9 V) _7 f. `* Y: c日本产经刊登「邓小平秘录」序言 : V/ t/ r- m* B4 T( E/ X
日本产经新闻14日刊登「邓小平秘录」序言,揭开预定从15日开始连载的中国已故领导人秘录的序幕,这家日本报社将分成6部分进行连载,由分析邓小平镇压中国民众的「天安门事件」背景开始叙述有关邓小平的秘辛。 - p( N+ E5 e. a! W8 s' P
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产经在序言中简述邓小平的生平指出,合理主义者的邓小平和孤高自持的革命家毛泽东成为对比,邓小平在遗言中显示,不愿意重踏毛泽东的覆辙。他在1978年主导的改革开放政策被称为中国的「第二次革命」,毛泽东发动的大跃进在1960年代造成好几千万人饿死,邓小平则同意农民的部分个人生产,他著名的「白猫黑猫会抓老鼠的是好猫」,就是当时的名言。 3 l' Y6 X" [9 d' r& F9 D& z% M0 h6 A , K" X( O6 A) D/ j9 i5 f& y 序言指出,中国在邓小平的改革开放下,以计画经济和公有制为支柱的社会主义原则逐渐被破坏,引进的是资本主义原则和手法,中国人民从毛泽东晚年时的物质贫困和精神压抑下解放,追求丰足和自由成为第二次革命的精髓。 8 g* o) B) z% y) {0 O
0 E& r& Z" ]- V* q0 ?2 t 文中形容邓小平是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的「一国两制」,成功恢复对香港的主权并作为呼吁两岸统一的武器。 : _$ s) ~; e! {) r. X4 q A% u u; @$ g( n1 w4 l 序言指出,邓小平的一贯主张是,迈向「共同富裕」的步骤是让部分人先富起来的「先富论」,这种主张一方面为中国带来急速的成长,但另一方面也造成贫富悬殊的扩大和腐败的蔓延,「先富论」产生的矛盾已成为极严重的问题。 ! R, {! N! ^" r: E" K$ C5 a
7 u* k- ~0 v! v- b' X2 C 文中指出,邓小平在经济上虽是突破社会主义框架的革新派,但在政治上则是断然的保守派,他和路线敌对的陈云等中共元老避开对立,立于元老政治的顶点发挥影响力,这是扔掉有意进行政治改革而和元老对立的胡耀邦和赵紫阳的理由。 " o0 t% \, v8 L, k$ w2 t
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序言指出,江泽民和胡锦涛师承邓小平路线,目前的中国对扩大矛盾的改革开放提出反省,而出现赞美毛泽东的声音;但另一方面,政治改革和民主化的要求也在升高,「邓小平」仍是中国现实政治的中心。 , f! D T. A$ {* J9 O _. F7 c2 V6 b" G5 E# M0 o( I
序言最后指出,邓小平渡过战争、革命和斗争的中国现代史,对他而言,一生最大的危机是天安门事件,天安门事件和文化大革命在不同的意义下是现代中国矛盾的爆发,也是重大历史的转捩点。$ d6 G9 Q$ V/ w I8 ^" ~ g
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【トウ小平秘録】プロローグ(1)改革・開放の総設計士+ J ^0 b- V ^9 V0 {
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中国の経済発展を導いた「改革・開放の総設計士」トウ小平(しょうへい)氏が92歳で死去したのは1997年2月19日。告別式は行わず、遺体は解剖後火葬され、胡錦濤(こきんとう)政治局常務委員(現国家主席)が3月2日、遺灰を空中から東シナ海に投じた。" O8 P# Z h( F: z2 U
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毛沢東の轍は踏まない% O& r$ B! r( Z4 y& W
7 G6 d0 Q0 B, N死去の4日前、卓琳(たくりん)夫人と5人の子供が党中央に書信で伝えたトウ氏の「遺志」による措置だった。書信は「小平同志は徹底的な唯物主義者であり」「一生を余すところなく祖国と人民にささげてきた」とし、最も質素かつ厳粛な方式で哀悼の意を表すよう要望していた。 ' T6 u$ Y# R0 }' T+ q I) D3 u# P& K% ?) z8 ]
合理主義者のトウ氏らしい遺言だった。毛沢東のようにはされたくないと思ったに違いない。毛の権威を必要とした後継グループの決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。が、トウ氏もまた、静かに眠り続けることは難しかった。+ A$ V% B; k3 D; q3 [
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トウ小平氏は16歳でフランス留学に旅だって以来、四川省広安の実家に一度も足を向けなかった。49年の新中国誕生前後は同省を管轄する西南局の第1書記を務め、中央に転じた50年以降も5度同省に赴いているが、家族でさえ89年に三女のトウ榕(よう)氏が訪れたのが初めてだった。 8 a" v0 v1 P8 V9 T7 t9 h' Z" p8 L; ~1 a
仏留学時、「二度と戻るな」と命じた父親の言葉を守り抜いたとの説がある。頑固な性格から出た説だ。$ _1 l+ ]: |2 k; N/ s! d7 V
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トウ氏は個人崇拝を嫌悪、「公平、無私」をモットーにし、出身地の利を図る傾向を批判してきた。だから地元政府からの故居改修の申請に同意せず、各地から相次いだ記念館や彫像を建てる申請も拒否し続けた。 / |5 S( G7 u F( V8 y 9 {; s7 c3 }& v( C% H. f しかしトウ氏の死後、故居は修築され、広壮な記念施設に変わった。彫像や記念館が各地に誕生、江沢民(こうたくみん)前国家主席が看板などの揮毫(きごう)をしている。7 e+ I. r0 {* c, X
6 P2 _5 }6 d" n) N; S } トウ氏の生誕100周年の2004年、胡錦濤政権は盛大な記念行事を挙行、大量の文章や映像が発表され、「偉大なマルクス主義者」との賛美一色になった。一党独裁を堅持し、経済発展を図る正当性を訴える上で、トウ氏の理論と名声は政権に欠かせない。9 f) V1 D) z3 I7 P$ a
* Y% R5 D1 E0 M/ C だが、家族や関係者の証言からは、家族を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。 & [$ K/ G- a0 r: j4 f0 J! P8 C) E % _* g# Y2 P# f2 a9 Q トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにする理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。 : h( Z: J3 f. M- e; I3 t . a8 P% D6 @0 M; z 共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名な言葉はその時のものだ。3 M7 |6 ^ |0 m- S! {3 q
1 ^2 f8 s( @% j) s4 x 改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみる活気を回復した。 ( n" K+ y# q8 d Y% Z8 u0 C5 r! U( k" w3 o; ^6 x% L8 x: w! d$ S
豊かさと自由-だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だった。6 [, B9 n" g0 B# Z" B
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2 s0 i X( |! P # R) j% ~( @0 `- f! i矛盾生んだ「先富論」 : I: q9 ~& A2 Z" u& Y- a! _2 E! H4 X9 B c( _
トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。 / i& x6 ^" ]/ }/ ~5 l% Q& b, H / A3 s% b5 R! l. v& C3 s) B$ Z それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。0 F0 A, u( O6 c8 u
4 h8 A" x% r: s! C 1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。3 } p- z: n5 ]! p/ U7 [/ u
4 g. }( q! l' W& b, Y トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。 l6 C, d% I: L: n) d" l. g ' O D/ a5 s' I0 } ?" a 「富をどう分配するかは大問題だ」 5 \* E. u* K; t( H7 x+ s9 d4 E" n2 m" I2 `1 N- _% O
「この問題の解決は発展を図るより困難だ」 6 f! G. w! K/ b5 s/ G0 A# k, }" g1 o/ H X7 m3 @
「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」 + f u- @2 [$ y* i. B- @1 m5 k# s6 O v) n$ D
トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。 0 C# C1 H9 ]) B. a% s I" |$ k/ L 2 {) X7 E) \1 J; g/ j トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。 f6 \5 ]4 I- I2 N $ k. J1 p8 Q% O8 S 経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。& U' c* ~0 r9 {0 m5 T
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毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。 + q0 A& C# u$ K$ V( j0 ^* s E; l+ B9 f0 M$ u! m
中国ではいま、矛盾を拡大した改革・開放への反省が起こり、毛沢東賛美の声が上がる一方、政治改革や民主化要求も強まる。「トウ小平」は依然、現実政治の中心にいる。6 d- K$ i+ Q. s! d3 {8 a
- M. ?- L' V) _0 y- F トウ小平氏は戦争、革命、闘争の中国現代史を生き抜いた。氏にとって人生最大の危機は、天安門事件だったろう。それは、文化大革命とは違う意味で、現代中国の矛盾の爆発であり、大きな歴史の転換点にもなった。2 e: l& f5 J( F# p/ ^
1 H r; c/ \1 r1 o, k (中国総局長 伊藤正) 3 m( @1 i5 C, l$ A$ ~: ~ * x9 a4 r e7 y6 T ■トウ小平氏(1904~97年) 四川省生まれ。若いころにフランスに留学し共産主義革命運動に参加。中華人民共和国の成立後、副首相、党中央軍事委員会主席などを歴任。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活、78年以降は事実上の最高権力者として改革・開放政策を推進した。89年6月の天安門事件の際、民主化を求める学生らの武力弾圧を決断、国際社会の批判も浴びた。% ]5 q, ]- ~4 h7 s* h! C) U/ q' f9 ^( }
4 _5 F2 k) o' a' i1 J+ E ■4つの基本原則 (1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想-の4項目のことで、トウ小平氏が79年3月に堅持すべき原則として打ち出した。共産党規約や中国憲法にも明記されたトウ小平理論の核心だが、市場経済が進むにつれ社会の現実や国民の意識と乖離(かいり)、政治改革の足かせになっているとの批判もある。4 M+ z) I6 e, C' e: p! c
& x& w% i# d# y7 e% C1 k! J■必要なら専制手段使う ' G: M3 n0 P- F% ^8 O' X3 f " [3 l% Q- n) |& a 「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻)& t3 N" K! I& u! l) R
9 U. ~) x5 S5 N4 W. u z 1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。9 }7 ^0 F$ c' |9 N! |" D, r
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この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。! L/ o! u3 W3 Z8 i8 K' C6 b
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談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。 9 v5 W( H* q! N, Y 9 {) d2 c7 d2 z9 G$ @& a そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。) G2 U5 @1 [9 ^' b
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この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。3 p. r$ K! j( s7 D5 ^/ _* K9 [
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当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。- d i) ?/ j1 d+ K. W
6 R2 F$ s: b7 j- d) O% |2 { 78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。 ; C A2 A% h( \3 A, H# _ {8 r8 u. H' g5 f. R1 s6 p' n
トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。 / _; Y, `( p* z& I 7 w8 X- z( T$ m 「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」$ u% S* @7 o5 e4 i7 U% O8 q D
A% D: s. a* D/ B' { 「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」: P, i" H" C. h5 o$ u! Z
1 m/ ^% b' R; u! R だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。 ; Q# B( P* s' h- Y9 z ' l( w8 I! T8 B& S ) I" r. d1 e; F
反党活動の証拠収集 ; }8 Q6 i" F% d( @6 f" p1 j# x. J& Y! q
天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。. W% m$ H# {9 Z( I* O
8 E) l; ?$ Y4 R( Y/ U0 K5 g 方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。( U# |2 r+ j1 C: K v
4 {) g1 m4 ` ]! W 「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。 . O: z8 X: `! F6 C, \- F# F U# G h9 I2 W4 ?8 F
その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 2 H8 O+ P/ D1 f( r, c0 e. [: y8 A& k S
天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。$ M- Y& W: E* D4 m4 G, F
# n- o$ P4 a& q1 g' d' M0 c) D 陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。; O9 e6 m( ~: z6 h. ~
! |3 w8 t& _+ T6 c$ m 「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」8 t$ T' @! s+ Y. ?. m0 u& e
4 a0 H S6 y& I P$ J! \ 「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」 5 A( ?0 i! P. q4 B& U9 g / A5 Z* f( L0 b9 J 「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」 , Z6 v ]1 z4 Z# e2 ~' T! W; @- C2 X9 Z* f' A, k1 h& } z
「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」3 R. b$ o) q6 I `
) c/ Z0 w8 J J, A2 w! \# y6 h 言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。 6 e& ?" m# Z9 \5 [3 S* j8 ]! n: G. L$ F! n3 e: N
それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。(伊藤正) ' U% G! o' F- {; R: I; _& N+ g4 q: b2 c6 j$ w
