場に学生たちが作り上げた「民主の女神」像。米国の自由の女神像をモデルにしたという
邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态 7 I9 t; z, x) i0 y" Y ! c: g0 N( k5 @* ^7 D( n(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。 ( o6 a/ H; m. }, i7 g' m x, R: x 8 w' i) b) b y$ Y9 x“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。5 {, G# b# m) Q
但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。 # }/ q7 h3 |2 ?- o$ ?$ T+ W& N0 W' h# Z9 e6 C, j
这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。 d" A# z* h6 @; F' k
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三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。 " t2 w' n- C. d, w L) C9 X. k' D; G ; Y" r( B, s0 o8 b张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。8 \1 Y: U+ ?! ^$ e% Y2 \' c
% q5 A, ]6 N4 q“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。 7 u4 j, d- L i4 I6 t1 ^/ @+ g0 ^" @- X9 l" j4 x
三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。 9 v q) K' X( v5 N( ^- r Z7 k) P& t. I. W
就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。5 ~3 m. f& ^8 V, g
0 W' I. k7 e; S! y; l, p6 Sこれは本物の戦争だ 7 a8 B! u& d/ E( D3 h2 v5 } + e' u; T( _1 @' ^ そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。 9 a0 j( _0 A* Q5 | O0 a5 M' p+ P$ K4 w1 }, }
それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。 ; A3 Q5 K* i L8 t P% G; T( Y( s* h6 w# Z/ }; N9 p
3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。0 ]7 c) w, i; F1 |6 [, m$ r1 w
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「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」. V% }! d8 L( n3 t& U
' p6 E. j. r5 X. a6 m; W5 X" z 情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。! `- ]2 w3 \1 _/ O* T. ~( z: C9 V- l
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3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。 , _8 ]* ]7 X5 ]' A4 F $ s+ U+ A3 {" n 新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。+ G: J' ?6 {' A! F. s0 V$ N R# x7 H
- [* ?8 x: N0 a8 Z' r2 q9 ?9 L 3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。 6 F+ D& b* v" G$ q7 Q( ^8 I3 G$ I & e) C, L/ H6 m4 E2 H3 @5 v4 T4 G 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。 2 O/ |' b: E7 J. s9 E , b" K+ V3 U! G+ i( s 李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。/ J4 v) l3 n6 V* }7 F3 o
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「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」 + ?8 q5 F! Q+ g4 b% x/ x# r& O
楊氏は最後にこう念を押した。, p2 x( r" L. T0 P" c5 i
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「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」( [$ L6 p9 |1 p! |( H! p
2 E# b/ z9 f O4 q4 n 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。8 ~( F+ C7 j% p2 I
. N: i$ ~: h9 H1 }+ Q0 } 3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。( n4 Z' O4 K$ F& E7 X. F1 a
邓小平秘录:邓南巡讲话 警告保守派 + t0 H [9 @$ e! _ 7 ]( t X5 r% P& V. b! e% Y日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,已故中共领导人邓小平于一九九二年初的南方视察,名义上虽是休息,实则是经过深思熟虑的一项行动,而南巡讲话的主要目的是对抗拒改革的保守派提出警告。 7 q% g/ s3 s8 r& D; l; }+ w3 T
报导指出,邓小平于一九九二年一月九日进入深圳,采访此行的中国媒体指出,由邓小平的谈话可看出他的广东之行是有备而来,是对北京、中国全境乃至全世界的发话。9 w) V# w$ M+ L' X4 ^" E* U$ S
8 p" L9 o6 w" U8 b邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。6 M) Q; |) I7 _4 o2 g3 ]1 p+ j4 f
) P' k# l. l3 `- k报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 + X# D4 \# W. e7 l' {3 k1 i! X* q : z! W- D6 ~6 O8 |& h【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告 9 v0 ]4 [* i2 f, p& L$ N, y4 ^1 m( y2 [# e0 l$ o8 t
1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。: Z/ n; B' ? u! S
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手法は毛沢東に似る5 W4 D! Y- M. h+ i5 q
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しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。% V4 J/ e" k, F7 Y% j2 y0 Y
7 m) z( q2 T4 _# F% R" g; l 「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」 h$ G$ J, K+ @3 T