■反右派闘争 56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。 6 J6 D8 u3 X" i& v4 A ; L7 J6 F: c1 F. `(2007/02/18 08:10) ( S3 b( _; X% D. ]* t4 v7 W% P/ W1 \
. T6 v5 J/ L3 v9 o8 q日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。 ( V" ^ F3 }. d$ @7 G" u1 D$ i: W9 P P* f8 w' s% \
文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。 + I+ i- a# |. ?& e I' R* L s) k ?0 Q 文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。 / ], i6 ]; L4 T/ T4 J m, O. l( P * B8 p& W8 I6 ^! M; P5 G! N 拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。 5 Q( h( I+ e& v. z- [- ]2 U/ W3 X+ A8 H+ _" m
胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。: @. k: K% a% y% s1 c/ B
6 y( S+ u/ _3 A" P$ S! K 「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。 4 X+ R/ g$ B$ m6 L+ v4 L1 w& t- M- B. b }5 ^8 T( E
根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社1 i) u' i& j6 w: q& s
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【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ & T3 ]3 y$ D8 L0 c, ]9 y 8 k5 z" }; H& n6 O- N+ v中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。5 y5 x7 X; `+ c0 ]) k
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その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。7 O9 l0 u3 \% L1 n
) V" p! K: S$ h 国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。4 n5 ?9 i' D$ `
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前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。7 n$ |. P# E' Q: N2 c* h
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長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。. j( t3 a& a, n) l
5 x% D1 X) X+ p/ c; J( H これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。( ` w, ]& D/ n5 \, H. H! R# T
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「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」2 U m" d' I5 |2 d; n1 X% e% X
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「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」 2 k: y; j: m, B & C0 x% x5 f# }! c9 X, @9 w3 U 同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。* s6 F s5 r9 k7 t9 `1 G! Y& c
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「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 # b7 g: |: H4 @ D. [* ~ & V$ E- x6 f) x' G }/ ]6 E 王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。 ) w8 k+ t; h x( |3 K( \# }. B* d- N% w' H
≪胡耀邦は声上げ泣いた≫# v4 X/ o6 w5 t8 Q
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)7 p, Y6 D2 l2 X
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胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。. F, Q1 J7 l( @; `+ d
, W7 _! k: ?: b( b3 ~# h6 O/ q 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。 ; t7 {; K# R/ u$ J+ C4 `+ H w# H8 s! H$ R, y% C
「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。 ) Y1 k0 f! _. F" \: `# M [! S& V/ N' G: O2 E
その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。 / m8 i. f% V1 g( J! o8 F " O ?" Y$ X% t2 U! Q" y) I 「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」) # S. H% K: G3 R7 W9 Y" }8 \ 5 P! ~. |& L+ Y& N$ E5 e/ Z 趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。 * q) V. Z) A$ q. e/ C; N0 a! G3 v; ?! t4 W. u2 J
「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」) * l; i" J6 I5 F4 }$ k T9 s" m; y8 w( z0 k4 j) }: _ 生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。* [. U; `' {; d1 s
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それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。 . A! ?2 o/ ]2 j: P- Y6 F* p2 {6 L. H' E- m- p. x% G1 K+ M* ?
「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」" k# U" f3 b4 A3 t% `1 x; g7 {4 }
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採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正) 0 E0 ?7 y0 U3 x) _; l6 m( N+ i4 _8 ^3 b; A; U
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■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。 0 u! s( L. u7 v5 P, |! q( Y1 J! v J( x" O6 H/ [
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- Z4 Y8 W' a2 j: U2 m4 u . a; O! G9 s8 _2 m外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)/ |) @" [. b0 W0 G- V0 _2 b
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7 b" Q( v& q$ E9 i1 E7 l+ k " z) e' n. f$ ~. p0 V+ H7 R 根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。+ F5 s7 e& A$ ^8 i2 F9 y
B4 g% l4 B. p3 d$ w" V b 文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。 \& L5 Z* Y1 x( [+ u
邓小平秘录:邓和赵紫阳合作深谋改革) a' J" B! l& E/ B
(中央社记者张芳明东京二十一日专电)日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平和赵紫阳合作深谋改革,中国在政经面大胆改革是两人的合作,背后是两人的信赖关系,但是后来如何发生变化成为一九八九年天安门事件的重点所在。# `0 `1 i" ~+ f6 f. Q
# v2 b7 b! f! l% A/ q* m文中指出,保守派理论家邓力群在一九八七年秋天的第十三届党大会不仅在中央委员选举落选,连中央顾问委员会常务委员选举也落选,相对地,一月被解任的胡耀邦则以高票当选中央委员并在随后的一中总会获选党政治局委员。 # O1 Z5 m" t) U7 {3 b4 V8 E4 ~: a( h/ r/ X7 F% k
邓力群后来在回忆录中指摘赵紫阳是阴谋家,并指出赵紫阳的目的若没有邓小平的支持是无法实现,邓力群的指摘就整体看邓小平决定武力镇压民众的天安门事件具有重要的意义,中国在政经面大胆改革是邓小平和赵紫阳的合作,背后是两人的信赖关系,后来如何发生变化成为天安门事件的重点所在。, m0 |8 n3 o$ G4 r( i
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第十三届党大会包括邓小平和陈云在内的中共八名元老有七名引退,只有政治局委员杨尚昆获选连任,这是邓小平迈向实现很早就主张的废止终身制和干部新陈代谢的一步。 ( H) j: {, u. Q- p- A' m, q; c" I
邓小平早在一九八零年接受义大利记者访问就强调废止终身制的必要性,八二年设立老干部退休制度,同年九月的第十二届党大会新设由老干部组成的中央顾问委员会,但是老人统治并未改变,政治局员二十五人中只有一人未满六十岁,政治局常委六人中,只有胡耀邦和赵紫阳未满七十岁。 - Y# X$ `9 S1 x$ p8 }, l- Q2 |& g- V$ \$ M2 K+ P0 w9 l9 s* T- J
胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。 $ q, r3 f4 v- w0 {& d % l c. _. C: H2 m: Z; u; J2 Q邓小平在十三届党大会率先辞退中央委员,其他元老追随而实现大幅年轻化,邓氏只留任中央军事委员会主席,新的政治局常委是赵紫阳、李鹏、乔石、胡启立和姚依林,除赵紫阳以外都是新任。邓小平曾提议让积极改革派的万里和田纪云也成为常委,但遭保守派反对而作罢。后来在处理天安门学生示威,赵和胡是柔软派,李和姚是强硬派,乔石则是中立派,反映出政治局常委人事是保守革新两派妥协的产物。1 j" ?( p+ q( Z. ^* V. s% Z
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由邓力群的落选显示,若在改革派大优势之下进行投票选出政治局常委的话,姑且不论被内定为下任总理的李鹏,七十岁的姚依林势将落选,如此一来将引起保守派的反弹而对改革造成妨碍,八十三岁的邓小平把「富强中国」的梦想寄托在赵紫阳身上,为营造实行改革的环境而绞尽脑汁。 # S: a, Y3 H h& l; C! \9 ~: J+ r3 M: y0 _7 t
【トウ小平秘録】(8)第1部 天安門事件 第13回党大会 ]7 I" j7 v6 ? Q7 p2 p「左王」と呼ばれ、胡耀邦(こようほう)総書記解任でも活躍した保守派理論家のトウ力群(りきぐん)・元党宣伝部長が、1987年秋の第13回党大会の中央委員選で落選したことは前回書いたが、中央顧問委員会常務委員選でも落選した。187票中85票しか得られない惨敗だった。. ^# D$ v' r2 @3 q" d
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" Y8 t E0 n4 G0 r& V/ x/ T% H改革へ深謀、トウ・趙合作 6 G3 s8 v: X+ |2 K 7 v+ X* C9 o' b8 \" W* q$ h& s) R! i3 Y 対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。. R# k& \0 r: S' L0 P
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党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。- B& _' y- q, r
邓小平改变了整个世界! R, d" u' |$ n6 o- R- o& L+ z
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英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》4 H7 o. T3 o! C4 k$ O0 H8 w {
上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。 8 E% z: M" U5 g# ~9 y3 v" |# G ?; L- i, K5 x
不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 1 t1 E }+ o% @2 Q9 |$ I% n. s
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她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 ! q9 N# j: F5 Z' u* Y5 V , { q% N# O; e: x" J" |4 G$ f邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” * f) r0 s* [. h; @ 2 ]$ s" J, i& N9 `# W n 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 9 G7 b, @ N4 ]3 Y% M- z% Y. g- f# R& c; E4 v, L0 g: G
邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 2 H) T' P/ W0 v, Q( t/ K! `) l5 P7 X+ J
她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 " T3 g" W& ^) I3 V3 T ; k7 a: L( _* } U: b5 y3 l/ T 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” / y5 A* Y K0 [( Y e! S
5 w" j# h$ d M7 s4 T 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 A$ h$ @7 |8 [4 f0 W& n1 S( T # R( ]: Y: v, R# A6 H, e 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 # ? L. `* h! c( a6 f+ S
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香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” $ x) l' l& [/ y/ q8 v# Z) M6 |, ~: F- d# j# m+ V! c% _( n
3 V& _1 Z' G$ P! T" d. U& \ 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 * A6 [ u4 X b! T# M$ R; o
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在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ?5 S" T2 g# \, w% d R# F
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邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。, z9 m! E: S! z l. R% A3 U8 L9 r
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; F& k: ]& L0 q& c 0 ~/ q1 H: \. WChina honours man who reshaped world ) g' ^3 Y# `( |0 x, eWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 4 L" V% Z0 H& M
+ _9 i a% S( a# n9 R8 GChina might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. ! L. I* _& p7 w. `; K! {/ {6 S5 p* z% y
But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. . A" L; p1 P! A6 n0 ?+ X; h$ `& Y3 }( h6 x- T7 M
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. + Q$ w! Z) o8 O! l: T
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“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” ( V+ |8 L* k9 @4 O1 }, P6 K' n- S) X! P
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. $ f4 S: O4 v" D) d) A) d3 e1 L; h- F( y J! Y
Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. / y' e. i$ G/ h4 w. u * z. J7 S9 y KShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” + }! X. I" [6 A7 } `2 M" s
8 l3 ^6 v+ k# Z# o+ W3 J& q8 |0 FNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 3 f1 \- A; z V- M' ^( V
6 m' S+ ~* L* K. g/ qDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. % s6 y- ~) q. x" H, K: s7 A. s " ] t t8 o9 K& V" u) x, NDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” " p; e1 o* K+ O, j
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He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. + d' |4 B W% l9 Z: {- H% Z / W! z/ @% L: q3 \/ g; |$ H2 jMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” : x& o0 F9 X& d$ i2 q $ p# l+ ]/ w0 Q: ?* pMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. , `5 a0 g0 e1 Q' h* g. p9 ~
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But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. / m( v4 G& v4 ~! {. Q. _/ s 0 c8 d% f W" _His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” , B( s; v6 x0 A# Y1 l3 {/ _ {( t' k" f7 a& `# k* \
Long road to riches ' Y8 L# W7 h# [( `- _9 L& U3 L- |. _) ~4 d( Z7 o/ h$ K. j
Now 3 G$ R( t+ J# E4 g! B* w# r- C' p4 t" L4 g5 D% x, r
Population in cities: 550 million 6 u0 p5 m, C7 U9 f6 P7 ?) o % z X' \% _" Z& A5 zGross domestic product: $10 trillion - H4 r: p. @' [* s1 ?/ S
- c3 ^6 E7 o3 A- m
Oil consumption: 6.5 million barrels a day ( M1 S8 K+ K9 J9 x2 |# \; M; x" C6 z$ u
Exports: $954 billion 4 G# g9 U4 y: S% {
& y) {' A ]; C5 J( t5 wPopulation below the poverty line: 130 million 2 S' L4 ^9 e( k1 i
6 j' k# w; `1 MTen years ago * R1 L8 G- R* S& n 8 b( z( v2 [' {0 s9 \Population in cities: 370 million 5 T* ]; | N. w7 d
% `3 ]( c7 k- L M }
Gross domestic product: $4 trillion 5 j9 \& S' P4 I% v$ q5 o2 q1 B, A& N* J/ Q5 T* p6 D$ i
Oil consumption: 3.9 million barrels a day , l/ k* R( }6 k- s0 D y! ]9 H: Z) ^% R& p2 O/ \5 y* Y/ n
Exports: $182 billion " F8 A+ q5 L2 V1 ]7 \" z* T, R9 C g S9 S+ b# I
Population below the poverty line: 120 million 1 J) e$ B+ ~# I, c% ]5 V$ Y4 R
( e* `3 X( t) TSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies * h2 W4 H- M i: F$ \2 W" h1 y% B3 K% e8 j 7 C' c* z$ D7 g' h4 X
“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。. N1 e7 V C5 d! c% o+ B
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治 ( Z3 E! f$ p! F/ c6 o0 o; I6 X7 q3 n. Z# f
(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?”1 g: M* A+ F" T# \$ Z6 Z* l, v
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赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 ' u: A# u" R: J4 f; p8 ` # U2 A: f5 Z0 X" x* ?+ R X o+ w赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。 ( p" b* J+ g% T6 ~" p- x : g% w, S3 I3 G! z, u) ^/ u7 O鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。 ! S# g P; q: v) d" ~. f# C; X( Z6 h8 H) u: s
鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。# e) Q3 Q, l$ Q l- o* I
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赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。 9 C" U! Z: ^$ B! U " Y3 O) T" U8 N一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。1 T9 c; W4 o2 g9 f9 W$ `
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未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。% f9 @' h' _# }
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【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」4 U9 z) ^$ p. j& X& d; o6 ~, U
5 K3 N2 E* `6 q Y ^% j& s今年2月19日是中共领导人邓小平去世10周年,北京官方没有大张旗鼓地纪念,胡锦涛和温家宝也没有对邓去世十周年发表任何讲话和评论。/ [& K) V) g# ~
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邓小平一直被中共称为中国改革开放的总设计师。他的最著名的口号就是“让一部分人先富起来”;另一个无法回避的政治难题,就是六四的枪声。 & i4 [, \/ z- B3 U*“让一部分人先富起来”是祸是福? 5 g( {2 J. [; i * @! t, A5 i2 f3 K. w1 h8 W美国之音报导称,邓小平当年的政治口号在今天已成立中共官方禁忌。邓小平在1970年代末推行中共经济改革政策的时候提出的一个最响亮、同时也是让现今的中共最高领导层感到最难堪的口号:“让一部分人先富起来”。8 O) A# a& x. H O% i$ F1 [" v
4 R& L3 K, d c8 V将近30年过去,中国的公众普遍抱怨,邓小平所说的让一部分人先富起来,实际上是让大批执政党和政府当权者及其亲属通过强取豪夺富裕起来,中国大众则不得不承受住房难、上学难、就业难、看病难这些所谓的改革代价。, ]7 i: R4 [% Z Q- w
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住在北京的中国工人网编辑严元章说:“谁富了呢?他们是通过勤劳的劳动致富的吗?我看很多老百姓不认可这一点。他们认为,那些人是通过权钱交易,通过自己的权力,通过权力腐败而获得的财富。”& ~" w8 n& A/ U
6 m( m1 A# B3 N/ P/ J严元章说,这些年来,他多次到全国各地跟中国老百姓交谈,交谈中他反复听到的一个说法是,现今的共产党比1949年之前的国民党还腐败、还专制。中国迫切需要民主。 : A# o% T- z: d& u& N' @5 |4 G2 h0 I4 U2 x$ i+ Z. v% H1 {
人们普遍认为,共产党的专权导致的腐败,是邓小平“让一步人先富起来”的经济改革政策给腐败官员大开方便之门的话题。4 B0 E: q/ f+ ^! \0 O) T
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*六四血案 无法回避的话题: `. E! {# ]' V: ]! u0 x
邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派% J. f; h3 q& t. e$ v- U% D( z
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日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。 : x v1 m8 X8 _- h. u% q# k, P' h9 e5 G F
文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。 ! Y/ E# T2 | ~ t: X2 X! X( x% N# u; D+ \
根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。4 q. [, m& ^) c
. _4 \; y. A. W& U 两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。( b2 c/ v3 ~0 n6 `' n9 O& W
1 j4 e5 ]$ j1 F0 H! l 十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。) G2 R, J: R' E0 U/ Y1 h
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十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。) D7 ]1 j) z% {! p
5 p" m* C, `) O: O% }! d. D' V; z2 R 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。/ G% h q y0 _% J4 b
- {7 ?5 _* h& N9 N: R 这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。' g. _* `0 U# o' O4 k, q' o8 V3 N
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由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 " e4 R k! i' l5 ]; E8 k, {+ x: l
% Y* }; m' ]1 H, ^% B: F ( I) ^; B8 x8 S0 f% d' W# ?【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件 6 e/ D( i* W* @$ }) }8 }: A3 {; {1 g6 z6 t( \" S" J* b
■下心ある者を警戒せよ , x6 C6 R9 f1 x, e . N0 M, Y* i, V# m: e$ r( w 異変は、新華門事件から始まった。 & U/ Y' {! A) N, ?7 ?+ R2 n; J( ^% ^( c, M& H9 }
1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。 8 K5 V7 z4 I9 e- ^% l/ J$ _& `0 U ?& M0 V! D/ `2 z# l3 {" x3 ?! w0 V それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。1 m: ~* E6 \& Z& n& h
- l& o) U4 Y' M- d' L 楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。5 m- i! G+ }" f1 k
/ v3 [0 ~- e! h6 w4 O まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。) e. q. j- H- e3 \/ a
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党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。 % |3 {1 C2 S3 U- } 7 p" O6 ~9 C' b+ E4 ]1 F& u 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。1 R, o1 U" n7 g! X* J. X5 t
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4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。 q @' N- o; h7 w( O+ ~( ?1 k `, K: I8 s
4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。1 t3 r0 h$ Z+ ^- t
( V/ B4 |& B) d' O* B0 b この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。 8 q* c. a. ]7 f N' Q6 T, ], E S , a; D( o; T$ _- c# t 「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。, x( J, a$ B! e" _7 X( o% l! B t
- m. `8 L8 K) t( \ 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。/ o7 t7 ~3 j+ ?6 ~
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全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。 4 J) v& K7 l- c* W- L4 c+ P1 |5 L+ R6 k- o
この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。 ; b5 H- ~# y. N! C* U6 S3 Q5 @1 L$ g. i
天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。: P8 I% r* }# Y- P
+ k1 A* m% b8 O% f/ q 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正)3 s% A; p8 b' R2 M) C
# ]0 o6 v3 ?) l. \ 追悼大会に参加した人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は著書「六四内部日記」の22日のくだりにこう書いている。3 K0 o8 }9 ?: N
- v/ E! L v! [( }( O) r( n X 「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」, B7 f2 {% e3 X+ S
! b# C, K" Y% c トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。5 f; L5 h4 o) p# i& p1 ?