' U" ~/ X0 w* r, l. L 牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。: m, F5 u' O3 t k( N8 N
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陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。% z; {( _2 a2 o8 O
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講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。9 Y( b d7 J0 S! Z; v2 q7 J7 e" X
1 s; M" Y7 o* t( H! R$ ~
トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。 ! w' Y+ l' L9 _/ S. Q' K& a# q+ M+ u: n) `% [* p! J0 \
このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 8 y7 @1 U( j" A+ C 8 G1 B D a* \1 m2 X 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。9 I+ a1 Z5 v0 @! u; H
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毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。) v7 v6 N, X! t( Y% p: N. V) u5 ]( \) y
' I- o# L* R; Q& @/ g 林彪事件である。7 q8 o# R; R' s
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8 ~- p/ D" y: X& D0 e. K# j- g冒険せず何もできぬ/ D7 H7 U. X' Q) s! S. [
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トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。 8 a& L9 q. i, I1 @" H' ~/ \$ k3 L( k' Y0 G* {. E: h5 E. g
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。6 a1 J* u% m; V6 l r7 d
5 U- s# n$ v8 J9 a, `8 U6 ? トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。 ' |# T1 f% B% m0 X7 w( E K + b6 X! O+ M; B9 l 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」 / g8 B6 ` L0 O1 z+ i: a8 `3 h2 _, n" k3 H; a
後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。 2 U5 ?+ [# a8 l3 Y" j4 Q+ E( Z$ r. a- h5 {! `% G- k, }3 ]
トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 . C; |7 n5 |# h/ H. {1 E- q, [, Y W! R
トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。 $ H0 {$ }) D+ |3 e x4 Y( ]* {2 l. Q8 P; k' f7 R2 p% ]3 e
劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 - ]7 l5 d$ t g% I3 ]7 r" @6 e 4 h8 [' e5 T/ a8 y. i: t' ~ 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。 . z5 C7 ^: v, V# M( ^* y$ y( ~3 L: P2 L. M- E2 Z& [- [
しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。 1 i, a7 y. c- J( j+ p4 d, ]/ P$ H( }" t3 ?+ W; c; ^* L
トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。 + z4 T6 [5 r G, S4 ?' S K2 ]; ]$ i
それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正), _. K6 N# R3 B6 V9 _% E
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■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
. W# b8 l5 G! S 「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。 1 Y" [5 [8 ]" W$ V# E/ T9 F 3 _: o4 I ^6 b: M 中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。- }2 L+ u' r ?' S. B+ w
S8 v* X. }4 o# e 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」 . S2 j' Y. u2 U1 r% g& t6 a) ~8 k2 H2 v4 ^* y# j* m4 x7 D
トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。 ( z0 y+ }% l3 G, y/ F " o# U1 w# H) D+ \; t ≪3度密書を送った≫. I2 J' M3 d; U
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1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。 . F4 S7 P6 U# W% Z/ B& }/ X. N, W" @1 u# h. I/ n0 ~* y. [, c3 r4 x
「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」 ; W- K( `. C1 t7 y" N7 ~% o# _6 s- b* f j. {8 P) K- F
関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。 8 z+ U9 G+ \# S6 X- F- W4 z 5 K0 ?7 R# [/ ~. z2 J 「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」 " y' M- `1 ~! p/ O g/ }( x* i& j 2 K9 b( c4 q, g v 大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。 8 m' V! y' O' [& K! L 9 x u' x" r# m j" l それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。 9 K4 V/ \& O. d( @* B& X/ I ' m$ i2 |1 @ f- q& `0 G6 T この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。 ! ~$ G6 T5 n2 O; p3 p K4 j5 G1 U* R1 H+ R/ T# b1 p
その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。+ r# s* c& M m2 w
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「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」: k# ], S c4 Z; I# U