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長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。' { O+ T0 f. e: U8 {& F5 E( {' k
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「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」. T! ?. f+ W- j( z/ v U: M, | g0 [# }
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これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。 + e3 x/ u1 J9 [- O( [0 K( R6 E0 X8 K, D0 K& b) W+ [
「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。 " o) I% i' N) q/ C7 y/ i% D' V7 f2 J; ~1 E- V1 u
この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。 & b+ \6 {9 M9 U5 s 5 g% X4 E- q9 z4 L/ O しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。 8 b. z4 W* r# N8 M* I9 L* h9 i4 j4 ]6 I/ g/ p% Z' B8 h9 s {! n
北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。 q/ R! d' P" a) h# H; [7 ] : B3 `" D3 B& T* U 王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。: D! b! c5 a4 x/ I. U
% U' T0 m- b; ]5 u 王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。, c5 V+ m/ o. U. n- g& a9 u6 d
3 {6 ` N( j5 U. I4 l$ ]- j4 q それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。! g, Q8 H3 ]+ i9 R4 d5 G
7 r3 U* M: E+ [ z, P5 A- p" o それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。& ] @5 b. e) f, X
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「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」* ]( N& ]1 J6 a3 f8 e7 |* X
9 z7 L5 c7 T; v* ~(中央社记张芳明东京三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平在一九八九年四月二十六日以人民日报刊登指控学生运动社论和解除上海周刊“世界经济导报”总编辑职务的方式企图阻止学生的民主运动是项大误算,反而使得学生和知识份子联手,使事态更趋严重。7 B0 c1 p& M3 s
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“秘录”今天报导,四月二十六日人民日报刊登社论,把学生运动定位为“动乱”,引起学生的反弹,次日出现数万人的示威游行。当时学生高举的口号是“拥护共产党”和“维护社会主义”,令采访的中国记者感到困惑。& i8 t( O* n6 F/ y! w. U
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其实这是学生方面针对人民日报社论的指控采取的高级战术,表明并非反体制运动,而是要求消灭腐败和确立民主政治和法制,这项口号获得不关心政治的学生和一般市民的共鸣。 ; i b) }) f0 L4 @8 M2 e3 z' n: q3 B9 }- \$ R
天安门事件后被以“反革命阴谋的黑手手下”罪名判刑十三年的“北京社会经济科学研究所”主要成员王军涛在二零零四年刊登的专文指出,他虽避开直接参与追悼胡耀邦的示威,但应北大学运领袖要求提出建言,忠告示威运动保持行进的秩序以避免镇压。 ' H# |& ^) H H- N3 m : ?& x; z: M7 V- _1 ^王氏所属研究所的成员也在当时由“观察”学运转为“支援”学运,背景原因是被视为当时最进步新闻的上海的周刊“世界经济导报”遭到镇压。由已故的当时总编辑兼社长钦本立负责的这份周刊于四月十九日和月刊“新观察”共同主办追悼胡氏的座谈会,有二十多位著名知识份子出席,并计划于四月二十四日在追悼胡耀邦特集刊出会议内容。 ' X d4 T# R) {6 Z) [8 O5 ~( ~5 N1 ^
造成问题的是“中国社会科学院”前政治研究所所长严家其和“光明日报”记者戴晴等发言批评党在一九八七年一月解除胡耀邦的职务,要求恢复胡氏的名誉。上海市党宣传部在特刊发行前一天下午获知内容,当时的市党书记江泽民指示将问题部份删除,但钦本立拒绝,上海市决定禁止这份周刊发行,但已印好的一部份则已对外发送,江泽民于人民日报问题社论同一天的二十六日将钦本立解职。! F8 e7 S9 U, c5 q
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江泽民由于这项表现赢得邓小平等元老的信赖,是使得他在天安门事件后被提拔为党总书记的重要理由,但是,这项事件也引起知识份子和媒体界人士的强烈反弹。严家其等三十三名知识份子和北京的媒体界人士数百人连署对上海市党委的抗议文于二十八日发表,知识份子的危机感和学生要求报导自由结合在一起。 + F9 b, h# a# J. Q m" t$ r 5 M3 A0 X% H) T! |% l6 o/ x+ I6 T中共党中央意图以人民日报的社论和世界经济导报事件来收拾学运,未料反而造成事态的扩大,对邓小平来说是一大误算。赵紫阳在二零零零年接受新华社记者访问时指出,在一九八九年五月十七日决定发布戒严令和他本人事实上下台的政治局常委会会议上,邓小平向李鹏表示,不要再度出现造成他发动戒严令的事态。 O1 X! S. p! U$ ~& \
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人民日报刊出问题社论后的情势令元老们感到不安,前全人代常务委员长彭真电话指示党中央办公室(当时的主任是温家宝),要求党中央自制,不要扩大矛盾。中共当局于二十八日改变态度,同意和学生对话,但是,二十九日,国务院发言人袁木的作法对学生造成刺激,因为获准参加对话的四十五名学生之中,有四十三名是与政府息息相通的官派学生会的成员。 * i% c$ k# _6 j/ |' v* L! w3 g* h0 V. w# k
正当李鹏等保守派被迫处于守势之际,赵紫阳结束了访问北韩之行于四月三十日返回北京,揭开了保守派和改革派激烈斗争的序幕。0 u5 O5 S W4 r( E
# k7 G0 t% K( O. g% g【トウ小平秘録】(18)第1部 天安門事件 発行禁止& q3 v: c3 {, A( b' w, _* }+ D, i' G
% J& o8 I; ?- y" W* ?9 S4 e Q故胡耀邦氏に対する学生の追悼活動を「動乱」と決めつけた人民日報社説(1989年4月26日)は、学生側の反発を招き、27日の数万人の大デモになった。デモを取材した記者たちは学生たちの掲げたスローガンに戸惑う。「共産党を擁護せよ」「社会主義を守ろう」が前面に出ていたからだ。# M- v: u i) ~7 |5 n
: d1 Q" {$ I" I" z1 v これは、自分たちの活動は腐敗や不正をただし、民主的政治と法制の確立を求めているのであって、反体制運動ではないと訴え、「反党・反社会主義の陰謀」とした社説の逆手を取る高等戦術だった。そのスローガンは、ノンポリ学生の動員と一般市民の共鳴を得るのである。& d& r9 q ]9 _6 x1 a
8 N0 I/ w' a O" r3 ]) t; J 後に「反革命陰謀の黒い手先」とされた独立系改革派シンクタンク「北京社会経済科学研究所」の中心メンバーだった王軍濤(おうぐんとう)氏(天安門事件後、懲役13年)は2004年に刊行された「浴火重生」(明鏡出版社)への寄稿文で、こう回想している。 $ P/ K" M+ ^. E, d( T" m& T/ R& ]0 ^. m' M' {4 {+ D
「当局側が強硬措置に出、政治的粛清になった86年のデモのときと同じ事態は防止しなければならないと思っていた。胡氏追悼デモには、直接関与を避けていたが、27日のデモの前、北京大の学生リーダーから求められ、アドバイスした」 ! N' t S9 f! A* ]& B; b9 z, z. H) B8 H
王氏は「運動の秩序を保持して鎮圧を避ける」必要を指摘、「スローガンに注意し、ピケ隊を設けデモ行進の秩序を守るよう」忠告したという。それを機に王氏ら研究所のメンバーは学生運動に対し、「観察」から「支援」へと転じていく。+ n0 F6 B7 F: R, c8 I
( f1 g( F$ |0 ?4 k2 w6 U) o+ E7 }, }
その背景には、上海の週刊紙「世界経済導報」弾圧事件があった。- ^+ q/ c/ b; \# \, @2 B, W
1 N1 X6 y2 D3 x6 H | 老ジャーナリスト、欽本立(きんほんりつ)氏(故人)が総編集長(社長)を務めていた同紙は、当時最も進歩的な新聞として知られ、北京の中心部にあった支局には、改革派知識人や外国人記者が自由に出入りしていた。北京社会経済科学研究所との交流も深かった。 7 p+ X. C# p7 @& ~6 L% B$ Y/ w* W5 M$ H0 ~+ m9 G
同紙は、4月24日付紙面で胡耀邦氏追悼の特集を企画、その柱として19日に月刊誌「新観察」と共催で、胡耀邦氏追悼の座談会を開いた。著名な知識人20人以上のほか、胡氏の長男、胡徳平(ことくへい)氏(現党中央統一戦線工作部副部長)も参加して故人をしのんだ。 2 I( E; s9 q! V 5 }8 q: o8 O3 X$ V 問題になったのは、中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏や「光明日報」紙の戴晴(たいせい)記者らが、87年1月の胡氏解任決定を批判、名誉回復を要求する発言をしたことだった。# Y# j. ^ z# n! p# K( D. P/ y
2 K: N4 ^3 U! Q2 n* D$ P, [0 H それを上海市党宣伝部は23日午後、校正刷りで知る。陳至立(ちんしりつ)宣伝部長(現国務委員)から報告を受けた江沢民(こうたくみん)同市党書記(前国家主席)は、宣伝担当の曾慶紅(そうけいこう)副書記(現政治局常務委員)に、問題部分を削除させるよう指示する。 8 u; o# ?9 Q4 S8 M2 b z ! K; ^" X3 j W [: Y しかし、欽本立氏は拒否する。輪転機が回る中で、やりとりが続いた末、市側は24日付同紙の発行禁止を決定したが、既に一部は発送済みだった。江沢民書記が欽総編集長を解任したのは、人民日報の強硬社説と同じ4月26日だった。$ u$ M$ j1 A2 R, g# O, P' G
& G5 L" E/ W8 q% u5 @9 O この事件は、江沢民氏が天安門事件後に総書記に抜擢(ばってき)される重要な理由になる。トウ小平氏ら長老が解任した胡耀邦氏の名誉回復を決然と拒否する措置を取ったとして信頼を得るのである。8 R# M5 X4 t" P9 E
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しかし欽氏解任当時はそうではなかった。知識人とジャーナリストの強い反発を招いたのだ。厳家其氏ら知識人33人、北京のジャーナリスト数百人がそれぞれ署名した上海市党委あての抗議文が28日に発表される。 4 S/ I; C/ C# X8 u) }/ A$ m 6 M# t$ f4 I0 n: m# ~ b そうした知識人層の危機感は、追悼デモ報道に不満だった学生たちの「報道の自由」要求と結びついていく。人民日報社説も世界経済導報事件も、事態を収拾する意図に反し拡大させてしまったのだった。9 @ y- A- i/ P7 f* Z% s8 p3 U
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それはトウ小平氏にとって大きな誤算だったに違いない。 v- f% s O' l" ]2 R
: m( W8 o5 o# R, T/ o 趙紫陽氏が2000年5月に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者に語ったところによると、戒厳令発令と趙氏の事実上の失脚が決まった89年5月17日の政治局常務委員会で、トウ氏は李鵬首相にこう話したという(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。 3 ]+ F% m) h% {# r: G9 a; | q$ c3 t6 L5 P+ n9 {
「わしに戒厳令を発動させるようなことは、二度とするなよ」 , Z' t; n9 y/ C& ~; |2 @7 c. P1 \% k- J+ `. E/ _9 V/ D
人民日報社説後の情勢は、長老たちをも動揺させた。趙氏によると、彭真(ほうしん)・前全国人民代表大会常務委員長は党中央弁公庁(主任は温家宝現首相)に、「党中央は自制し、矛盾を拡大することはするな」と電話したという。 . d! R2 }/ L& j% V$ a( S/ O* S/ \8 p% n2 @ i9 ?- q T
当局側は28日、学生との対話に応じる姿勢に転じる。しかし29日に袁木(えんぼく)国務院スポークスマンが行った対話は、デモの主体となった学生側を刺激しただけだった。参加した45人の学生中、43人は政府の息がかかった官製学生会のメンバーだったからだ(陸超祺(りくちょうき))著「六四内部日記」) 6 c: [0 S1 `# G , u3 L/ X) f! k2 U8 g! F) n( R' c6 v0 e 李鵬首相ら保守派が守勢に追い込まれる中で、趙紫陽氏が北朝鮮訪問を終え、4月30日、北京に帰着する。そこから激闘のドラマが始まる。(伊藤正); c: y, w/ v, b9 _$ D
- y/ m$ e( M6 x6 P, e
◇ + j) \( U2 Q% U+ [1 K! Y8 q7 b6 W; k" D# c% L8 g. V$ ], C8 b
【用語解説】世界経済導報 # x( c) e( G8 z; q; t) { + ]% d, j5 {7 q% D( { 上海社会科学院世界経済研究所が中心になり1980年に創刊したタブロイド判の週刊紙。当初は経済専門紙だったが、欽本立氏が総編集長になった85年ごろから、政治改革主張を強め、中国の知識人層や海外メディアが最も重視する新聞になった。88年の平均発行部数は18万部。天安門事件後、「上海における動乱の拠点」と非難され廃刊。 8 H# E7 Q- f% n, E, N" G2 ^1 n8 m; X" }5 q3 r! S2 b8 n
(2007/03/03)
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对 6 \3 R2 n9 ?% c3 A; | 2 q" w) ]) B3 Y) E4 b7 ^# G$ |8 J(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。 j$ w$ k& b/ Z) U) P/ l9 _! K* U, a
由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。 ( l' H+ }) U, g8 b1 J) ^“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。 : S( p X5 v/ v# N! ]- Q' O! e0 ^# s* a% p: e
“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。# e8 e; p7 `/ E. k1 m) h" Z# T* O
. |) L3 \( A# J( _2 c2 d1 P+ H另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。) Y6 j( V8 {8 C ^1 n
3 D/ E/ c; X4 p6 q* K“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。8 s' |: L, S( Q$ X d
, V3 `/ t- O: q“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。 # _2 w! H, V3 H& Y& j7 \+ h* p$ m' C - M! u, ]+ G0 k7 l& W# H! J" j" D于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。 8 x- ?5 T% K( r$ ^" N* x7 n8 t N+ n! e" X" \! e
不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。; S/ I3 ?2 N, N
$ R6 }" I. j& \1 Y$ E9 S“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。0 j$ }$ ~. ]/ S- c! d
- P; A' V, J+ u, e【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 9 n: i' l6 e7 z; x% b- v3 ~ 6 \- S! v$ K B& F5 F7 J% q
■指導力 試される 5 i' R$ P# O7 f* K+ S9 e( s+ `' b, q+ t6 ^5 V
1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。2 X. C& d) R0 x
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23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。 ( \4 V4 _& A4 a# C9 R- @# c y$ ~5 E6 ]1 z" K9 l# S0 ~. |
「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 4 ^/ g. X' I1 x: Y
+ ~0 N) h& N3 _- z3 Y- y% Z 「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」4 E7 f$ G) L# z4 w
5 t7 _6 M/ X& _7 [ 5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。 5 r! b( T d* o( t! h ! ], c" B2 U: a$ x) y0 n3 d) K 趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。 ( B* Q3 F5 [; E3 `4 j% W' k ! g( k8 K# r! B7 f 会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。 / b( f/ P) t3 l( N$ A % _8 @2 U5 }6 l( `+ a/ i, T. D; b+ V 一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。% P' ^& Y9 x; r* U8 Y8 d
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政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 . R9 ?& y( r/ }& G* H$ b' l6 y6 l3 g8 U, d( I
趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。 : L; p6 g5 s" j) [4 q) I/ s; l( {; ], }# F" [3 F" x6 b/ \+ l4 d
「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。 {8 `2 e0 y$ x/ M1 X+ } 9 W8 r$ ^3 l4 N$ U) a 「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」. B2 c' b7 t1 v4 }7 I. n4 U' P
, z# Q0 `7 d! C' a1 o 中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 & E, g1 t5 d8 c$ c6 q ; A; @! O4 S- e2 | 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。 5 g4 E" S/ D' z. C 0 d! p) z( ~( d, o 「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」8 D1 w, g n R% g
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学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。 7 J8 j7 k' G4 N2 d/ b5 R* i" Z; Z& u$ t1 v6 v1 c, c K
趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。6 K2 E6 A5 ~% Q
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会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正) # ?8 q" k& \& Y, N- U" h D0 N/ w$ w, a; s ~% H3 Z& ?' X
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3 O$ j7 ~7 ~% d6 Z% [% F人民日报副总编辑陆超祺的“六四内部日记”指出,五月四日,社长钱李仁通知编辑部,赵紫阳的秘书鲍彤两度来电话,指出赵对亚银代表的谈话极为重要,要求在版面上大加报导。人民日报在五日以头版头条报导这则消息。 : p. }9 ?: V0 x/ H3 t% p, u( E( f+ j, K9 T( @9 Y! C
赵紫阳在五月三日的演讲,四日对亚银代表的发言内容都是鲍彤起草,反映出赵让学生运动迈向结束的强烈决心,若是成功的话,赵将可重回权力中心,出现全面推动改革的可能性。赵紫阳掌握趋势是事实,但是,挡在前面的四二六社论是道很厚的墙壁。- h& G/ @, Y( x. R
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前年秋天前往杭州别墅静养的保守派大老,党中央顾问委员会主任陈云于五月七日回到北京,不久,保守派开始对改革派进行反击。2 X6 s/ \! }/ L' c8 K0 v
$ D2 w+ D! B4 l/ K( V$ `【トウ小平秘録】(20)第1部 天安門事件 幻の柔軟路線 + O* f7 A. u6 i" p- B , N A7 D' I" w( P
■厚い壁、立ちはだかった 6 ^3 d) V" K6 d; N" B5 W b# f3 P/ S+ W$ a
北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。+ G. y0 ^* e6 _# R9 S
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この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。6 W1 Z- O# c; O- ~
9 q6 U, c& F8 [9 A! Z- r N" u 趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。* C) G- y9 z, H8 s
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学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。 8 f! H d5 f. T0 A: ~8 r: `0 `8 r ( l ^9 U& Z# C. d. t 学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。+ y7 e! d7 K# V" x q: E3 @
( ]3 O( Z" |# |7 C9 ~4 F 「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」 5 [4 J. ]3 E; E4 K7 x' _1 \0 d+ H s. v- J
天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。 Z6 ^; e9 @" O9 B" N- \: E3 V( G" ~! V5 y) K4 f- V
張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。 : ~! a2 B8 b6 }" ? ( v, ~/ h: B5 b+ s8 A" J, E その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。% n1 ?* W, v0 x* x* w3 R
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それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。 1 V" [1 t" C- O, l+ n: B5 B' D% r. G( D2 ^: R8 G
趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。, X# M9 X$ `/ c& [) ^& L9 t& J5 D
) p3 F+ H+ F4 }7 x0 E ~ 許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。7 h0 x5 V# ~" O0 y5 K* L. \
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趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。" ?" f/ m1 p' e+ ~
& K& K: x* C+ c3 X6 w 翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。 - L- ~* ?# A, v' ^, J! ?0 ]1 d6 a% R& R* i: f
「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」 + s) [+ t/ ?2 }6 A# j1 a ' \7 r# d3 ~, K I0 q2 d2 l6 k 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。% H! [: c% q6 j5 Q* j
& ~- }$ M6 S* h 3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。. x9 h$ p6 ]% m" t& j' B- t4 e$ h' u
& z; E3 Z. h6 \: G; [# D 許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。 7 U1 m% i* s' c0 y9 W2 c8 Z" @* y( f, C" ]1 d& A9 @
趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 / k9 J6 N" s& `6 c; h H3 H: M: b- r$ O, Y0 c% L
前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正) 6 y* [4 J, i( p8 y 8 }$ R8 b" N: A `2 V& E& ^●=彫の周が丹 2 P$ ^' E T# x$ ]$ d- J6 l' m: W # N A+ _, [5 Q4 C ■新華社香港支社 国営通信社新華社の香港の出先機関だが、1997年の香港返還前までは報道機関としてだけでなく、中国共産党の対外工作部門と政府の在外公館の機能を併せ持っていた。許家屯氏は83年に党香港工作委書記兼香港支社長(中央委員)になり、香港返還交渉に活躍。趙紫陽氏との関係を疑われ90年に米国に脱出、91年に党を除名された。 - A8 R0 ]$ n* b5 k5 q # f5 }6 k# v' b0 w(2007/03/05 )作者: 日月光 时间: 2007-3-6 08:05
邓小平秘录:邓氏曾为民运对策态度犹豫 9 a0 @& @6 _" j t" M9 K5 _- k5 e; F N8 I8 c
(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。8 `$ F" O% n) `& P
2 c9 x2 D* @" d; W& A% W8 T“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。 2 C C3 U6 }" a' B. P, T) S 1 H0 C6 S$ I% p) I# F中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。 1 R6 N0 b* y8 Q 1 W6 m4 `9 Q6 A+ Y) i: D( l$ q五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。 + Q8 D. O; Q a6 I# H" @' X# p( P7 c! L5 i. P9 p
张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。6 r3 F" V* _% s
4 u. `; h4 Z; \9 z$ U+ f' C# p0 P杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。! d4 |% y ~+ {5 {
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当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。" s% I7 h- q1 w. Q! p
/ ]3 A9 b/ B1 S0 e就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。" U3 d# J: g$ I
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【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂: ^! w. S8 D" s) x6 U* n7 O8 a
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6 j8 ]& x" b# e6 H' _4 l& o 中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。 / M9 o( o! ` F : Q& m e2 K8 P0 f 89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。. ^& e" h& T: R8 R( m# A; S# X
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5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。% A5 U1 ]# Q6 n; _5 v; s* U* [$ ^
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これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。. e2 o4 q$ S, w& v
& o7 W. H6 | @8 N 柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。 ( b( T' k4 ^* O: J : {. p8 O$ p4 L& a0 _$ f 「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」 8 @, T& o3 z1 R5 j& w3 O" U7 [' }$ W0 {1 \% i; s* S
張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。 $ e8 N }, i8 o( W, f4 _ W1 E. R. ~1 s, B" H. }4 ^0 B5 y
党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。 7 K% z! M3 {: m: B! {$ D: o' x( [' L: I, g2 d8 L9 n6 z+ `
最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。 # {- \7 h) T; r' b# ~ K$ V" P+ l, g6 _0 R% h8 p$ t/ `- z
9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。3 U9 Y! l+ A& n+ e4 C# Y3 j3 v$ g
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人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。 3 {3 W$ Z8 l$ D2 d6 V5 N/ y 6 e: ^6 N" x% c しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。" E( y O# [% E1 @
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陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。 ' H! L% I; O9 n8 Y $ x. |3 h; R; K" x# B' G1 L* n そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。6 F: e% H( O+ ^& @ }1 i8 X6 Z* L
' [5 j- M' W- w: I3 O それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。* t t! x. e/ ~& c8 _
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「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」% a+ [& e: D1 q% f5 J
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そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」 `$ o. p0 f+ z" N8 ?6 H7 Q0 S0 h1 a' t' p$ w( b
トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。! ^9 M- T# y8 ~
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トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。 ; f. w2 v4 H7 ?7 D9 P $ l' x( T/ Y" e: V) r- s6 H 《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 ' v( U- s8 {) X4 r2 H0 m5 n0 R+ K+ R$ l n/ m" I
トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。 / h) B# D! t( y/ E0 c. _9 O2 T8 ?$ \2 N5 x! n3 K
彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正) ' u% I; V3 M" U) [: X( n 3 w5 Z5 F- g4 F P◇, U# r/ p. }9 R, A. P2 f9 T/ Y$ K
) P6 n3 }; v* P- ] 【用語解説】中国青年報 5 N- I) l0 m+ a ( p2 c- C7 U2 e 共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。 g+ u- c) I6 k# ] a( j ' e/ s( [& P) |! {(2007/03/06 )5 I, U. D! ]; z$ [3 X
7 |7 w7 m) u( \4 K& C' B 既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。) Z5 d1 S8 E, N) A3 u G* }
* m4 E6 A1 M2 l" u" }& B赵紫阳在会上突然表达辞意,薄一波和杨尚昆表示慰留。十八日上午,赵紫阳和李鹏等前往市内医院探望绝食学生后,赵回家写辞呈,但杨尚昆仍然慰留,拒绝收件。 4 H; \$ u4 s) Q; D. i- n5 c% h " L" r: @( f! R赵紫阳在一九九一年对友人宗凤鸣指出,他的辞职是不想在历史上留下丑名。他的发言显示已看清楚戒严令势必造成动武。他后来在接受访问也承认,向访中的苏联共产党书记长戈巴契夫透露“邓氏是最高决定者”的党秘密决定是造成北京下戒严令的导火线。 g! L: e# \& L; x # V0 x0 B. d4 g( s; s; x. f( O党秘密决定暴露后,知识份子和学生对邓小平的攻击一天比一天激烈,邓小平想必重新忆起文革时代挨红卫兵批斗的恶梦。毛泽东指出枪杆里出政权,邓小平也示意经由枪杆来保护政权。 , F6 P- I/ H C* a# t! x9 G6 R, h
【トウ小平秘録】(24)第1部 天安門事件 趙紫陽の失脚 0 P3 q. V$ a A/ U+ K 3 c* R3 A/ y6 l, }/ ^6 O北京の戒厳令と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)失脚が事実上決まったのは1989年5月17日午後、北京中心部にあるトウ小平(しょうへい)氏宅で開かれた会議だった。「トウ小平年譜」は政治局常務委員会拡大会議とし、こう記している。- @- d, u9 V; R; K
. q5 O% o# g! e. {$ Q7 R' n5 W$ R/ T
「席上、多数が当面の情勢は極めて重大であり、決して譲歩できないと認識し、譲歩を主張する趙紫陽の意見に反対した。会議は北京の一部地区で戒厳令を実施することを決定した。トウ小平が講話を発表し、常務委員多数の意見を支持した」7 t6 x* L1 e. x
5 t5 M1 H' _9 p. U# ~" n+ @! V 文中の「譲歩」とは、学生運動を動乱と定義した4月26日の人民日報社説の撤回ないし修正を指す(以下のやりとりは各種資料による)。 S7 P3 b) y& L3 f& u
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会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。7 e0 f c `4 X
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「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」 6 a0 }4 X# z% H) d0 Z" x$ N- g/ L. o/ _% H3 i3 K, t1 U. N6 S, @
それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。- R( d. S5 h: X
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トウ氏が言う。2 T% D! Y5 T6 X! H+ N
8 i9 [4 m& m( s; Z# v% u- K 「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」 ) E" m2 l; c" O& Q9 q( F6 X ! P. `" A( }$ a ~ 沈黙していた趙氏が発言する。 ( g6 \- j9 [4 M 1 s0 X) B( C( c1 F# E4 H6 e 「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」 # O2 `( N, h u6 e+ I. Q$ b: g $ }* |, @ I9 f" J# e& ^/ Y 「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。 ( [1 x3 C9 W" I) O; k 3 K$ ]1 P$ T4 X その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。! Q' M9 E+ o! b' A1 C
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トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。 7 V/ O/ ~/ U* w1 B. T1 `* I. m0 J h2 R9 \; f/ j
オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。 8 q' b" l1 ^. k8 m* H( X; C , g; l. u1 \" r5 r; D0 { 賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。 # v% R* b: q" V9 M* q" N # w/ L. M8 D1 _7 P' r! G4 a+ L8 t 趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」 4 M0 R t, R* s+ v $ q$ u, q% p8 l3 X ~ 薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。 0 q: f% X4 Z8 ?$ K7 o6 W ( E. ]- u, u7 S 趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。 8 @8 x' A% C0 I% x( T2 h5 k* T/ i \2 v
趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。3 T5 R( ~& h) v2 c s( X
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「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」 " f$ k- y8 c& v9 V2 y$ a* a- j- a; G" k" k( Z* M
戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。+ @- ]4 M" U+ N6 N( D
) Y7 \+ Y- V. O さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。 * O- K- W8 L+ o, v; L: K( p5 }8 i3 o 7 a+ t) d& n. g+ n* G4 ~6 O k 権力者の通弊として、トウ氏も自分の評判には神経質だった。趙氏によると、84年10月の建国35周年に、行進する人々の掲げる「小平、ニーハオ(ご機嫌よう)!」のスローガンを見て、トウ氏は非常に喜んだという。トウ氏の人気絶頂期だった。# P2 u, T1 t: v- O2 L+ _+ }
" L$ h5 U' y: H+ O; M" C3 u4 T# g 秘密決議暴露後、トウ氏攻撃が始まり、日々激しさを増す。特に17日昼に発表された知識人グループの「5・17宣言」は強烈だった。中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏が起草した宣言はこう述べている。& s. _& W1 C# R9 o& ~+ c
! ~# D' t) g) [0 X( a! r 「清朝滅亡から76年、中国にはまだ皇帝の肩書のない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる。趙紫陽総書記は昨日午後、中国のすべての重大決定は、この独裁者を経なければならないと公表した。老人政治は終わらせねばならない。独裁者は引退せよ」 * g# H, G: B8 w& y" M + [3 z* ^# J' L) W トウ氏には文革中に紅衛兵につるし上げられた悪夢がよみがえったに違いない。趙氏によると、文革で身体障害者になったトウ氏愛息のトウ樸方(とうぼくほう)氏は「われわれは外出できない。学生にミンチにされる」と話していたという(「中国改革年代的政治闘争」)。- F" z. B! v, m5 N
m i, ?+ g4 ^
「政権は銃口から生まる」(毛沢東) 5 C: H W( p( X) i( I 0 y' r3 k9 z" m+ b l, g 政権を守るのも銃口であることをトウ氏は示そうとしていた。(伊藤正). J* ^" j- o. U! I- F
$ t, F' E1 V2 Y- ~/ R7 ?' K◇ 6 [4 j) ]0 R0 ~4 z 1 ^: ?5 M' V; N! o. q【用語解説】政治局常務委員会 ( y, i: Y, n; A6 S+ | - l& R4 A$ ]5 ^; l |; u8 h. m( |0 B 中国共産党中央政治局のトップ5人(現在は9人)で構成する最高指導機関(筆頭は総書記)。拡大会議は正規メンバー以外の指導者も参加する会議をいう。「トウ小平年譜」は89年5月17日のトウ氏宅での会議を政治局常務委拡大会議としているが、これは参加資格のないトウ氏が戒厳令決定を主導したためとみられる。87年の党中央委決議により、楊尚昆、薄一波両氏は常務委にオブザーバー参加できた。 - }, g: b& |0 T( z4 E" y* L* E4 p# q. c" t* \9 ^" z' u R
(2007/03/09 ) y2 P- x% f8 K$ ]; ? 9 I$ J/ \4 G1 U5 A: k" ]$ H+ I! f- c- ]1 M4 J4 M# N# M
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1 u. L& N; `& ?/ T& q7 E 3 M* O, o7 _8 ? X/ W4 ?$ t& q3 s$ B# W& [( g! G I
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" u6 z) n) O, x, s7 w 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。$ @$ P, c. z A. x6 m; j
/ z) L9 Y6 j2 _" x 「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。7 K" ^4 M S' O# p/ K0 O
$ K. O" ?( F5 I: U7 D! l, H; W
「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。 $ [7 S4 v) r4 ^% E. W4 d$ j, Q9 ]1 ]- n4 O% ~ A' K0 u4 j
「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。$ k1 o% y( v, F! u$ T
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「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」 9 I, y. C3 ~" m* D q 7 p2 @% i- ?4 \ 党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。9 w! z6 Y1 s% Y- t
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一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。 8 ]: @+ o* \" R4 |. l# H 8 z1 z" ?* A- g5 Q" w7 a そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正) $ f0 q( d5 a9 H0 }; z9 R' u3 O5 J1 j, Z t' }$ N7 w# ?
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【用語解説】戒厳令' N6 x; T6 H. d x
) l8 d" W4 j0 G& b2 S0 @- V 3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。 2 w5 W$ u o: E' H$ R: z9 L5 j9 L' p. J" W: C' L$ s
「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」8 ~* _$ \4 w6 c8 k# D+ C
1 @- g8 D4 h" f 情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。. F' ^2 W6 L. E: o: ]
6 H5 ^: ?' h6 _; I1 U* } 3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。 , q7 ?! ~2 D9 T8 K8 }( Z. p% x9 E1 l' x: W+ {3 s. O/ T$ Y
新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 0 C# v7 [" a) g* D3 }$ K' X; j% n' x/ p- z# e% ~" n
3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。 {0 s2 D5 B' ?9 B: W2 t3 h+ `, I7 d
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張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。 k/ |# N8 v# }
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李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。 ; S$ Y! u/ I$ B9 k4 t3 o ( B$ y: ?2 @0 g 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」 : f0 l# F& X, T# y; O4 c- \ m 5 k. L2 o2 w- o1 b( u3 c4 R9 z 楊氏は最後にこう念を押した。 ; Q- }+ Q/ y$ R) K; m2 E" s) d5 ~1 R/ K8 H" F
「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」) ^ ~5 H; \5 ^: n( H, {
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会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。6 ]4 [$ r% \7 R. h* [$ k1 x
' s$ h; {* ^3 I 3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。; h1 ^% K5 {7 w2 R! X: w* I
$ {8 t3 \" ]+ U 当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。1 V1 ]- x2 Y7 I( d9 J
u L/ v) i7 B; d, {# N9 @
そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。 8 b; E% G) M1 I9 H5 C8 Z, B( n ' z- _+ s: n% W6 E1 n 午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。 ; |# ^9 C7 O$ g D' v8 R( r8 I6 Z& @ 支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。 , k! |, A7 [0 l/ G7 B9 _6 j% U+ Y! F7 M5 \/ }* h. `( X
「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」 3 b- V, k2 c, H5 |( u6 o; t1 s 6 a5 l* K) e" J) e. \. Z 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。 4 Q e9 p" q: d ) Z( P i# y9 m' g! E0 Q8 ` 「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」 4 T2 z) ~( q2 v7 q1 ^# L0 d& H- r. a6 F" ]1 ~
その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。 : p* }9 g. s/ I5 d2 h) S. i3 t" C . P! y$ U8 c# t; |$ H3 D 「これは本物の戦争だ」(伊藤正) " L$ A5 i, T1 I# c/ c, b 9 g) z0 G; w% G ■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。 * a/ ?! S' d5 ^9 g H& X. @* i1 h9 C- ~! B5 w w
(2007/03/16 ) 7 v4 u% g" t+ [3 {- W: r5 d # h% H% g0 u7 p* K, u8 R& |[ 本帖最后由 日月光 于 2007-3-16 08:43 编辑 ]
" Z% K: v6 ? L5 O* H' h不久,出现数辆的装甲车,由扩大器警告学生退出广场,预告将使用武力。侯德健等提议由发出声音来进行投票,因赞成占多数而决定撤出时已是四日清晨近五时。所有学生完全撤退是在清晨五时半。 3 z( S3 \9 e1 X 4 [. g+ y, a3 J$ V$ s天安门事件的牺牲者人数有各种说法,总理李鹏在一九八九年九月对访中的已故自民党干部伊东正义指出死亡者三百十九名,包括十数名士兵。其中,学生有三十六名,大半是市民和劳工。; c% O; y: P. [1 P: N; }2 w- A
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「天安门广场连一人都不准杀」的邓小平和杨尚昆的指示被遵守。中共当局重覆否认天安门广场的「屠杀」,当时在现场的记者也未目击牺牲者,但是,广场的周围有许多的伤亡者。1 K. m; t: G: ^/ U
9 J: {% V& `& E7 N; B; \天安门广场随后由数十辆战车占据,六四以后,北京市民也继续抵抗,不时传出枪声,各地出现抗议示威,外国政府也相继发表谴责声明。 " @$ m' R3 H8 D* D/ O% @3 C2 |" F: P* @% w- r q3 W
邓小平于六月九日接见戒严部队干部,脸上浮现笑容,显出心情愉快。天安门事件后,邓小平在家里闷闷不语,开始重抽数年前戒掉的香烟。当时,他已八十四岁,决定由政治全面引退。他对自己说,武力镇压之外没有其他选择之道。# k! P5 y( h8 O& z4 U& `
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【トウ小平秘録】(31)第1部 天安門事件 6・4未明; j2 e* Q' Q; U2 r% z b$ G
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1989年6月3日夜から4日朝までに北京で何が起こったのか。膨大な資料、報道、証言があり、映像がとらえただけでも、近代史上まれにみる大規模な武力鎮圧事件だったことが世界中に知れわたった。% d6 U6 U7 E2 F W" W2 N
6 | _( V8 {5 @: a6 r9 x 前回書いたように、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は6月4日の日記に「本物の戦争だ」と記した。爆竹さながらの激しい銃撃音を耳にした人なら、同じ思いをしたはずだ。ただしこの「戦争」は、正規軍と武器を持たない市民との闘いだった。/ Q5 _8 @, I5 t5 G
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張良編著「中国『六四』真相」によれば、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)は「武器の使用を極力避けよ」と指示していた。それがなぜ発砲する事態になったのか(以下は各種資料、証言による)。 2 v' i" w3 Q% @6 D+ T) J/ x$ A, ~/ J1 w2 n, s5 O
第38軍(河北省保定)を中心にした北京軍区主力が、装甲車を先頭に天安門前に1番乗りしたのは4日午前1時すぎだった。3日夜9時すぎ、西長安街西端の公主墳付近を出発、天安門までの約8キロを進むのに4時間を要した。激しい市民の抵抗を受けたためだ。% W5 g) ?& B& z1 L" J3 j6 s
, ]6 S( A$ V/ X3 Y6 u( u( K 最初の「衝突」は公主墳の東2キロ余の木●(もくせい)地で、市民側はバス、車両を並べてバリケードにして放火、火炎瓶やレンガ片などを投げて抵抗した。# @+ g. [; w, L9 h
- B& P! n. s( n( O" N: C' g/ Q 部隊側は、午後10時20分ごろから発砲を始めた。以後、復興門、西単、六部口で市民側の抵抗を受ける度、発砲を繰り返し、天安門前でも同様だった。- M, R: K& k. N! M9 o- j; v
1 B: p. m; Z# x4 ?+ R7 s5 g- G+ M 一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。 _7 W8 J& G# @/ } 2 ?5 d. k Y' x' w; c 第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。 4 h8 j- z, ^ T m5 h# \; I : O: I) ]7 }/ y 天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。7 u# u ?% d- e U, m b
1 b# j5 _. u0 {1 W- U# J* F それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。$ q' i% n) K8 d
# x. V1 B3 J# W( z# } 午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。$ e, s) z8 f3 c! }6 B
" @2 \- I& }; [) |% V 学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。4 [- R0 _: d3 }2 H2 ^" C4 ~" c
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「裏切り者!」 ' G6 q5 K2 S" o: I7 r6 ?$ R' v' d, U, i& Y; {* t
「さっさと消えろ!」% M$ `/ a4 n# a9 ?* l1 M4 ^5 E9 }1 V6 q
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劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。3 N7 i7 W* S+ G; c& b# ^9 w7 f5 V
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すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。 6 q1 v6 n; Q8 X- L4 O* v. H3 a9 _- o
天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。% q# I8 T. K& b( {
4 _& n$ E0 \9 H 「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。 6 x8 `2 {3 U# P" x h) v. C7 t& l2 g2 s, ]; v$ O; y! s% H( ~" c
天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。1 x" r, r- U/ g
1 |8 L2 @) `* f; O トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。7 I% p' d. }: m# n* |/ M
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しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。 # V& R( h. S/ I0 F! Z: e+ X% c. Q x; a5 N6 G/ K5 ^6 n
「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した」 7 m- T3 n9 K% i1 C& E5 H8 \$ r5 w; I( I0 [5 u
その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。 j: T* u: M: p
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(伊藤正) ! W. c/ w! U! \) u 4 u8 w! f, ]) G, s2 N●=木へんに犀6 L" B) c+ }! a6 g2 O4 F
1 S$ {$ S! s, ?% E! x8 w◇( _, [0 R/ J1 d# y6 g
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【用語解説】人民英雄記念碑 ; i& L- n: [8 Z) r* I, Z % O4 u, v7 Q/ b 天安門広場の中央部に位置。19世紀のアヘン戦争以来の革命闘争で犠牲になった英雄をまつるため1958年に建てられた石碑。高さ約38メートル、基壇は南北61.5メートル、東西50.4メートル。碑の正面には毛沢東が書いた「人民英雄永垂不朽」の文字と、背面には周恩来の書いた碑の説明がそれぞれ刻まれている。訪中した外国の元首らが献花することも多い。! ]2 ] P* \' ]$ L- d
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(2007/03/17) 3 v5 {2 f3 v' M9 ]) j* ]1 o2 Q8 x7 o1 i+ A% N4 o3 v" \ g
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* l1 v* g* J* y邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。 , W$ d' l& M( z# ?# t& P 9 f. M3 C, U$ s5 N5 q# X7 y% X+ l一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。$ E' W Z2 O" o/ ]" @" L
! t9 i/ `% N" I( Y# g1 i8 m邓小平推动的改革开放政策是以市场经济化和国际化为基本的经济建设,与毛泽东路线是不相容,但是,他坚持的四原则就是毛路线,特别是核心的「共产党领导」的一党独裁是毛遗训,成为保守和改革斗争的种子。3 p( p, E+ N; Z B
4 Y' x0 N( Z' \0 U }& @一九八零年代,中国的经济和社会出现激烈的变化,人民意识思想倾向欧美,但是一旦发展成为对党的批评,邓小平和保守派联手以四原则为盾牌展开镇压,为的是坚持政治权力和生活特权的金字塔型党统治制度。/ `" ?# |& A( V. c- k+ Q
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在一党独裁的制度下,一九八零年代官僚腐败大增,一九八九年四月胡耀邦去世后引发的学生运动除要求民主化,也反对腐败,邓小平等元老和李鹏的保守派将之视为企图颠覆党领导体制的挑战。 ' t, |2 ?/ o" Z! x7 ~& }1 p7 T/ p& w5 ^" C4 L8 @1 }# a
天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败的运动被卷入保守派和改革派之间的权力斗争,不少人认为邓小平是被保守派的谋略所利用。邓小平为何对民运决定使用武力?尚有值得检验查证之处。 P5 s; B3 c; X4 j) t. I( s" L* q
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【トウ小平秘録】(32)第1部 天安門事件 独裁堅持: X/ o, I1 a" a5 s/ s: p
( y' r8 a$ D7 p 1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。" E! k2 L$ h0 S5 S0 ^
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胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。 ( ?5 Y8 D8 s' Z8 d6 p" O3 `3 }+ t7 ^7 K# U
トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。 1 o1 m& i; d# B) G- v ' e, d1 e* u% {: h1 r5 k y! k# U 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻): ?" z8 q* x9 o2 u9 x% A+ j" u
) T3 H+ ~' A; i+ n- |; f' y# G' t2 E その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。 5 c; ?& g* i* K/ r$ i) A; V: G1 ^0 J; Z1 A# C C
トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。- V2 V* [1 v7 U! C
" D/ ^4 [* a; ]& P8 M) a( [9 k 「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」 0 C# J% [+ `% t. X * }" U% Q3 b9 A% `4 p% y 「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。 # n- O# Q, l; \5 A% r ?$ \( I, i: ~/ `
89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。 2 t# K$ z$ N Z, N) @2 A/ K( K9 d; H* X2 x8 K4 {8 J( f3 J/ Y
トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。 8 Z# }6 Q! Z; ` F. L- I4 L: f6 L3 n- L4 F' ? W% N. K8 z
「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」, h: N/ y& L: [
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毛沢東遺制は守った5 s: I9 ~& b% h5 h" O/ x
p& O. X3 n3 i: L$ b* c トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。 9 x$ w5 w$ P' e! D$ H z" M: I; C8 V9 ?9 N0 X1 o: w. l
改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。# }3 _6 o' ~1 K) c' L+ f
9 o7 w" n$ O# k/ P o: }9 y. h2 C 張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。 2 O ]1 U& w1 U' a+ \ t/ ?9 X, ^1 z% E 「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」7 w! ^, M6 [" v
7 @6 p5 n+ g; z, B, Y- S/ S9 Q8 T 今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。 ) ^9 x$ I7 y) | 1 e1 b( q( o* o' G しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。 ' K( D& n0 M" z7 T ' y* B" C9 ] k$ x5 `/ O7 Z その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。 H& o$ X) `% x0 @ : l- ?/ e1 F3 v+ H$ q* @/ u* w 89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。 9 ~3 H' i5 n8 w# _/ P2 H+ S3 k, K
天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。$ c( Y7 w$ m6 L5 J% w2 q
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トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。 6 P3 Z3 L5 C2 j9 g9 O! z9 H8 U6 K8 S7 g( Z/ y- `7 H7 f
(伊藤正) ! i. b1 }; Y# P \ G3 [$ _. O- J7 @
=第1部おわり ! J' x! p9 i* h$ f( [5 q4 f, z" N2 P/ t( _5 r
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■伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。) i- P. ^# q( c' Z+ C, f8 {
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(2007/03/18)
+ G O3 N- k/ ]( V( L 「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」5 X0 j: e/ o" p$ W, }
, A d; S/ b4 M w 「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載) 6 }& M3 F% B/ s 8 s7 i: w% Q& U, z9 p5 r% B 天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。/ L% N9 L/ ?7 P) h0 x5 f- w$ w/ {
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雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。 / r. @7 d% i$ M: ?7 V( S2 c) @( {" p/ A
しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。1 `0 x! k% b$ Q7 M: P2 D" A' r) Q0 Q
& l8 V0 j' a" w+ k8 z その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。 : [5 }7 u6 d3 I: ^* B3 E7 j! P 7 X; ^9 m6 K- }0 S u6 \. k 米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。 / V m* d+ m# M 7 S# q: e3 M4 M% A6 p3 c* t4 C/ u 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。 L- ^$ T" v' E! W7 ]) K n0 z. g! H: S
米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。 & |- \* T9 n+ o6 x% S9 j ?( O" G* J6 ^' R$ Q+ L8 L
79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。* _* j& c2 U4 z1 R4 U
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弾圧も正当化される" d. p: i% R" r
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外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。5 y# U6 m; q( b2 v( n5 ^; t
+ S( A% g% @) U+ `+ N 後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。 9 t8 P7 O7 T, o9 v 9 W P% G% M N" x" b. k 理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。 + R! I9 @5 b$ G# z k9 a3 _# a8 I c& H: Z
「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。 1 D! V8 g2 v7 `6 H . ^; R1 O" U& I+ I そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。0 d3 A4 P0 D6 Q5 H6 ~* B
( i* ~+ V( f! M( A" \, A, _& J (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。2 U3 y3 I) D9 ~3 }- H
" L" N ]& R* z3 a0 J9 d- C これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。 . M& q4 t$ Y. @+ P! j ! e4 N: X# ~: v8 S 理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。( f0 o" Q c' M( [
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天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正). N4 H/ d- z, L# h; _$ a
! z) ^6 P% I; X5 H
■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。 : n$ ~6 W" d, f( c# K: l7 ?# M$ k1 r0 B9 s, X" |* ?